恋愛アンチ女の敗北   作:百合書くぞ!

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承:地上戦

 

 

 

承1:差し合い

 

 

 

ーーー

 

 

 

「私、文武両道な人が好きなの。体力テストと期末テストで学年一位を取れる人じゃないと、付き合えないわ」

「分かりました!」

 

 残されたウソは学校の成績だった。

 

 別に成績がトップだろうがドベだろうがイツミは気にしないし、あらゆる脅威を跳ねのけた超人後輩ヒナがこの程度でめげるはずはない。実際四月中の体力テストで、ヒナは小さな体躯のハンデを軽々乗り越え学年トップの成績をたたき出し、あらゆる運動部から熱烈な勧誘を受け、天才現ると騒がれているのが二年の教室まで伝わってきた。

 

 しかし学力は別だ。期末テストの結果を問うことで、学期末までの時間を稼ぐ。イツミはたっぷり三か月かけて次のウソを考えればいい。一目ぼれの幻想を破壊するためのウソを。

 

 その間はヒナと顔を合わせる理由がなくなる。放課後に校舎裏へ呼び出されることなく、直で家に帰れるともくろんでいたのだが──

 

「せーんぱいっ! 一緒に帰りましょ!」

「バカな」

 

 ヒナは校門前で待ち構えていた。

 

 友人である友莉の自宅は高校の目と鼻の先にあり、校門を出ればすぐに別れる。実質帰りは二人きりだった。

 

「○○先生の雑談癖すごいですよね。当たりはずれの差が激しいっていうか」

「滑らない話のお手本みたいな話もあれば、お通夜より静かな空気になる話もあるのよね。特にクリスマスチェーンソーと学年主任サンバ事件の話は伝説よ。もう聞いた?」

「何ですかそれ超気になる! 教えてください!」

「ダメよ。どっちも○○先生本人が語るから伝説なの。話してくれるまで我慢、我慢」

「えーっ!」

 

 話題は尽きない。個性的な先生のこと、授業の進度のこと、部活のこと。話を振るのはヒナからが多いものの、聞き上手なヒナの反応に気を良くして、しぜんとイツミの口も軽くなった。イツミの自宅前で別れるまで二人は和やかに談笑を楽しむ。告白や一目ぼれの絡まないヒナとの交流は、存外に悪くない。

 

「先輩? どうして目を逸らしたんですか?」

「なんでもないわ。そんなことより、教頭の前職がフリースタイルラッパーだった話、興味ない?」

「露骨に話変えられたけど気になりますっ!」

 

 気がかりなのはヒナのツインテールを結ぶさくらんぼのヘアアクセだった。さくらんぼを見ると、苦く寒い記憶が頭をよぎる。不意に焦点が合いそうになるたび慌ててそっぽを向き、不思議がるヒナの気を別の話題で逸らさなくてはならなかった。

 

 そうして一週間ほど経ったある日。

 

「空竹イツミさん! 一目ぼれしました! 付き合ってください!」

 

 男子生徒に告白された。

 

 登校すると机の中に手紙があり、その内容に応じて放課後校舎裏に来てみれば、待っていたのは三年生。名前も顔も知らないがおそらくイケメンのカテゴリーだ。

 

 三年生の男子生徒は何らかの前口上を述べると、腰を折って告白した。

 

 ヒナの他に告白を受けたのは実にひと月ぶりだった。嘆息しつつ、好奇心が湧く。

 

「実は家に借金があるの。利子込みで一千万。恋人になるなら、払ってくれるわよね?」

 

 ヒナが冷静に設定の粗を指摘し、そして痛烈なカウンターを放ってきた定番の借金ネタ。これに年上の男はどう返すのか。

 

「い、一千万!? 払えるわけないだろ! どうして恋人になるだけでそんなことしなきゃいけないんだ!」

「一生を添い遂げる覚悟があるから告白したのでしょう? だったら私と同じものを背負えるはずじゃない?」

「支離滅裂だ、ばかばかしい。そのツラでなぜ浮かれた話もないのかと思っていたが、納得だ。まさかここまで頭がおかしい女だったとはな!」

 

 男子生徒は吐き捨てて、荒々しい歩調で校舎裏を去った。

 

 残されたイツミは、納得してうんうんと頷く。

 

「これが普通の反応よね。うん、安心した」

 

 中二で思いついて以来、何度も見てきた反応だ。現実的な重荷をちらつかせるだけで、恋は冷める。今のように激怒するか、空々しく笑って逃げるように消えていく。やはりヒナが異常なのだ。

 

「あっ、空竹先輩! 先生にお説教でもされてたんですかっ?」

 

 校門で待たせていたヒナの元へ行くと、ヒナはとことこと近づいてきて、上目遣いにイツミの顔を覗き込む。

 

 少しあざとい仕草と声。なんだか妙に安心して、ヒナの体を軽く抱いた。

 

「……!?」

 

 小さな体が腕の中で石のごとく固まる。シャンプーか柔軟剤か、甘い匂いがした。

 

 数秒の抱擁を終えて離れると、ヒナは耳まで真っ赤になっている。

 

「なっ、何!? 私今日死ぬんですか!?」

「大げさ。ただのスキンシップでしょ。ほら帰るわよ」

「あっ、待ってー!」

 

