出発当日の朝。アビドス高等学校の重厚な校門前には、夜の静寂を焼き払うような熱気を孕んだ、乾いた砂風が吹き抜けていた。
アスファルトから立ち上る陽炎が視界を歪め、遠くの景色を現実味のない幻影のように揺らしている。私たちは全員そろって、まだ見ぬ青い海、透明な水平線への淡い期待を胸に立っていた。
……ただし、たった一人を除いて。
「……やっぱり、間に合わなかったみたいだね」
私は何度目か分からない深いため息をつき、手元のスマホを睨みつけた。液晶画面には、出発の少し前に届いた短いメッセージが、冷たい光を放っている。
『ごめん。想定より手間取ってる。でも必ず追いつくから』
『先に行ってて。何かあっても無理はしないで』
『ホシノ、みんなのことをよろしくね』
……無理、ね。
(今、先生がいないこと自体が、もうみんなにとって十分すぎるほど「無理」な状況なんだけどね)
内心で毒づきながら、私はスマホを制服のポケットにねじ込んだ。指先に触れるデバイスの硬質な感触が、今はひどく重く感じる。先生の不在という事実は、物理的な重量以上に、私の胃の腑にずっしりと沈んでいた。
「せ、先生、後から来るって言ってたし! 別に今日じゃなきゃダメってわけじゃないし! 海は逃げないわよ!」
セリカが、沈みかけた空気を無理やり押し戻すように、努めて明るい声を張り上げた。その声がわずかに上ずっているのを、誰も指摘しない。
「……ん。確かに、先生がいないのは不安。戦術的な判断が必要な時とか、気分的にも」
シロコが相変わらず正直すぎる感想を漏らすと、アヤネが慌てて資料を抱え直して割って入った。
「だ、大丈夫ですよ! 今回はあくまで念のための事前点検、ごく簡単な確認任務ですから! 先生が来る頃には、私たちはビーチで冷たい飲み物でも飲んでるはずです!」
そう言いながらも、アヤネは震える指先で資料の端を弄り、何度も同じページを読み返していた。ノノミは、そんな彼女たちの様子を見守りながら、いつもの太陽のような微笑みを絶やさない。
「うふふ、先生が合流するまでに、私たちが最高の下見を済ませちゃいましょう♪ 先生が驚くくらいの準備をしておくんです」
その微笑みに誘われるように、ユメ先輩も力強く頷く。
「そうそう! みんなで楽しめる準備期間ってことだよ! ほら、暗い顔してたら海が逃げちゃうよ!」
……みんな、必死に「いつも通り」を演じているのが、痛いほど伝わってきた。
アビドスにおいて、先生という存在は単なる指導者ではない。砂漠という閉塞した世界に風を穴を開けてくれる、心の寄る辺だ。それが欠けた状態で未知の島へ向かうことが、どれほど生徒たちの心に小さな、けれど確かな影を落としているか。
「ま、何かあっても数人程度ならおじさんが簡単に倒しちゃうしね。昼寝の邪魔をする奴がいたら、容赦しないよ~」
私はわざと軽く肩をすくめて、おどけてみせた。
(……何かある前提で話を進めるのはどうかと思うけど、今はこれが一番の安心材料だしね)
そうして私たちは、不安と期待がマーブル状に入り混じった空気のまま、リゾート行きの船へと乗り込んだ。
島に到着し、タラップを降りた瞬間。
私の感覚は、鮮やかな転換を余儀なくされた。熱を帯びた砂の匂いではなく、鼻腔を突き抜けるような潮の香りが一気に広がったのだ。
「わぁ……!」
「すごーい……!」
アヤネとノノミ、それにユメ先輩が、言葉を失って海を見渡す。そこにはアビドスでは決して見ることのできない、どこまでも透明な群青の水と、光を反射してダイヤモンドのように輝く白い砂浜が広がっていた。
開発途中とはいえ、整備された桟橋や真新しいコテージ風の施設が並び、リゾートの片鱗を見せている。しかし、その輝きはどこか、作り物めいた静けさを纏っていた。
「……ここ、本当にアビドス関係? 詐欺か何かじゃないよね? 私達、実は夢でも見てるのかな」
私は思わず呟いた。
「ねえ、これってどこからどこまでが開発予定地なの?」
