嫌な予感は、この島に足を踏み入れた瞬間から、ずっと胸の奥に澱のように溜まっていた。
ホシノ先輩が「念のため、私が先に様子を見てくるよ」と、いつものおどけた調子で言った瞬間から、その予感は形にならないまま私の心臓に冷たく張り付いていたのだ。
「大丈夫だって~」
その言葉を、私はこれまで何度も聞いてきた。そして、その言葉が発せられるたびに――あの人は、私たちの見えないところで、自分でも気づかないふりをしながら、限界を超えて無理をしてきた。
それを知っていながら、私たちはまた、あの背中を一人で闇の中へ送り出してしまった。
コンテナの影。薄暗い通路の隅で、崩れ落ちるように座り込んでいるホシノ先輩を見つけた瞬間。私の思考は、沸騰した直後に一気に凍りついたかのような衝撃に襲われた。
鉄錆の匂い。
それ以上に鼻を突く、生々しい血の匂い。
床に不自然な軌跡を描いて広がる赤黒い痕跡。
無理をしたのだと、ひと目で分かった。誰がどう見ても、これは「ちょっと転んだ」なんて言葉で済ませられる状態ではない。
「……先輩」
私の声が、自分でも驚くほど低く、地を這うような響きになった。
ホシノ先輩はこちらの気配に気づくと、一瞬だけ目を見開き、それからすぐに、仮面を貼り付け直したような「いつも通り」の笑顔を向けた。
けれど、その表情は痛みのあまりに微かに引き攣り、歪んでいた。
ユメ先輩が、弾かれたような速さでホシノ先輩の傍らへ駆け寄る。セリカとシロコが即座に周囲の闇へ銃口を向け、迎撃態勢を整える中、私は先輩の足元に深くしゃがみ込んだ。
「……ん……酷い。枝が刺さってる。いや、これは……鉄線? 早く処置して抜かないと、組織が壊死する」
感情を排した、短く事務的な宣告。私は震えそうになる指先を精神力で抑え込み、救急キットを展開して応急処置を開始した。
その時、耳に装着したイヤーピースが、微かなノイズと共に鳴った。
『こちら管理センター、アヤネです』
通信越しに届く彼女の声は、普段の冷静さを維持しようと努めながらも、ガラス細工のように今にも割れてしまいそうなほど張り詰めている。
『外部センサー、およびドック内の赤外線カメラで、複数の熱源反応を確認しました。敵の増援が接近中です。……ホシノ先輩、合流できましたか? 無事ですか!?』
一瞬、誰も答えられなかった。
私たちが目撃している凄惨な光景を、言葉にしてアヤネに伝える勇気が、誰にも持てなかったからだ。
「……あはは、生きてるよー。心配させちゃったかな?」
ホシノ先輩が、肺から絞り出すような掠れた声で、軽く言ってのけた。
『……その声、“無事”ではありませんね』
アヤネの声は、氷のように冷たく、けれど研ぎ澄まされた刃のように硬かった。
『ホシノ先輩。あなたの単独行動は、作戦上の想定外です。先生が不在という不測の事態において、私たちは最悪のケースを常に考慮し、互いをリソースとして活用すべきでした』
その厳しい、けれど愛情の裏返しである言葉に、ホシノ先輩はきつく唇を噛み、視線を泳がせた。
ユメ先輩が、止血帯を締める私の手を支えながら、静かに、けれど逃げ場のないトーンで言った。
「ホシノちゃん。無理しないって、私と約束したよね。あそこで笑って、『分かってます』って言ったよね」
沈黙が流れる。
遠くで、敵の増援が上げる勝鬨のような叫び声が、コンクリートの壁に反響して聞こえてきた。
「……うん。ごめん、なさい」
消え入りそうな、小さな、小さな返事。
それは、いつもおどけていた「おじさん」の仮面が剥がれ落ちた、ただの一人の少女の本音だった。
「当たり前ですよ!」
セリカが、堪えきれずに震える声を荒げた。彼女の背中は、怒りと、それ以上に大きな悲しみで小刻みに揺れている。
「一人で突っ込むとか、ありえませんから! 私たち、そんなに頼りないですか!? そんなに信用されてないんですか!? 対策委員会は、先輩一人のものじゃないのに!」
『セリカちゃん、落ち着いて。感情的になっても状況は好転しません』
通信越しに、アヤネが制す。
『……ですが、私もセリカちゃんと同じ意見です。ホシノ先輩、先輩が「先生の代わり」をしようとする発想自体が、今の私たちにとっては最大の不確定要素であり、危険なんです』
ホシノ先輩は、何も言わなかった。ただ、痛みに耐えるように強く目を閉じ、私たちの言葉を一つ一つ、自分を責めるための弾丸として受け止めているようだった。
私が処置を終え、ひと息ついた――その時だった。
「……でも」
ホシノ先輩が、ふらりと、折れそうな枝のような危うさで立ち上がろうとした。
「まだ……敵の親玉が残ってる。私があれを叩かないと、みんなが……」
体が大きく揺れる。
ユメ先輩が、すぐにその体を両腕で包み込むように支えた。
「ダメ」
はっきりとした、拒絶の声。
ユメ先輩は、ホシノ先輩を床に座らせ直すと、立ち上がり、私たちの方を振り返った。
「私がここで、ホシノちゃんを見てる。だから――」
その瞳には、かつてないほどの強い光が宿っていた。
「お願い。みんな、力を貸して」
ホシノ先輩が、慌てて首を振り、血の気の引いた指先でユメ先輩の服を掴んだ。