 その日は別れるまでヒナの顔がほんのり赤く、受け答えもしどろもどろだった。完璧超人に思えたヒナの弱点はスキンシップらしい。

 

 恥じらう表情が新鮮で、イツミの記憶にくっきりと刻まれた。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 六月初旬。異質で異常な後輩の一目ぼれを破壊する方法は、まだ見つからない。

 

 しかしヒナにばかり構ってはいられない。両親が共働きのため、家事炊事はイツミと姉の仕事なのだ。買い出しと作り置きをまとめて済ませる土日は、特に忙しい。

 

「買い物に行ってくる。お姉ちゃん、雨降ってきたら洗濯物入れてね」

「任せたまえ」

 

 昼下がり、留守番の姉にそう言い置いて、曇り空の町に出た。向かう先は行きつけのスーパーだ。

 

 ママチャリを飛ばし、切れかけていたしょうゆ、酒、みりんの大ボトルと特売の野菜、肉を購入する。頼りになる電動自転車なので、重たい荷物も苦にならない。

 

 天気が崩れないうちに、全力の立ち漕ぎで帰路につく。

 

「くっそー……」

 

 が、ダメだった。鼻先に雫が触れたと思った次の瞬間、バケツをひっくり返したような大雨が降りしきる。

 

 タバコ屋の軒下にどうにか避難したときには、上から下までずぶぬれだった。

 

 ごろごろ、と遠雷が鳴っている。住宅街が雨の飛沫で白くけぶる。しばらく止む気配はなさそうだ。

 

 濡れてダメになる商品はないし、いっそのこと雨の中を突っ切っていくか。

 

「うひゃー濡れた濡れた」

 

 そう考えていると、狭い軒下に小さな人影が入ってきた。

 

 さくらんぼをあしらったヘアゴムに、聞きなれた声。

 

 濡れたタオルで顔を拭い、髪を絞る彼女。じっと見ていると振り返り、予想通りの顔に驚きの色が浮かんだ。

 

「先輩!? わあ、奇遇ですね!」

「そうね」

 

 心底嬉しそうに笑うのは異常な後輩こと、ヒナだ。

 

 制服姿しか見ないヒナは、紺を基調に赤の差し色が入ったジャージを身に着け、トレードマークのツインテールを後ろで一つにくくっている。

 

「先輩の私服姿初めて見ました! かわいいですー!」

「ありがとう。白戸さんのその恰好もなんだか新鮮ね」

「あんまり見ないでください! どうせならもっとかわいい服のときに見てほしかったなー」

 

 不満げに唇を尖らせるヒナ。その服装でもちゃんとかわいいわよ、と言いかけたのをどうにかこらえた。そんなのまるで口説いているみたいだ。

 

「走り込みでもしてたの?」

「はい、日課なんです。先輩はお買い物、です、か……」

 

 ヒナの声は尻すぼみになり、掠れて消えた。その視線は一点に釘付けになっている。

 

 目で追ってみると、その一点とはイツミの胸だった。シャツの薄い生地がぴったりと肌に貼りつき、丸みのある体のラインと、姉のお下がりの下着がくっきり透けている。

 

 人前には出られない恰好だが、ここには同性のヒナしかいない。何を驚いているのかと首を傾げると、

 

「えっちですっ!」

 

 ヒナは突如ジャージの上を脱いだ。

 

 イツミに半ば無理やり羽織らせ、顔を赤くして叫ぶ。

 

「何平然としてるんですか! 先輩みたいな美少女が外でそんな恰好してたら事件ですよ!?」

「ふぅん」

「ちょちょちょ待ってくださいなんで私のジャージの匂い嗅いでるんですか何何怖い!」

「あなたの匂いがするなぁ、と思って」

 

 近づくとふわりと香るヒナの匂い。それが雨と汗と混ざり合い、独特の香りを発していた。ジャージの襟をついつい鼻元へ持っていく。

 

「し、仕方ないじゃないですか! 人間ですよ!? 汗の一つくらいかきますもん!」

「別に誰も悪いとは言ってないわ。どうしたの白戸さん、いつもの五割増しでうるさくて面白いわね?」

「誰のせいだと思ってんですか!?」

 

 細い腕をぶんぶん振り回して抗議するヒナ。最近イツミが学んだこととして、照れて恥じらうヒナは面白くてかわいいのだ。

 

 くすくす笑ってその様を堪能していると、ヒナはがっくり肩を落とした。

 

「この人は本当に……くしゅんっ」

「大丈夫? ごめんなさい、ジャージ返すから……くちゅん」

 

 くしゃみがこだまして、二人は顔を見合わせる。どちらともなく苦笑した。

 

「よく考えるとジャージもびしょ濡れです。意味ないですよ」

「それもそうね。どうしましょう、二人乗りして私の家まで行く? このままじゃ風邪確定よ」

「先輩のおうち……!」

 

 目を輝かせるヒナ。次いで、迷いを断ち切るようにぶんぶん首を振った。ポニーテールが鞭のごとく揺れる。

 

「雨の中二人乗りなんて危ないです。私の家にしましょう。自転車押して行ってもすぐですから」

 

 

 

ーーー

 

 

 

 ヒナの家は言葉通りすぐそこにあった。

 

 雨の中自転車を押して進むことおよそ二分。時代劇の奉行所めいた和風の門構えの前で立ち止まり、ヒナがナンバーロックを解除する。大きな門の傍らにある勝手口が開き、二人は中へ入った。

