朝。
宿舎の食堂には、朝食の芳しい匂いと共に、リゾート地特有ののんびりとした空気が流れていた……はずだった。だが、そこに漂う空気は、なぜか事務室のような、どこかピンと張り詰めた心地よい緊張感を孕んでいる。
その理由は、食卓の端でタブレットと数枚の資料を広げ、真剣な面持ちでスタイラスペンを動かしている少女を見れば明らかだった。
「……おはよう、アヤネちゃん。朝から熱心だねぇ」
ホシノが欠伸を噛み殺しながら声をかけると、アヤネは眼鏡の奥の瞳を和らげ、ふわりと微笑んだ。
「あ、ホシノ先輩。おはようございます。ちょうど良かったです、今日の予定をまとめていたところなんです」
「え、“予定”立てるの?」
ホシノが引きつった笑顔で苦笑する。
「はい。せっかくのリゾートですから、後で『あれもしたかった』なんて後悔してほしくないんです。無計画だと、どうしても移動だけで疲れちゃいますから」
「ええっと……アヤネちゃん、今日はオフだよ? 私はもう少し、行き当たりばったりな自由があってもいいかなぁ〜……なんて……」
「ふふ、オフだからこそ、贅沢に時間を使わなきゃダメですよ? 先輩は放っておくと、すぐどこでも寝ちゃいますから」
(あ、これはだめだ。押しが強いわけじゃないのに、完全に主導権を握られてる……)
ホシノがそう察した瞬間、アヤネは資料を丁寧に閉じ、まっすぐにホシノを見つめた。
「ホシノ先輩。くじ引きの結果、今日は私がお供をさせてもらう日です。……いいですよね?」
「……分かってるって。そんなに優しく言われたら、どこへも逃げられないよ」
「では、まず――」
アヤネは勢いよく次の言葉を紡ごうとしたが、ふと一拍置いて、少しだけ照れくさそうに言葉を探した。
「……先輩は、どこに行きたいですか?」
「……え?」
「ホシノ先輩のやりたいことを、一番に叶えたいんです。それを中心にして、無理のないスケジュールを組みますから」
その問いかけをするアヤネの手が、わずかに強張っている。ホシノは、彼女が自分を「心から休ませよう」と、彼女なりの優しさで必死に気を遣っていることに気づいた。
「うーん、そうだねぇ。やっぱり……海かな?」
「海、ですね。了解しました。日差しの強くなる前に行けるよう、準備しましょう。出発しましょうか、先輩?」
---
日差しが白く光る砂浜を、二人は並んで歩いた。
アヤネは穏やかに微笑みながらも、その視線は忙しなく周囲を動いている。潮の流れは急でないか、人の密度は適切か、そして何より、隣を歩くホシノが疲れていないか。
「ねえ、アヤネちゃん」
「はい、何でしょうか。少し喉が渇きましたか? それとも日焼け止め、塗り直しましょうか」
「そうじゃなくて。アヤネちゃん自身は、ちゃんと楽しめてる? おじさんをずっと気遣ってばかりに見えるんだけど」
一瞬、アヤネの歩みが止まり、返事が遅れた。
「……楽しんでいますよ。先輩がこうして隣にいてくれる状況を、確認しているだけですから」
「アヤネちゃん。それを世間では“休めてない”って言うんだよ」
アヤネは、困ったように少しだけ眉を下げた。
「……では、先輩は? 先輩は、こんな風に私にずっと付いて回られて……窮屈ではありませんか?」
「私は――」
ホシノは一度言葉を切り、波打ち際でキラキラと跳ねる光を見つめた。
「……楽しいよ。すごく」
「……本当ですか? 無理をしていませんか?」
「本当だよ。アヤネちゃんが一生懸命、私を『大事にしよう』としてくれてるのが伝わってくるからね」
アヤネはしばらく考え込むように俯いた後、小さく、安心したような溜息を吐いた。
「……なら、よかったです。私のわがままに付き合わせているだけだったら、どうしようかと思っていました」
しばらくの間、二人は言葉を交わさず、打ち寄せる波に足を浸しながら歩いた。
「アヤネちゃんさ」
