朝の海は、夜の静寂をまだその蒼さの中に残したまま、寄せては返す穏やかな波音を響かせていた。
水平線から顔を出したばかりの太陽は、昼間の刺すような熱を持たず、どこまでも広がる砂浜を優しく琥珀色に染め上げている。湿り気を帯びた潮風が、頬を撫でるように通り抜けていった。
「よしっ、絶好のバカンス日和だね!」
ユメ先輩が、真っ白な砂浜の上で大きく両手を広げ、肺いっぱいに朝の空気を吸い込む。その弾んだ声は、静かな波打ち際に溶け込み、私の耳に心地よく響いた。
「今日は私の日だね、ホシノちゃん。大切な後輩ちゃんを、一日中独占しちゃうよ♪」
「はいはい……くじ引きの結果ですから、今日は大人しく従いますよ」
私は苦笑しながら、手元のサンダルを指に引っ掛けて歩く。内心では(最初がユメ先輩で助かったかも)と、密かに胸を撫で下ろしていた。
もしこれがセリカだったら、朝一番から「ほら、シャキッとしなさいよ!」とリゾート地らしからぬ勢いで振り回されそうだし、シロコだったら重武装のまま「ん。まずは沖まで一往復」と過酷な遠泳を強行されかねない。ユメ先輩なら、きっと心安らぐ、穏やかな一日になる。……そう、信じていた。
「で、まずは何をするんですか、先輩? まさか、また怪しげな財宝の地図とか、変な噂話を確かめに島中を駆け回るなんて言いませんよね?」
「ふふ、失礼だなぁ。今日はね、“リゾートの正しい過ごし方”特別講座を開講します!」
「……講座? 私、座学はちょっと苦手なんですけど」
「まさか! ほら見て、この青い海。真っ白な砂。高い空。これ以上の教材なんてどこにもないでしょ? 完璧なシラバスだよ」
そう言って笑うと、先輩は私の手首をひょいと、迷いなく掴んだ。
その手のひらは、私の記憶の中にあるものと同じで、驚くほど柔らかい。けれど、そこからは生きてここにいるという、確かな拍動と温かさが伝わってきた。
「まずは、泳ぐ! 身体を思いっきり動かして、心の中に溜まった悪いものを、全部この海水で洗っちゃおう!」
「いきなり!? 先輩、まずは準備運動とか……あと、日焼け止めの塗り直しもしてないんですけど――」
「大丈夫、大丈夫! ホシノちゃんは丈夫なんだから。ほら、行くよーっ!」
抗う間もなかった。気づいた時には、私はもう波打ち際まで引きずられていた。
「冷たっ! ちょっと、先輩……!」
足元からじわっと広がる海水の冷たさに肩をすくめる。サンダルの中に容赦なく砂が入り込み、素足にざらりとした感触が残った。
「ほらほら、ホシノちゃん、こっちこっち!」
ユメ先輩はまるで幼い子供のように無邪気に波を蹴り、宝石のようにキラキラと光る水飛沫を上げて笑っている。その楽しげな姿に誘われるようにして、私もゆっくりと膝まで海に浸かり、それから思い切って身体を沈めた。
火照った身体に、海水の冷たさが驚くほど心地よく馴染んでいく。
「……あ、気持ちいいかも」
「でしょ? こうして、任務も借金のことも、何も考えずに遊ぶのって、いつ以来だろうね」
「……そうかも。最近は、銃を握ってない時間の方が珍しかったですから」
ユメ先輩が、どこからか持ってきたドーナツ型の浮き輪をひょいと投げてよこす。私はそれを素直に受け取り、二人で並んでぷかぷかと波に身を任せた。
寄せては返す波に揺られ、ただ空を見上げる。
「ねえ、ホシノちゃん」
「はい?」
「“守る役”は、今日はお休み。今の君は、“楽しむ役”でいいんだよ」
ユメ先輩は、どこまでも澄み渡る青空を見つめながら、一言一言を噛み締めるように言った。
「後輩たち、ちゃんと育ってるよ。あの子たちはもう、ホシノちゃんが一人で傷つくのを黙って見てるような、守られるだけの子供じゃない。だから先輩は、今日くらいは先輩らしく、全力でみんなに甘えていいんだからね」