 

「ここ家だったのね……」

 

 その家、というか土地は、イツミの生まれ育った白戸市白戸町のちょっとした都市伝説だった。

 

 住宅街のど真ん中に高く長い塀がそびえたち、かろうじて見える内部にはよく整備された木立と竹林、古風な寺のような建築物がある。何のための塀と土地なのか誰も知らず、何らかの史跡か自然公園、博物館であると言われていた。

 

 それほど広大な土地が、まさか人の住む住居だった。それも後輩の家であるというのは、イツミにとって衝撃だった。

 

 自転車を入り口の脇に停め、カゴのエコバッグを持ち上げる。隙間なくぎっしりと商品を詰め込んだそれはずしりと重いが、生鮮食品もあるため放置はできない。

 

 どうにか肩に引っ掛けようとしていると、荷物が突然軽くなった。

 

「半分持ちますよ」

 

 エコバッグの持ち手を片方、ヒナが受け持ってくれたのだ。身長差のせいで重みを支えるのに苦労している。健気な気配りに、雨で冷えたイツミの体がわずかに熱を帯びた。

 

 旅館か料亭を思わせる玉砂利と飛び石のある中庭を進んでいくと、やはり料亭めいた構えの建物が見えてくる。

 

 その建物の扉が開いた。傘を差した和服姿の女性が数人出てきて、ヒナとイツミの上にかざす。ちなみに傘は普通のビニール傘だ。

 

「おかえりなさい、ヒナさん。災難でしたね。お友だちも」

「ただいまです、ウメさん。お風呂と着替えの用意をお願いします」

「もうできていますよ」

「すみません、この荷物預かってもらえます?」

 

 イツミがエコバッグを差し出すと、女性──ウメさんが愛想よく「ええ、もちろん。お遣いですか? えらいですね」と応える。イツミとヒナが体全体で抱えるほど重いのに、片手で軽々と荷物を受け取ってくれた。

 

 二人は玄関先で軽く体を拭き、中へ。長く幅広い廊下がどこまでも続き、左右には襖やら障子やらがずらりと並ぶ。ヒナに案内されて廊下を進んでいると、道中には謎の台の上に電話や高そうな花瓶が置いてあるのを見かけた。ドラマでしか見ないような豪邸らしい光景に、イツミは目を輝かせる。

 

「わああ……! お金持ちの家! ねえねえ、ボルゾイとかドーベルマンとか居ない?」

「犬は飼ってませんよ。猫ならいます」

「ペルシャ猫?」

「アメショーです」

「マイナス五十お金持ちポイント」

「ええ!?」

 

 謎の減点方式に戸惑うヒナ。

 

「えっと、じゃあ……さっきの着物の人、ウメさんっていうんですけど、私が小さい頃からこの家に勤めてる使用人さんです」

「プラス百億お金持ちポインッ!」

「採点基準壊れてません!?」

 

 アホなやり取りをしつつも、迷いなくすいすい進んでいくヒナの後ろについていく。角を何度か曲がり、すれ違う使用人にただいまの挨拶をして、ようやく浴室と思しき場所にたどり着いた。

 

 脱衣所に入るなり、ヒナが妙なことを言う。

 

「先輩はここを使ってください」

「あなたは?」

「使用人さん向けの浴室があるので、そっちを使います」

「まどろっこしいわね。一緒に入りましょうよ」

 

 読み通り、ヒナは再び顔を赤くした。

 

 考え方と行動力がイツミの想定を超えがちなヒナだが、ある一点においては極めて単純だ。

 

 その一点とは、イツミが好きであること──主に性的な意味で。だからイツミにとってはなんでもないスキンシップや濡れた姿を見て慌てるのだ。

 

 手のひらで転がしているような優越感がたまらない。

 

 いたずらが成功した子供のごとく忍び笑いをしていると、ヒナがジト目になった。

 

「先輩、ヒナをからかってませんか?」

「そんなこと、ふふっ、ない、ないわよ。うふふ」

 

 ヒナはぷくっと頬を膨らませ、イツミを睨む。拗ねた小学生のように愛らしい。

 

 やがて吹っ切れたのか、ヒナは濡れた衣服をすべて脱ぎ捨てた。洗濯機に放り込み、挑戦的な視線をイツミに送る。

 

「分かりました、入りましょう。先輩も速く」

「そうこなくちゃ」

 

 何の恥じらいもなく全裸になり、堂々とした足取りで浴室へ入って行くイツミ。

 

 少しは慎みを持ってくださいよとヒナが言うのを聞き流して、二人は広い浴槽でゆっくりと体を温めた。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 用意された着替えを身に着け、二人はヒナの自室へ向かう。

 

「ちょっとウメさんと話してきます。ゆっくりしててください」

 

 ヒナはそう言って席を外し、イツミはヒナの部屋で一人待つことになった。

 

 部屋の第一印象は、広くて清潔。イツミの部屋の倍ほどの広さがあり、四方のうち二つは壁、もう一つは廊下に面する襖、もう一つは縁側に通じる障子という作り。畳の上にラグが敷かれ、その上にベッドと机、本棚とクローゼットが整然と配置されている。

 