セリカの疑問に、アヤネが地図を広げて指でなぞる。
「……ええと、この島の……一帯すべてですね。沿岸部から中央の山林まで」
「全部!?」
セリカの声が裏返る。
(それ、もう“簡単な任務”の規模じゃないよね? 借金を背負った一学園が負う責任を超えてる気がするんだけど……)
心の中で突っ込む私をよそに、ノノミとユメ先輩は、にこにこと楽しげに砂浜へ向かって歩き出す。
「でも、すっごく綺麗な海だよ! 足だけでも浸かってみようかな」
「開発途中でも、遊べる場所はたくさんありそう! 砂遊びもし放題だよ!」
「ん……それにしても」
周囲を常に警戒していたシロコが、ふと足を止めた。
「開発途中なのに、静かすぎる。工事の音が、一切しない」
その一言で、全員が凍りついたようにはっとする。確かに。波の音と、風がヤシの葉を揺らす音以外、人の気配も、建設車両の音も、警備ドローンの駆動音すら聞こえない。あまりにも完璧すぎる「静寂」は、時に暴力的なほどの不気味さを孕む。
「……管理センターに行ってみましょう」
アヤネが緊張した面持ちで言った。「島で一番重要、かつ全区画の監視機能が集約されていると書いてありますし」
私たちは頷き合い、南国の植物が覆い茂る通路を抜け、施設の奥へと向かった。
たどり着いた管理センターは、自然豊かな島には不釣り合いなほど、無機質で立派な建物だった。電力は通っているようで、壁面のインジケーターは規則的に明滅している。
だが――。
「……誰もいないの?」
セリカが声を潜める。
自動ドアが開いた先には、広大なホールが広がっていたが、受付にも、警備室にも、人影は一つもなかった。点灯しているライトが、かえってその無人さを際立たせている。
「点検任務、だよね?」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。
『何も無ければ、そのまま遊べる任務』
以前シロコが言った言葉が、頭の中で不吉な予言のように反響する。
(……うん、念のため。不具合があるかもしれないから確認するだけ。きっとそれだけ)
私は、少しだけ胸の奥がざわつくのを無視して、メインコンソールの端末に歩み寄った。
「おじさんがちょっと見てみるよ。こういうのは、年長者の仕事だしね」
「ホシノ先輩?」
アヤネが心配そうな声を出す。
「大丈夫だって。点検だし、すぐ済むよ。異常なしのログを見れば、みんなも安心できるでしょ?」
画面を操作すると、電子音と共に文字列が流れ始める。私の瞳に映るデータは、一見すれば平穏そのものだった。
――通信履歴、異常なし
――基幹システム稼働ログ、正常
――警備システム、一部未応答
「……一部、未応答?」
小さく呟いた、その瞬間だった。
――ピッ。
低く、けれど心臓を掴むような無機質な電子音が、センター内の静寂を切り裂いて鳴り響いた。
「……ん?」
シロコが即座に銃を構える。その動きに呼応するように、他のみんなも武器に手をかけた。
「ホシノちゃん?」
ユメ先輩の声が、少しだけ鋭く強張った。彼女もまた、この空気の変化を感じ取っている。
「問題があれば、その場で対処。……ね?」
私は、無意識に口元を歪めて笑っていた。戦い慣れた者の、防衛本能に近い乾いた微笑。
「……ほらね。念のため、ってやつ。よくある初期不良かな。私がパパっと直してくるよ」
でも。
胸の奥のざわつきは、もう無視できないくらいに、濁流となって大きく膨れ上がっていた。ポケットの中にある、あの先生からの短いメッセージを、布越しに指先で確認する。
『ホシノ、みんなのことをよろしくね』
その言葉が、今は枷のように私の肩に食い込む。
私は一歩、仲間たちから離れて前に出る。
「私が先に見てくるよ。みんなはここでバックアップをお願い。アヤネちゃんはシステムから目を離さないで」
――その選択が、この後、自分たちをどんな絶望の淵に引きずり込むのか。
私はまだ、何も知らずに、闇に沈んだ廊下の奥を、ただ静かに見つめていた。