その言葉は、冷たい海水よりもずっと深く、私の心の深奥まで染み込んできた。
(ずるいなぁ、この人は……)
そんなことを言われたら、ずっと張り詰めていた全身の力が、ふっと抜けてしまう。
「……じゃあ、今日はユメ先輩に、全部任せます。今日はおじさんでも対策委員会でもないただの『後輩のホシノ』になりますから」
「ふふっ、任せなさい! そうと決まれば、まずはあそこの岩場まで競走だよ! 負けた方はお昼のアイスを奢ること!」
「結局、体育会系じゃないですかー!」
午後は、真っ白なビーチパラソルの下で、文字通り「だらだら」と過ごした。
屋台で買った、着色料たっぷりの派手な色のトロピカルジュース。そして、手元で少し溶けかけてしまった、よく分からない味がする「七色レインボーアイス」。
「これ、当たりですか? そもそも、何味かも想像できないんですけど」
「んー、ハズレだと思う! なんだか、甘いお薬みたいな味がするよ」
「えー! じゃあ、私のバニラアイスと一口交換してくださいよ」
他愛もない会話。遠くで響く観光客の歓声。波が砂を洗う音。
時間は、砂時計の砂が落ちるスピードよりも、ずっとずっとゆっくりと流れていくような気がした。
あの冷たいコンテナの影で感じた、凍りつくような死の静寂とは違う。生命の輝きに満ちた、穏やかで温かな静寂。
夕方、空が燃えるような鮮やかなオレンジ色に染まり、砂浜に長く伸びた影が夜の訪れを予感させ始めた頃。
ユメ先輩が、ふと悪戯が成功した後のような、けれど少しだけ不安そうな顔で私を覗き込んできた。
「……楽しかった、かな? 私の独断で、あちこち連れ回しちゃったけど」
「楽しかったです。……最高に」
即答だった。お世辞でも何でもなく、心からの本音。
私の答えを聞いて、ユメ先輩は本当に安心したように、眉を下げて優しく微笑んだ。
「それなら、よかった。……ホシノちゃんのこんなに晴れやかな笑顔、久しぶりに見れた気がするよ」
そう言って、先輩は満足そうに立ち上がり、水着についた砂をパパッと払った。
「じゃ、今日の私の時間はここまで。ホシノちゃんのオフ初日、無事に終了!」
「え、もうですか? まだ夜の屋台巡りとか、キャンプファイヤーとかもありますよ」
「独占しすぎると、後が怖いからね。特に、あっちの方とか……」
ユメ先輩が困ったように視線を向けた先。
少し離れたヤシの木の陰から、ジト目でこちらをじーっと凝視しているセリカの姿があった。その背後には、無言で銃のメンテナンスをしながらも、こちらを片時も離さず見守っているシロコとクロコの姿も見える。
(……もしかしてあの子たち、一日中ずっと私たちのこと見てたの?)
「明日は別の子の日。ちゃんと楽しんでおいで。ホシノちゃんの夏休みは、まだ始まったばかりなんだから」
そう言って、ユメ先輩は私の頭を、壊れ物を扱うように、けれど愛おしそうに何度も何度も撫でた。
「先輩の特権は、最初の一日だけで十分。……明日は、あの子たちの頼れる『先輩』に戻ってあげてね」
(……本当に、ずるい人だ)
胸の奥が、夕焼けの空の色をそのまま映したように、熱く温かくなる。
こうして、ホシノのオフ初日は、失われていた時間を取り戻すような、柔らかな優しさに満たされて終わっていった。
明日は、今日よりももっと騒がしく、もっと大変な一日になるだろう。
けれど、今の私なら、その騒がしささえも愛おしく、大切に抱きしめられるような気がしていた。
窓の外には、月明かりを浴びてキラキラと輝く夜の海が、どこまでも静かに広がっていた。
いつのまにかセリカとシロコがヤンデレに…!