 本棚のてっぺんには何かの賞状やトロフィーの類がぎっしりと並んでいる。イツミが背伸びしても字が小さくてよく見えない。その下に並ぶ蔵書は重厚な装丁の学術書がいくつかと、残りは分厚い参考書の類だった。どれも背表紙に折り目が付き、こまめな付箋が貼ってある。学習机の上にもやはり参考書とノート、学校指定の教科書や資料集が並ぶ。

 

「あれ?」

 

 しげしげ部屋を見回していると、机の隅に奇妙なものを見つけた。

 

 赤いマフラーだ。古いものなのか色あせているが、生地のほつれは少なく、丁寧に畳まれて机の隅に陣取っている。

 

 今は六月だ。マフラーなどタンスの奥で眠っている時期だし、仮に冬だとしても机の隅に置いておく意味が分からない。

 

「ヒナちゃーん? 雨に濡れたって聞いたけど大丈夫ー?」

 

 手に取って調べてみようとすると、廊下から女性の声。小走りの足音が近づいてきて、襖が開かれた。

 

「ヒナちゃ……あら?」

 

 声の主はエプロン姿の女性だった。年が分かりにくい若作りで、二十代にも四十代にも見える。

 

 女性と目が合う。マフラーのことは一旦置いて、イツミはお辞儀した。

 

「お邪魔しています。空竹イツミです。白戸さんの友人です」

「あらまあご丁寧に。私は白戸ミユ、ヒナちゃんのママよ。お姉さん、それかミユさんと呼んでね」

 

 おっとりとお辞儀を返すミユ。穏やかで包容力のある雰囲気を纏い、目元は眠そうなタレ目だ。リスみたいにつぶらな目のヒナとはあまり似ていない。ヒナは父親似なのかもしれない。

 

「せんぱーい、お茶とお菓子持って……お母さん!? 何してるんです!?」

 

 挨拶を済ませてすぐ、ヒナがやってきた。お盆にお茶とお菓子を乗せていて、母親の乱入に目を丸くしている。

 

「ずぶ濡れで帰ってきたっていうから心配で見に来たのよー。でもちゃんとお風呂であったまったみたいねー。安心安心ー」

「安心したならどっか行ってくださいよ! なんで座布団三枚用意してるんですか!」

「お友だち連れてくるなんて滅多にないじゃない? 学校でのヒナちゃんのこと、イツミさんに聞きたくってー。そう、三者面談のように」

「ふざけたこと言ってないで出てってください! もうっ! しっしっ」

「けちー」

 

 怒り心頭の娘に背中を押され、母親がぶーたれながら部屋を出て行く。襖が閉じる間際、茶目っ気たっぷりにイツミへ小さく手を振った。

 

 悪は去った、とばかり大きく息をつくヒナ。

 

「ふぅ……先輩? 何を笑ってるんですか?」

「普段のあなたとは全然違うから、面白くってつい。バカにしてるとかじゃないのよ」

「忘れてください」

 

 唇を尖らせ、不本意そうに頬杖をつく。お盆のせんべいを手に取り、不満をぶつけるように一口齧る。イツミもそれに倣い、一枚を手に取った。口にすると、香ばしい醤油の風味が鼻を抜けていく。香り高い緑茶で味をリセットすると、何枚でも食べられそうだ。

 

「うーん……」

「どうかしました?」

 

 イツミは落ち着いてゆっくりと、今日一日のことを思い返す。

 

 恥ずかしがるヒナ、部屋から見て取れる人となり、家族との年相応の気安いやり取り。そうした発見と普段から積み重ねた時間が、イツミの心境をじわじわと変化させていた。

 

「ぶっちゃけ、白戸さんってえっちよね」

「ぶふっ」

 

 ヒナがお茶を吹き出した。

 

「ちょっとしたスキンシップですぐ赤くなるし、私が雨で濡れたくらいであんな反応するし、お風呂でずっと挙動不審だったし」

「そ、そそそそんなこと、ないですよ」

「でも、なぜかイヤじゃないのよね」

 

 え、とヒナが目を丸くした。

 

 慮外なのはイツミも同じだ。今まで告白してきた連中や、そうでない周囲から、情欲に塗れた視線を向けられることは多々あった。ひねくれ者とはいえ外見だけは一級品のイツミにとって、そうした目で見られるのは日常茶飯事で、けれど決して慣れないストレスの種だった。そのストレスが、恋愛など性欲の言い換えに過ぎないという価値観の土台となった。

 

 ヒナのうぶな反応は、ストレスの源となった下衆たちと同質のものだ。人の体に勝手に欲情している。

 

 そうとは分かっているのに、なぜか不快ではない。ストレスに感じない。

 

 今だってそうだ。男物の大きなシャツを着て、開いた胸元から覗くイツミの首から鎖骨、汗の滴る胸の谷間にチラチラと視線を感じる。目が合うたび、ヒナはほっぺたを赤くしてもじもじしている。お風呂ではからかうのを控えるレベルで挙動不審だった。露骨に意識しているのが分かるのに、まるで不快ではない。

 

 異質で異常な後輩は、こんなところでも特別なようだ。

 

「こっちに来て」

 

 手招きすると、ヒナは膝立ちでおそるおそる、座卓を回り込んで隣にやってきた。

 

 小さな体を捕まえ、胸に抱きかかえる。同じシャンプーの匂い。ほんのわずかに膨らんだ胸と、イツミの立派なそれが薄い布越しに触れ合う。

 

