朝。
正直に言うと、私は一秒たりとも起きたくなかった。
窓の外から聞こえてくる海鳥の鳴き声も、カーテンの隙間から差し込む柔らかな光も、今の私にとっては心地よい眠りを妨げる外敵でしかない。昨日までの連日にわたる「後輩たちの真心(という名の全力投球)」による疲労は、鉛のような重みとなって体に蓄積していた。
何より今日は、久しぶりに何の責任も義務も、守るべき境界線すら考えなくていい、空白の朝だったから。シーツの冷たさと布団の重みが至高の安らぎで、私は深い海の底へ沈んでいくように、意識を微睡ませていた。
もう少しだけ……あと数分だけでいいから、この温かな闇の中にいさせてほしい。そう願った、その瞬間だった。
「先輩」
低めの、けれど芯の通った凛とした声が、静寂を切り裂いた。
「……起きてください」
(あ、これはダメなやつだ)
直感的に悟った。この声の主は、妥協も二度寝も決して許してくれない。
「朝ですよ! いつまで寝てるんですか!」
「……知ってるよぉ……。今、地球の裏側では夜なんだから、そっちの時間に合わせてるの……」
「屁理屈言わないでください! 知ってるならさっさと起きてください! 今日は私と遊ぶ日なんですから!」
「ええ……セリカちゃんは元気だなぁ……」
半目で体を起こすと、視界に入ったのは既に準備万端なセリカの姿だった。乱れ一つない髪、ピシッと整えられた服装。腰に手を当てて私を見下ろす彼女の瞳には、「一分一秒も無駄にしない」という鉄の意志が刻まれている。
「……早くない? まだ太陽さんも寝ぼけてる時間だよ」
「全然です。遊ぶなら、朝一番からに決まってるでしょ。ほら、顔洗ってきて!」
ぷいっと横を向いて急かす彼女の、ピンと立った耳。けれど、こうして全力で私を日常の光の中へ引き戻しに来てくれるのは、決して嫌な気分じゃなかった。むしろ、心のどこかがじんわりと温かくなるような、誇らしい嬉しさがあった。
---
そこからは、ほぼ流されるままの一日だった。
どこへ行くかはセリカが既に分単位で決めていて、私は彼女の軽快な歩調に必死についていく。潮風に吹かれながら、私たちは島中を駆け巡った。
「先輩、遅いです! 体力落ちたんじゃないですか?」
「待ってよ〜、おじさんはマイペースが売りなんだよぉ」
「寄り道しないでください! 時間がもったいないでしょ!」
「だってあそこの屋台、すごくいい匂いしたじゃん? 焼きトウモロコシはリゾートの義務だよ?」
「後で! 先にこっちの絶景ポイントを見るんです!」
そんなやり取りを、今日だけで何度繰り返しただろう。気づけば、笑って、歩いて、何かを食べて、また怒られて、歩いて。特別な事件が起きるわけでも、誰かと銃火器を交えるわけでもないのに、時間は砂時計の砂のように驚くべき速さで溶けていった。
(……ああ)
ふと、胸の奥で息をつく。こういう感覚、本当に久しぶりだ。
ユメ先輩と久しぶりに「後輩」として無邪気に遊んだり、アヤネちゃんの過保護なまでの管理に身を任せたり。シロコちゃんの突飛な勝負に本気で応じ、ノノミちゃんには全力で着せ替え人形にされ、クロコちゃんとは過去と未来の重みを分かち合った。
そのどれとも違うけれど、そのどれもが繋がっている、愛おしい今の時間。
「何かを守るため」の盾でもなく、「誰かの代わり」を務める依代でもなく。ただ一人の「小鳥遊ホシノ」として、生意気で可愛い後輩に振り回されるだけの、何者でもない一日。
---
夕方。
太陽が黄金色に傾き、砂浜に伸びる二人の影が長く、今にも一つに重なりそうになる頃。それまで先を急いでいたセリカの足取りが、ふいに緩やかになった。波打ち際を歩く彼女のサンダルが、砂を蹴る乾いた音だけが響く。
「……」
しばらくの間、潮騒だけが会話を繋ぐ沈黙が流れる。
そして、彼女は前を向いたまま、消え入りそうな声でぽつりと言った。
「……今日、楽しかったですか?」
