朝のリゾートは、吸い込まれるように澄み渡り、どこまでも静かだった。
耳を澄ませば聞こえてくる、規則正しい波の音。寄せては返し、岩肌を洗う白波の飛沫。潮風が運んでくる、わずかに塩気を含んだ瑞々しい香り。数日前までこの島を支配していた、あの肌を刺すような緊張感と火薬の匂いが、今ではまるで質の悪い白昼夢だったかのように嘘らしく、遠い記憶の彼方へと追いやられている。
「……平和だねぇ、本当に」
私が独り言のように溢すと、隣を歩くクロコが、砂を踏みしめる乾いた音を止めることなく、短く、重みのある動作で小さく頷いた。水着の上に薄手のラフなシャツを羽織った彼女の姿は、一見すればこの穏やかな景観に馴染んでいるようにも見えるが、その双眸だけは、浜辺の喧騒から遠ざかるほどに鋭さを増し、周囲を冷徹にスキャンし続けている。
「ん。でも、気を抜かない方がいい。死角が多い」
「あはは……それ、せっかくのオフ回でも言うのかい?」
「言う。……周辺警戒は、生存率に直結するから。リゾート地での油断は、戦場での失策と同じ」
即答だった。相変わらずの徹底ぶりに苦笑いしつつ、私たちは今日の目的地――島の北端にある、まだ地図にも載っていないような、深い緑と断崖に守られた未開発の遊歩道へと足を進めた。
「それにしても、ずいぶん静かなところを選んだね。ノノミちゃん達なら、もっと賑やかなショッピングモールとか、キラキラしたテラスに行きたがっただろうに」
「……人が少ない方が、いい」
「私が目立つから?」
「……そう」
図星だった。クロコは視線を泳がせ、わずかに落ち着かない様子で、無表情のまま言葉を紡ぐ。
「先輩は、無意識に周りを見すぎてる。……自分を狙う敵を探すんじゃなくて、自分が守るべき『隙』を、仲間のための安息を探してる。視線が常に、防衛ラインを構築してる」
「職業病だねぇ。自分でも困っちゃうよ。放っておいても体が勝手に動いちゃうんだから」
「……役割、だと思う。細胞の隅々まで、盾としての機能が染み付いてる」
クロコはそこで一度足を止め、錆びついたガードレールの向こう側に広がる、深い群青色の海を見つめた。遮るもののない強風が、彼女の白い髪を激しく揺らし、マフラーの端をなびかせる。その横顔は、私よりもずっと多くの「喪失」と「絶望」を積み重ねてきた者の、どこか峻烈で、削ぎ落とされたような美しさを湛えていた。
「先輩。……前に出すぎてる」
短い言葉。けれど、その響きは鉛のように重く、私の心の奥底にある「おじさん」という名の逃げ場を、的確に、そして無慈悲に塞いだ。
「無理、してる。この島に来てからも。あの、コンテナの影で、一人で無茶な制圧を試みた時も」
「……してない、とは言えないかな。ちょっと格好つけたがりなのが、私の悪い癖だからね」
「ん」
肯定された。その短さが、かえって彼女の真剣さを際立たせる。
「理由は分かる。……みんなを楽にさせたいんでしょ。自分が傷ついて、自分が一番動けば、後輩たちの夏休みが守れる。最悪の事態は自分が引き受ければいいって、心のどこかで思ってる。……あの日、コンテナの時みたいに」
「うっ……それは、痛いところを突くね……。耳が痛いどころか、心臓が痛いよ、おじさん」
胸の奥が、ちくりと疼いた。それは古傷が開くような痛みではなく、大切に隠していた綻びを、一番理解してほしくない相手に見透かされた時の、剥き出しの気まずさに近かった。
「でも」
クロコは視線を海から私へと戻した。その瞳は、冷徹なようでいて、その実、震えるような祈りを含んでいる。
「先輩がもし倒れたら、最後に残るのは私たち。……その時、後輩たちが選べる手札は、もうほとんど残ってない。先輩が自分を犠牲にした時点で、私たちの『最善の結果』は消失してる」
「……」
「守ってるつもりでも、それは……最後には、私たちを、何も知らないまま置いていくことになる。遺された者の地獄を、先輩は無視してる」
淡々とした、熱量を削ぎ落としたトーン。感情を極限まで抑えているからこそ、言葉の一つ一つが剥き出しの現実として突き刺さる。「守る」という行為の裏側に潜む「傲慢」と「独善」。それを、私自身が本当の意味で居なくなった世界を歩き続け、泥を啜って生きてきた彼女が言うのだ。私は、返す言葉を失っていた。