「せ、せせせせんぱ!? にゃに!?」

 

 柔らかな胸の奥から伝わる鼓動は、心配になるほど激しく脈打っている。そういう目でこちらを見ているからだ。イツミの胸もつられて少し高鳴る。

 

 所詮、薄っぺらな一目ぼれで始まった関係。

 

 なのにどうして、こんなにもヒナを特別に思うのか。

 

 このときのイツミには、まだ分からない。

 

 

 

ーーー

 

 

 

「……」

「なんかしゃべりなさいよ、コラ」

 

 その後、恥ずかしさと嬉しさで心がぐちゃぐちゃになったのか、ヒナは耳まで赤くなって膝を抱え、フリーズしてしまった。

 

 ヒナ宅を辞すまでその状態で、結局次に口を聞いたのは休み明けになったのだった。

 

 

 

ーーー

 

 

 

承2:前ステ

 

 

 

ーーー

 

 

 

 ヒナ宅に訪問して以来、ヒナとの距離感に変化があった。

 

 今までは、表面上はフラットに接しながらも、心のどこかでヒナのことを敵として見ていた。小学、中学の間に下賎な好きを強要してきた恋愛中毒の輩と同じだと。

 

 けれどヒナは違う。いやらしい目で見られても不快ではない。たかがハグをしたくらいで心臓が爆発するほど緊張し、こちらを意識しているのが丸わかりでも、面倒くさいとは思わない。むしろ、不快感とは程遠い奇妙にふわふわした感覚だった。

 

 その感覚の正体は何なのか。ヒナと接していればいずれ分かるのか。

 

 もどかしい好奇心に駆られ、イツミはヒナに対して距離を詰めたのだ。

 

「せ、先輩、手……!?」

「イヤ?」

「イヤじゃないですっ!」

「じゃあいいわね。そうだ、連絡先教えてよ」

「ひゅい!?」

 

 帰り道、手をつないだ。連絡先を交換した。高校入学と共に買ってもらったスマホに、家族と友莉以外の連絡先が初めて追加された。登録名に少し迷い、『後輩』としておく。

 

 そしてその夜、連絡を待った。あの積極的な後輩ならきっと向こうからメッセージなり着信なりを送ってくるだろうと。

 

 しかし連絡先の交換から六時間、スマホの前で正座待機していても一向に動きがない。瞼が重くなり、スマホを抱えてベッドに入る。妙に目が冴え、横になってから二時間後にようやく眠りに落ちた。

 

 翌朝、起きるなりスマホの画面を見るが何の通知もない。

 

「……ふーん」

 

 胸の奥がチクりと痛む。知らない土地で迷子になったような寂しさで心が軋む。

 

 別に、あえてスマホで話すような用がないのはイツミも同じだ。雑談なら帰り道にたっぷりしているのだから、ヒナはそれで満足なのだろう。

 

 そう言い聞かせてももやもやが晴れない。

 

「と、いうわけなの。どう思う?」

 

 幸いにもイツミには頼れる友莉がいた。昼休み、机を挟んでお弁当を食べながら、ヒナに抱く奇妙な思いについて相談する。

 

「お……」

 

 友莉はぎらりとメガネを光らせて、言った。

 

「大型アプデきたこれ……!」

「なんて?」

 

 ゲーム廃人の悪い癖、なんでもゲーム用語に言い換える病が発症している。アプデとはたしか、変革を意味する言葉だったろうか。

 

「つまりぶっ壊れキャラ実装で環境が変わったのよ。このままじゃゲームになんないから急遽アプデが入ったってワケ。個人的には神アプデの予感」

「なるほどよく分かったわ。お礼にインゲンのごま和えをあげる。あーん」

「お礼の品にしてはレシオ低くない?」

 

 眉をひそめながらも、友莉は差し出されたインゲン豆に素直に食いついた。話を聞いてくれただけの一応のお礼としては妥当なチョイスである。

 

 言っていることは分からなかったが、否定的な含みはなかった。ヒナへの気持ちを深刻に考える必要はないのだろう。相談の結果としては十分だ。

 

 芽生えた気持ちを棚上げして、イツミはいつも通りの日々を過ごしていく。友莉とつるみ、ヒナと手をつないで帰り、恥じらいながらも嬉しそうな彼女の表情を楽しみ、家ではヒナの手の感触を思い出しながら、今日自分に向けられた声と笑顔を何度も反芻し、変わらず静かなスマホを意識する。

 

 棚上げになんて出来なかった。ヒナと顔を合わせない間、特に学校のない土日などは、ヒナへの思いが天井知らずに高まって、イツミを思いもよらない行動に走らせた。

 

「お姉ちゃん! お化粧教えて!」

「うおう!?」

 

 休日の朝、姉の自室に押し入る。

 

 二度寝中だった姉は飛び起き、信じられないものを見る目で言った。

 

「お化粧……? イツミちゃんが!? これ以上かわいくなると国が傾くレベルなのに!?」

「ダメ?」

「もちろんいいとも! 準備するからちょっと待ちたまえ!」

 

 姉は鏡台の前にイツミを座らせ、刷毛やブラシのようなものを使い、ウルトラスーパークリアビューティフルみたいな語感の化粧品でイツミを飾り立てていく。

 

 くすぐったいのを我慢しながら、手持無沙汰なイツミが口を開く。

 