「待って、ユメ先輩! それは……私の、私がやり残した仕事で……私が行かなきゃ……」
私は一歩、前に出た。
ホシノ先輩を正面から見据える。
「違う。それは、先輩だけの仕事じゃない」
言葉を選ぶ。
「これは、私たちの仕事。……先輩に、これまで厳しく、そして優しく鍛えてもらった、後輩たちの仕事」
シロコが、隣で小さく、けれど確かな意志を込めて頷いた。
「……ん。信じて。私たちは、もう守られるだけの後輩じゃない」
『……私も、賛成です』
通信越しに、アヤネの声が少しだけ柔らかくなる。
『現状、ホシノ先輩は戦闘継続不可能。論理的に考えても、ここからの戦域制圧は、私たちが対処すべきフェーズです』
セリカが、涙を乱暴に拭って銃を構え直した。
「先輩が全部背負う必要なんて、一ミリもないです! 私たちが、先輩の分まで暴れてきてあげますから!」
ホシノ先輩は、大きく目を見開いて――。
それから、本当に困ったように、けれどどこか救われたような顔で、弱々しく笑った。
「……ずるいよ、それ。私、格好つける場所がなくなっちゃうじゃん…」
小さく、本当に小さくそう言って。
張り詰めていた糸が切れたように、ホシノ先輩はユメ先輩の肩にぐったりともたれかかった。
「……分かった。……お願い、してもいいかな」
その一言に、私たちは全員、肺に溜まっていた熱い息を吐き出した。
私が、ホシノ先輩の返り血がついた銃を構え直そうとした、その時。
「……だって、さ」
ホシノ先輩が、熱に浮かされたような、ひどく柔らかな声で溢した。
私たちはその場に縫い付けられたように動けなくなる。それは、彼女が心の深奥に隠し続けていた、剥き出しの告白だった。
「……みんなには、ただ、笑っていて欲しかったんだ」
先輩の瞳から、一筋の雫が頬を伝う。
「砂漠の……あの、終わりの見えない砂の匂いや、重苦しい借金の数字……。そんなの、今日くらいは全部忘れてさ。青い海を見て、美味しいもの食べて……『あー、夏って最高だね』って。そう言って、笑って欲しかったんだよ」
胸の奥に溜まっていた熱い塊が、言葉となって溢れ出していく。
「……私一人が、ちょっと無理をして、ちょっと痛い思いをするだけでいい。そうすれば、みんなの記憶に残るこの島は、キラキラした楽しい思い出だけで満たされるでしょ? ……砂漠の苦しさなんて微塵も混ざらない、完璧な『夏休み』にしてあげたかったんだ……」
震える手で、先輩は私の、セリカの、ユメ先輩の服を、迷子の子供のようにぎゅっと握りしめた。
「先生がいれば、きっともっと上手くやれた。でも、先生は今ここにいない。だから……私が代わりにならなきゃって。私が傷つくことで、みんなの笑顔が守れるなら……そんなの、安い買い物だって、思っちゃったんだよね……」
言い終えると、現場には潮騒の音だけが、やけに残酷に響いた。
沈黙を破ったのは、セリカの激しい嗚咽混じりの怒鳴り声だった。
「……馬鹿じゃないの!? 最低よ、ホシノ先輩!」
セリカが先輩の肩を、壊れ物を扱うような弱さで揺さぶる。
「先輩が血を流して、独りで死にそうになって……そんな思い出のどこが『楽しい』のよ! どこが『完璧な夏休み』なのよ! 先輩がいなきゃ、海がどれだけ青くたって、私たちには灰色にしか見えないのに……!」
「ん。……同意」
シロコが先輩の手を強く握り返した。その手は、銃を握る時よりもずっと熱かった。
「ホシノ先輩のいない夏休みなんて、必要ない。私たちは、犠牲の上に成り立つ思い出なんて……一秒だって欲しくない」
ユメ先輩が、ホシノ先輩の頬を包み込み、自分の額をそっと重ねた。
「ホシノちゃん……思い出は、一人で作るものじゃないんだよ。苦しいことも、痛いことも、みんなで分け合って……それでも最後には笑えたねって。それが本当の『楽しい思い出』になるんだよ」
アヤネの声が、通信機から震えながら届く。
『……先輩。あなたは私たちの盾ですが、それ以前に、私たちの欠かせない家族なんです。家族を傷つけてまで守られる平和なんて、アビドスの誰も望んでいません……っ』
みんなの言葉が、先輩の凍てついた心を溶かしていく。
「……あはは……。……そうだよね。……おじさん、本当に……バカだね」
先輩はようやく、本物の笑顔を浮かべることができた。
仮面ではない、痛みと後悔、そしてそれ以上の幸福に満ちた笑顔を。
「……ごめんね。みんな。……私のわがまま、ここで終わりにするよ」
力が抜け、ユメ先輩の腕の中に完全に身を預けるホシノ先輩。
その背中を任せ、私たちはかつてないほどの一体感を持って、再び前を見据えた。
「じゃあ、行こう」
先輩が、その身を挺して守ってきたこの場所を。
先輩が、命を削って繋いできたこの時間を。
今度は、私たちが守る番だ。
たとえ先生がここにいなくても。
私たちが、先生の信じた「アビドス対策委員会」であることを、ここで証明してみせる。
――制圧は、私たちに任せて。
暗い通路の先から聞こえる敵の足音。それさえも、今の私たちの歩みを止める理由にはならなかった。私たちは光を背負い、敵の待つ深淵へと踏み込んでいった。
次は私たちが、先輩に「最高に楽しい夏休みだったね」と笑ってあげるために。