「はい」
「私が……あそこで無茶をしたこと、まだ怒ってるよね?」
不意の問いかけに、アヤネの足がピタリと止まった。
「……怒ってなんて、いませんよ」
「ほんと?」
「ただ――」
少しだけ、彼女の声が震えるような、切ない響きを帯びる。
「怖かったんです。……本当に、怖かったんですよ」
「……」
「通信越しに先輩の反応が乱れるのを見て……追いついた時に、あんなに傷だらけの先輩を見て……」
アヤネの手が、スカートの裾をぎゅっと握り締める。
「……私は、対策委員会のただの書類係でいたいわけじゃないんです。誰かがいなくなることを前提にした作戦なんて、もう二度と考えたくありません。私にも、ホシノ先輩を……あなたを支えさせてください」
その言葉は、アヤネという少女が心の奥底に隠していた、祈りにも似た本音だった。
「……ごめんね。私、また心配させちゃった」
「謝らないでください。謝ってほしいんじゃなくて……」
アヤネは強く首を振り、潤んだ瞳を真っ直ぐにホシノに向けた。
「ただ……生きていてください。明日も明後日も、笑ってそこにいてください。それだけで、私の計画も、アビドス対策委員会も……全部うまくいくんですから」
---
それからしばらくして、アヤネはふと足を止め、砂浜にあるベンチを指差した。
「……少し、座りましょうか」
「おや、珍しいね。アヤネちゃんから休憩を提案するなんて」
「ふふ、先輩にばかり歩かせては、私のスケジュール管理に傷がつきますから」
ベンチに並んで腰を下ろすと、アヤネはバッグの中から手際よく二本の飲み物を取り出した。
「……冷えすぎてお腹を壊さないように、少し置いておいたものです。どうぞ」
「おっ、さすが。本当に至れり尽くせりだねぇ」
二人は黙って、ラベルに結露が浮かぶボトルを傾けた。
「……休みって」
アヤネが、遠くの水平線を見つめながらぽつりと言った。
「何もしないことだけじゃないんですね」
「うん」
「こうして、誰かと“一緒にいる”こと。その時間を大切に思うこと自体が、何よりの休息になるんだって……今日、少しだけ分かった気がします」
その純粋な言葉に、ホシノは胸の奥が温かくなるのを感じた。
「アヤネちゃん」
「はい」
「ありがとう。最高の休日だよ」
アヤネは驚いたように目を見開いた後、恥ずかしさを隠すように眼鏡のブリッジを押し上げ、目を伏せた。
「……当然です。私の大切な役目ですから」
でも、隠しきれない耳の先が、夕焼けよりもずっと赤く染まっているのを、ホシノは見逃さなかった。
---
夕方。宿舎の玄関前で、アヤネは今日一日の出来事を思い返すように、満足そうに頷いた。
「明日は、また別の人の日ですね。私の管理からは離れますけど……」
「うん、分かってるよ」
「……ちゃんと、今日みたいに楽しんでくださいね」
「ありがとう、アヤネちゃん。アヤネちゃんとの休日も、本当に楽しかったよ」
ホシノが優しく笑いかけると、アヤネは一拍置いて、スッと「保護者」のような柔らかくも厳しい表情を浮かべた。
「それと」
「ん?」
「次に一分でも無茶な単独行動をしたら……」
眼鏡が月光を反射して、いたずらっぽく光る。
「これからの“休日”も“お仕事”も、そして毎日の食事のメニューまで、私が二十四時間体制で……徹底的に管理させていただきますから。覚悟しておいてくださいね?」
「うわぁ、怖い! おじさん、干からびちゃう!」
ホシノはわざとらしく肩をすくめて笑い、アヤネの背中を見送った。
(アヤネちゃんって、本当に優しくて……あったかいなぁ)
ただし――。
(休み方だけは、やっぱりまだ、私より少しだけ下手っぴだけどね)
ホシノは夜の潮風を吸い込み、少しだけ軽くなった足取りで、仲間たちの賑やかな声が待つ食堂へと向かった。
不器用な子って可愛いですよね…それ以外は器用なのに(水道治したり)