「お姉ちゃん、今は何人?」

「三人かな。直に落とせそうなのを含めると四人」

 

 しれっと応える姉にイツミはドン引きする。

 

「呆れた。入学して三か月で四人も誑かすなんて」

「人聞きが悪いな。私はただ、女の子たちが欲しがる言葉とぬくもりを適時に適量で与えているだけさ。これっぽっちも他意はないよ」

 

 姉は女漁りを趣味にしていた。高校時代に始まったこの趣味は今年大学に入学してからも続いており、すでに犠牲者が出ているらしい。

 

 姉曰くお互いに恋愛感情は皆無で、『セフレ』という極めて健全な体だけの関係で落ち着いているというが、それにしても節操がない。恋愛を毛嫌いするイツミには到底理解できない趣味だった。

 

「せっかくかわいい顔に生まれついたんだ。目いっぱい利用しないともったいないよ。イツミちゃんも、私くらい開き直って楽しめればいいのにねえ」

 

 悪びれずにそう嘯く姉は、イツミと同様に美少女だ。陽光のようなプラチナブロンドをふんわりしたボブカットに整え、きめ細かでハリのある肌を最低限の化粧で引き立てている。長いまつ毛に縁取られた瞳は色素の薄い銀色で、異国風の服でも着ればそのまま妖精として通じそうな、幻想的な美しさを湛えている。

 

「お姉ちゃんは開き直りすぎなのよ。頼むからえっちなことは家でしないでよ。前みたいにうっかり目撃なんてしたら、お姉ちゃんがよくてもセフレさんがかわいそうなんだから」

「分かってる。ちゃんとイツミちゃんのいないときにするよ」

「んもー!」

 

 雑談をしながら十五分。

 

「できたよ」

 

 姉の声を受け目を開ける。鏡の中から、普段より少しだけ輝きを増した少女の顔がこちらを見つめている。

 

「花山薫が武術を学ぶようなものだと思ったけれど、元が良すぎて大きな変化はなかったね。トーンアップの下地と、チーク、リップ、アイシャドウをうっすら乗せて元の良さを引き立てるようにしたよ。素材が良すぎて逆にやりづらいなんて、我が妹ながら羨ましい」

「お姉ちゃんだってかわいいわ」

「知ってるよ、ありがとう。それで? 誰か好きな人でもできたんだろう?」

 

 緊張が胸が高鳴る。鏡の中の姉が、自信に満ちた銀の瞳でイツミを見つめる。

 

「今まですっぴん族だった君が急に見た目を気にする理由なんて、それくらいしかないからね。話してみたまえ」

「そんなんじゃないわ」

 

 イツミはふるふると首を横に振る。

 

「恋愛なんてくだらない。友莉以外に仲良くできる子ができたから、嬉しくてはしゃいでるだけ」

「その子にかわいい自分を見てもらいたいと思ったんだろう? 友莉ちゃんにはそう思ったことがないのに。その差はどこから来るのかな?」

「……」

 

 返答に詰まったイツミの頭に、姉が優しく手を乗せる。

 

「まあいいさ。君のペースで向き合っていくといい。今日使った化粧品はあげるよ。やり方が分からなくなったら、いつでも聞きなさい」

「……ありがとう」

 

 化粧品を抱え、姉の笑顔に見送られて部屋を出る。

 

 どうして突然外見を気にし始めたのか。友莉との付き合いではそんなこと考えもしなかったのに、どうしてヒナに対してだけ。

 

 何気ない姉の言葉はイツミの頭の中をぐるぐる回って、近頃のもやもやした思いが一掃強くなるのだった。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 姉仕込みの化粧の効果は劇的だった。

 

 透き通るようなプラチナブロンドの髪に、北欧と日本の血が混じったくっきりした目鼻立ち、スカイブルーの瞳。幻想的な美少女の外見が、ナチュラルメイクでさらに引き立てられたのだ。通学路ではイツミを見慣れた近所の人々も目を丸くし、登校する生徒たちも二度見するほどの影響があった。

 

 いつもより五割増しで集まる視線を感じつつ、昼休み。

 

 友莉はお弁当をつつきながら、しみじみ言った。

 

「アプデっていか、パッチだよねこの頻度は」

「うんうん、そうよね」

 

 意味不明なときは受け流すのが一番だ。

 

 つれないイツミの反応を気にせず、友莉は話を変えた。

 

「昨日テレビでさ、世界の猟奇殺人犯の話やってたの。美しい女性を殺して剥製にする人がいたんだって。その人がいたら、イツミは秒で剥製だね!」

「代わりに貴女を差し出して私は逃げるわ」

「薄情なやつ! ヒナちゃんに言いつけちゃうぞ」

 

 何気ない軽口。

 

 それが孕む違和感を、イツミは聞き逃さない。

 

「ヒナちゃん? どうしてあなたが、白戸さんを名前呼びしてるの?」

 

 白戸ヒナ。最近のイツミの脳内を占拠する特別な後輩のことを、イツミは白戸さんと呼んでいる。大して絡みのないはずの友莉が下の名前で呼んでいるのはおかしい。

 

「どうしても何も」

 

 友莉はあっけらかんと言ってのける。

 

「仲良くなったからだよ」

「いつ?」

「放課後とか? ほら、日直とか掃除当番でイツミ、遅れることあるでしょ? イツミが来るまでの間におしゃべりしてるんだよ」

 