「厳しいなぁ、クロコちゃんは。私、もうたじたじだよ。盾を構える余裕もない」
「必要。……私は、もう繰り返したくない。同じ過ちも、同じ喪失も。私のいた場所には、もう先輩はいなかったから」
私は降参するように苦笑した。彼女の経験した絶望の深淵を、私は本当の意味では理解できない。けれど、その絶望の底から汲み上げられたこの言葉だけは、命を懸けて受け止めなければならないのだと悟った。
「クロコちゃんって、本当に私に容赦ないね。でも、それが心地よかったりもするんだけど」
「甘やかす役は他にいるから。……ノノミとか、先生とか。あの人たちが甘やかす分、私がバランスをとる」
「そうだねぇ。あの子たちに比べたら、今のところクロコちゃんが一番のスパルタだ。おじさん、背筋が伸びる思いだよ」
少しの間、波音と風の鳴る音だけが会話を繋ぐ。私は大きく息を吐き、どこまでも高く、どこまでも透明な空を仰いだ。
「……でもさ。そんな、放っておくと一人で突っ走る、面倒くさいおじさんだけど……それでもクロコちゃんは、こうして一緒に来てくれるんでしょ?」
「うん」
短い返事。迷いは微塵もなかった。
「だから言う。……次は、一人で抱えないで。私たちを……私を、頼って。単なる守るべき対象じゃなく、有効なリソースとして計算に入れて。私は、先輩を守るための武装でもあるから」
その言葉だけで、十分だった。胸の澱が、潮風に洗われて少しずつ霧散していくのを感じる。
「……あはは。分かったよ。努力する、としか言えないけどね。染み付いた癖はなかなか抜けないから」
そう答えると、クロコは頬を少しだけ膨らませ、ムッとした表情になった。彼女がこんな風に子供のような、年相応の不満を見せるのは、とても珍しいことだ。
「努力じゃ、足りない。……不確定要素が多すぎる。確実性が欲しい」
「ええっ、じゃあおじさんはどうすればいいんだい。これ以上は限界だよ」
「約束。……して。絶対の契約を」
「約束?」
「ん。破ったら……今度は私が、先輩を拘束してでも止める。力ずくで、戦線から引きずり下ろす。……分かった?」
「……即答だね。はは……逃げ道、本当にないなぁ。シロコちゃんもそうだけど、私の周りは強い子ばかりだ」
私が苦笑しながら再び歩き出すと、クロコは納得したのか、少し遅れて私の影を踏むように、一定の間隔を保ってついてきた。
「今日は」
「ん?」
「……ちゃんと、遊ぶ? 警備じゃなくて、レクリエーションを優先する?」
「遊ぶ遊ぶ! 当たり前だよ。おじさんの遊び心は無限大だよ」
私は両手を高く上げて、身体中の強張りを解くように大きく伸びをした。皮膚に受ける風が、先ほどよりもずっと柔らかく、心地よく感じられる。
「今日はおじさんも、アビドスの先輩としての私も完全オフ! クロコちゃんと一緒に、この島の隅々まで、美味しいものを食べ尽くして遊び尽くすつもりだよ」
「……なら、いい。糖分とカロリーの摂取も、メンタルケアには有効」
ほんの一瞬、彼女の声が和らいだ。それは、凍てついた大地に一筋の温かな陽光が差したような、ひどく不器用で、けれど純粋な優しさを孕んだ響きだった。
吹き抜ける風が、私たちの間を通り過ぎていく。特別な事件も、劇的なドラマも起きない、ただの静かな時間。けれど、こういう何気ない「平和」の積み重ねがあるからこそ、私たちは次の戦場でも、隣に立つ仲間の背中を、昨日よりも強く信じて引き金が引けるのだ。
私は、横を静かに、けれど確かな足取りで歩くクロコを盗み見て、心の中で呟いた。
(この子は……本当にかっこよくて、誰よりも頼もしい後輩になったなぁ。私が守るだけじゃなくて、支え合う相手に……)
「…ん…先輩、見てる。視線の角度、三時方向。分析されてる?」
「あ、バレた? いやぁ、クロコちゃんが可愛いなぁと思ってさ。つい見惚れちゃったよ」
「…違う…死角。後ろから、セリカが来て……殺気。ずっと私達を睨んでる」
「えっ!? ど、どこに!? 居た!? 怖い、セリカちゃんの嫉妬は怖いよ!?」
慌てて振り返ると、遠くの砂丘の影から、凄まじいオーラを背負ったセリカがこちらを双眼鏡で凝視していた。
アビドスの平和(?)な一日は、まだ始まったばかりだった。
一気に主役を掻っ攫うセリカちゃん…