その声には、いつもの気の強さは微塵もなかった。迷子の子猫のような、ひどく壊れやすくて不安そうな響き。私は一瞬だけ足を止め、オレンジ色に染まる彼女の横顔を覗き込んだ。
「ん? どうしたの、急に」
「……私、いつも怒ってばかりだし。今日も先輩を無理やり連れ回しちゃったから」
セリカは言葉を選ぶように、指先で長い髪をいじりながら続ける。
「他の皆と出かけた時……先輩、すごく楽しそうだったから。アヤネの時も、シロコ先輩やノノミ先輩、それに……クロコ先輩の時も。……あと、ユメ先輩と一緒にいた時だって……」
そこでセリカは一瞬、言葉を詰まらせた。
「その……先輩にとって大切な人たちと過ごした時間と比べて、私との時間は退屈してないかなって……」
(――やっぱり、見てたんだ)
私は、思わず心の中で苦笑した。
彼女はいつも、ぶっきらぼうな態度の裏側で、誰よりも私たちのことを、そして「私」のことを、その瞳に焼き付けてくれている。
「楽しかったよ。すごくね」
迷いのない即答。セリカが、驚いたようにちらっとこちらを盗み見る。
「本当ですか? お世辞じゃないですよね?」
「本当本当。おじさんが君に嘘をつくメリットなんてないでしょ?」
私はわざとらしく肩をすくめて、彼女の視線を真っ向から受け止める。
「セリカちゃんに怒られた回数も含めて、最高の休日だったよ。今の私にとって、これ以上に『らしい』過ごし方なんてないからね」
「……っ、それは含めなくていいって言ってるでしょ!」
即座に飛んできた、小気味よいツッコミ。けれど、その声は先ほどまでの沈んだトーンを脱ぎ捨て、いつもの輝くような明るさを取り戻していた。
「……なら、良かったです。無駄に歩かせただけじゃないなら」
小さく、満足そうにそう言って。彼女はそれ以上、深いことは聞いてこなかった。
---
宿へと続く、薄紫色の夕闇が降り始めた道。私は大きく伸びをしながら、何気なく提案した。
「明日はさ、特に予定も入れてないし、今度こそ一日中ゆっくり休もっか。おじさん、もう電池切れ寸前だよ〜」
その瞬間。
「え?」
セリカがピタリと足を止めた。「休む? 今、休むって言いました?」
「う、うん、いっぱい遊んだしねー。明日はお昼寝三昧かなぁ」
「…………」
嫌な、ひどく冷たい沈黙。私は冷や汗が背中を伝うのを感じながら、ゆっくりと振り返った。
「……セリカちゃん?」
彼女は、にこっと笑っていた。
夕闇の中で、それはそれは、背筋が凍るほど綺麗な笑顔で。
「休ませませんよ?」
「え?」
「明日は――」
彼女は一拍置いて、とどめを刺すように言い放った。
「私たち全員で、全力で先輩を怖がらせる『肝試し大会』ですから♪」
「……」
「……え?」
「先生からの企画です。参加しないなんて選択肢、ありませんからね。逃げたら……本気で怒りますよ?」
「……待って。ちょっと待って、セリカちゃん。お化けとか、そういうのはさ……守備範囲外っていうか、物理的に干渉できない別ジャンルじゃないかな?」
「何のジャンルですか?」
「おじさんが……本気で無理なやつ!!」
私の狼狽ぶりがおかしいのか、セリカは本当に楽しそうに笑っていた。今日一番の、屈託のない笑顔で。
「今日一日、先輩は本当に楽しそうでしたから。明日はその分、たっぷり覚悟してくださいね?」
「その一言で地獄に落とされたよ!? 策士だ、策士がここにいるよ!」
それは、逃れようのない死刑宣告だった。
私は力なく空を仰ぐ。
(ああ……やっぱり、明日も休めそうにないや)
けれど。
その隣で意地悪く、けれど幸せそうに笑っている後輩を見ていると、心の中のどこかで、かすかな期待が芽生える。
……怖い。間違いなく、明日は絶叫することになる。
でも、たぶん。
「……たぶん、楽しいんだろうなぁ」
私の呟きは、心地よい夜風に溶けて、賑やかな仲間の声が待つ宿舎の明かりへと吸い込まれていった。