 たしかに、放課後の待ち合わせに直接行けない日はある。部活がなくとも、生徒全員に持ち回りの仕事があるからだ。それはイツミだけでなく、友莉もヒナもそうだ。

 

 ただ、イツミが遅くなった日にヒナと友莉が交流しているというのは、寝耳に水だった。

 

「むぅ……」

 

 イツミは困惑した。

 

 別に友莉にもヒナにも非はない。イツミが合流する前に友莉が姿を消していたのは、ヒナに気を使ってのこと。隠していた訳ではないだろうし、そもそも二人の人付き合いに口出しする筋合いはない。

 

 理屈では分かっているのに胸がきりきりと痛む。どす黒く淀んだ感情が心の奥底からにじみ出る。それは兼ねてよりのもやもやと混ざり合い、気味の悪い不快感へ変じた。

 

「ごめん、ちょっといいか?」

 

 自分の心についていけず、黙り込んでいると、横合いから声。

 

 見ると、クラスの男子生徒だった。たしか名前は山本だ。イツミも友莉も話したことはほぼない。

 

「空竹さんに伝えたいことがあるんだ。放課後、校舎裏に来てくれないか」

 

 クラス内の空気がざわついた。顔の作りがよく明るい山本はクラスの人気者であり、一挙手一投足が周囲に影響を与える立場だ。

 

 しかしイツミには関係なかった。今はとても恋愛ごっこなんかに付き合う気分ではなく、断ろうとして──思い直す。

 

「分かった、じゃあ放課後に」

 

 端的に待ち合わせを受け入れる。山本は礼を告げて明るい男子グループの輪に戻って行った。グループの男子たちが、ニヤついた目でイツミを見やる。

 

 それに構わず、イツミは友莉に向き直った。

 

「そういうわけだから、友莉。少し遅れる。白戸さんとおしゃべりしといて」

「え、ああ、うん。わざわざ言われなくてもそうするけど。いいの? クラスメイトだよ?」

 

 言外に慎重な対応を促す友莉。

 

 無論、イツミは気にしない。気まずくなってクラス内の立場が悪くなろうが、悪い噂を流されようが、今更どうでもいい。

 

 心に淀むどす黒い感情を確かめること。イツミにとってはそれが何よりも重要だった。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 放課後、校舎裏にて。

 

「実は入学式の日からずっと、お前のことが気になっていたんだ。好きだ。付き合おう」

 

 山本の告白は堂々としていた。まさか断られるはずがない、と確信しているような口ぶり。

 

 実際、山本は魅力的な男だった。身長が高く、程よく筋肉のついた体は男らしさに溢れている。バスケ部の期待の新星として活躍しており、人当りがよくクラス内でも周囲を引っ張るリーダーのような役回りをしている。たとえ遊びの関係だとしても、告白を受け入れるメリットは大きい。

 

 が、イツミはひねくれ者だ。一般的な女子が知るような立ち回りや損得勘定、恋愛感情への憧れなど欠片もない。

 

 あるのはただ、倦怠感だけだ。

 

「別にいいけど」

「おお!」

 

 嬉しそうに距離を詰めてくる山本を手で制し、続ける。

 

「実は私、借金があるの。利子込みで一千万。恋人になるなら払ってくれるわよね?」

「はぁ?」

 

 手始めの借金砲。山本は目をむいた。

 

「意味が分かんねえ。なんで俺が払うんだ」

「一生を添い遂げるつもりで告白してきたんでしょう。なら──」

「んなわけねえだろ。こんなもんただの遊びだろ。普通に考えろよ」

 

 がしがしと頭をかき、大きく舌打ちする山本。

 

「ちっ、陰気な癖に顔だけはいいから、遊んでやろうと思ったのによ。こんなイカレ女とは思わなかったぜ」

「……」

「まあせいぜい頑張れよ。その顔なら一千万くらい楽に稼げる仕事があるだろ、ああ、そのために化粧したのか。売女らしくて似合ってるぜ」

 

 嘲笑して背を向ける山本。

 

 この程度の挑発は慣れたものだ。中にはもっと下品な表現を使った侮辱を向けられることもあった。それに比べればマシな方だ。

 

 かといって泣き寝入りするほどイツミは大人しくない。

 

『いいかいイツミ。侮辱を受けたとき、張手(ビンタ)拳打(パンチ)に頼るのは淑女の行いではない』

 

 信頼する姉の助言が脳裏をよぎる。

 

『当て方によっては手を痛めてしまうし、相手の目がよければ不意打ちでも避けられてしまうからね。故に、腹に据えかねたときはローを狙いなさい。足元への不意打ちを捌かれることはほぼない。大けがになりにくい割に痛みはそこそこ。乙女の怒りをぶつけてやるんだ』

 

 教えに従い、立ち去る山本の背中に駆け寄り、助走の勢いを乗せてローキックを繰り出した。

 

「せいやっ」

 

 ごり、と音。脛の骨と骨がぶつかる音が響き、山本とイツミが同時に飛び上がる。

 

「いてえええぇぇ!?」

「いったぁあああ!?」

 

 山本が片足で跳び跳ねながら、凄絶な目でイツミを睨みつけた。

 

「てめえ、クソ女……!」

「ばーかばーか! アホー!」

 

 イツミはそれ以上構わず、渾身の罵倒を吐き捨てて、片足跳びで逃げ去る。

 

 ローキックは告白を断ってもごねる相手対策として姉に入れ知恵されたものだ。二分の一の確率で自身もダメージを負うものの、効果は高い。腹立たしい相手を適度に懲らしめ、それ以上言い寄ってくることがなくなる。幸いにも、この反撃に逆上して襲い掛かってくるような外道には、今のところ遭遇したことがない。

 

 校舎裏から逃げて数分で痛みが消え、ダメージから回復した。体重のないへっぴり腰の一撃なので、後を引かないのだ。

 

 特に気分の悪いタイプの告白だった。無性にヒナの顔が見たくて仕方ない。

 

 早足で校門へ向かう。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 校門のすぐ横、『市立白戸第一高校』のプレートの真ん前が、イツミたちの待ち合わせ場所だ。

 

 校門に近づくと、聞きなれた二人の声が聞こえてくる。

 

「顔面ティアはぶっちぎりのSSなんだけど、中身が小学生のままずっとアプデされないの」

 

 イツミは塀の陰に身を潜め、聞き耳を立てた。

 

 二人がどんな話をしているのか。これを知るために、わざわざ結果の知れた告白に付き合い時間をずらしたのだ。

 

「けど最近ようやくパッチが来たみたいなんだ。きっとヒナちゃんが実装されたからだと思う。ありがとね」

 

 友莉の言い回しは相変わらず独特で、イツミは安堵した。こんな言い方では意味が通じない。付き合いの長いイツミなら文脈や雰囲気で合わせられるが、ヒナにはちんぷんかんぷんのはずだ。会話ができない友莉とヒナの仲はそこまで深くないだろう。

 

 仲が深ければ困るのか。

 

 なぜか安堵していた自分に気付き、イツミが当惑していると、ヒナが友莉に応じる。

 

「いいえ、ヒナは何も。ただ前ステと飛びを(こす)るしかしてませんし、パッチの影響もよく分かんなくて……空竹先輩のどこに修正が入ったんですか?」

 

 通じている。のみならず、友莉と同じ用語で会話を続けている。

 

「見たら分かるよ。特に今日の修正内容はかなり大きかった。ヒナちゃんもびっくりするんじゃないかな」

「それ分かっちゃいました。お化粧ですよね? 一年まで噂が流れてきましたよ。学校一の美少女がついにお化粧バフを覚えたって」

「もう噂になってんの? まあ実際それなんだけど、あの強化具合はヤバいよ。例えるなら発生10フレの中段。私でもガード崩されそうになった」

「ほんとですかー? 先輩が美少女なのは元からじゃないですか」

 

 自分が話題にされている。だから少なくとも蚊帳の外ではない。

 

 分かっているのにモヤモヤとドロドロが粘つきを増す。同じ話題で、同じ言葉で談笑し、楽し気に笑い合っている二人が許せない。自分には決して向けたことのない、気安い声と笑顔を思うと、友莉が憎くてたまらない──

 

 そのとき、やっと気づいた。

 

 嫉妬だ。ヒナと知らぬ間に仲良くなり、名前で呼び合うようになっていた友莉に、イツミは嫉妬していたのだ。

 

 友莉はただの友だちで、ヒナは特別だけれど、こちらもただの後輩。二人の関係に干渉する権利なんてないのに。

 

 なのにこんなにも胸が痛い。溢れる嫉妬が抑えきれない。

 

 イツミは、塀の陰から飛び出した。

 

「あっ、せんぱ──!?」

 

 ひったくるみたいに荒々しく、ヒナを抱きしめる。小さな体を抱きしめて、庇うように友莉に背を向け、睨みつけた。どんな表情になっているのか、イツミには分からない。

 

「かわいい……はっ」

 

 友莉は呆然と呟いて、激しく首を振った。

 

 胸を抑え、赤面して睨み返してくる。

 

「不意打ちでその顔はチートでしょ……! 私まで落とされるとこだよ、もう!」

「むー……!」

「はいはい分かってるって! また明日ね、イツミ、ヒナちゃん!」

 

 友莉は足早に去った。

 

 後にはヒナを抱くイツミが残される。まばらに下校していく生徒たちが物珍しそうに一瞥していく。

 

 しばらくすると、ヒナがか細い声を上げた。

 

「あ、あの、先輩。そろそろ……」

「ごめん!」

 

 慌ててヒナを解放した。我に返り、激しく混乱する。一体自分は何をしているのか。

 

 一方、ヒナは改めてイツミと対面し、ぴたりと動きを止めていた。イツミの顔を見上げ、身じろぎもしない。

 

「せんぱい、きれい……」

 

 思わず零れ落ちたのは、ありきたりな称賛。かわいいとかきれいとかは、イツミにとって風や雨の音と同じようなものだ。

 

 しかしなぜだろうか。ヒナの口から紡がれたその言葉は、節くれだったイツミの心に染み入り、混乱を消し去った。代わりにもたらしたのは、走り出したくなるような幸福感だ。

 

 照れたように微笑んで、ヒナの手を取る。いつものように。

 

「ありがと。さ、帰りましょう」

 

 帰り道、ヒナは借りてきた猫のように口数が少なかったけれど、イツミは普段にもまして幸せだった。

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