アビドス対策委員会(IN梔子ユメ)、夏の大騒動!   作:気弱

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群青の欠片、朱色の記憶

コンテナの影に横たわる私の体から、少しずつ熱が奪われていくのが分かった。

 

激痛はいつの間にか遠のき、代わりに重苦しい気怠さだけが全身を支配している。

 

まるで体の中の何かが、静かに、一滴ずつ漏れ出して空っぽになっていくような感覚。

 

「……ホシノちゃん」

 

意識の淵を漂う私を繋ぎ止めたのは、その柔らかな声だった。

 

ユメ先輩は、血の匂いが立ち込める床に膝をつき、私と視線の高さを合わせて隣に座っていた。

 

「……起きてる?」

 

「……んー……たぶん、ね」

 

自分の声が驚くほど掠れていた。

 

「はは……今ちょっと……燃費悪いかも。……ガソリン切れかな」

 

冗談めかして笑おうとしたけれど、頬が強張って上手く動かない。ユメ先輩は笑わなかった。

 

代わりに、彼女はそっと私の手を取った。

 

「……冷たいね、ホシノちゃん」

 

「……血、抜けすぎた? 貧血かな」

 

「うん。ちょっとね」

 

嘘だ。“ちょっと”なわけがない。床に広がった赤黒い海を見れば、それがどれほど絶望的な量か、私にだって分かる。でも、ユメ先輩のその優しい嘘が、今はひどく心地よかった。

 

しばらくの間、遠くの波音と私の浅い呼吸音だけが流れる。

 

誰も急かさない、凪のような静かな時間。

 

「ねえ、ホシノちゃん」

 

「……どうしました?」

 

「どうして、あんな無茶をしたの?」

 

責めるような響きではなかった。怒ってもいない。ただ、私の心の奥底に隠した真意を、そっと掬い上げようとするような静かな問い。

 

「……さっき言いましたよね」

 

私は重い瞼を持ち上げ、虚空ではなく、すぐそばにあるユメ先輩の瞳を見た。

 

「みんなに、楽しい思い出だけ、残したかったんですよ。……砂漠の乾いた風も、終わらない借金の数字も、引き金を引く音も、この鉄錆びた血の匂いも……。今日くらいは、全部忘れてほしかった。青い海を見て、笑って……最高の夏だったねって、そう言ってほしかったんです」

 

一度溢れ出した言葉は、もう止められなかった。

 

「先生も、いなかったし……。だから、私が代わりにならなきゃって。私が傷つくことで、あの子たちの笑顔が守れるなら……それでいいかなって、思っちゃったんです」

 

そこで、少し息が苦しくなった。胸の奥に溜まっていた、もう一つの本音が零れ落ちる。

 

「……ホントは」

 

声が、子供のように震える。

 

「……ちょっと、怖かった」

 

ユメ先輩の手が、ぎゅっと強くなる。

 

「先生がいなくて……そんな先生にみんなを任されて……。私がもし間違えたら、みんなの日常が、アビドスが、全部壊れちゃうんじゃないかって。……だから、考える前に、体が動いちゃった」

 

「……そうだったんだね」

 

ユメ先輩は、私の汗ばんだ髪を、慈しむようにゆっくりと撫でた。

 

「でもね、ホシノちゃん。あなたが全部を一人で背負い込まなくても、あの子たちはちゃんと自分たちの足で前に進めるよ。あなたがずっと守ってきたから。鍛えて、信じて、背中を預けてきたから。……あの子たちはもう、あなたの想像以上に強くなっているんだよ」

 

胸の奥が、じんわりと熱を帯びてくる。

 

「それにね」

 

ユメ先輩は、少しだけ困ったように、けれど確信を持って笑った。

 

「ホシノちゃんがいなくなる方が、みんな、戦うことよりもずっと、ずっと怖いと思うんだよ」

 

「……ずるいこと、言うなぁ……」

 

涙が、熱を持って溢れた。視界がにじんで、先輩の顔が見えなくなる。

 

「…また…怒られる、かな?」

 

「うん。みんな、すごく怒ってるよ」

 

「……そっか」

 

でも、不思議と嫌じゃなかった。その怒りは、私が愛されている証拠だと、今の私には分かるから。

 

「ねえ、ユメ先輩」

 

「なあに?」

 

「……私、ちゃんと……『先輩』、できてたかな」

 

少しの間の後。ユメ先輩は、はっきりと、誇らしげに答えた。

 

「うん。私の、自慢の最高の後輩で、みんなの自慢の先輩だよ」

 

その一言で、張り詰めていた何かが、全部ほどけて消えていった。

 

「あー……だめだ……。私、もう……」

 

視界が急激に暗くなっていく。

 

「……ちょっと、眠くなってきた……」

 

「うん。寝よっか。ゆっくり休んでいいんだよ」

 

「……みんな……大丈夫……?」

 

「大丈夫。もうすぐ、全部終わるから」

 

安心した瞬間、全身の力が完全に失われた。

 

「……ねえ、ユメ先輩。……先生、来たら……怒られるかな」

 

「ふふ。たぶん、お説教一時間コースだね」

 

「……そっかぁ……。それは、ちょっと……勘弁して、ほしい、な……」

 

最後にそれだけを絞り出し、私はユメ先輩の手の温度を感じながら、ゆっくりと意識の幕を下ろした。

 

「おやすみ、ホシノちゃん」

 

「……おやすみ……」

 

遠ざかる波の音。深い、深い眠りの底へと、私は静かに沈んでいった。

 

………………

 

まぶたの裏が、眩しい光に透けていた。

 

ゆっくりと肺に空気を入れる。

 

ツンとした消毒液の匂い。

 

(……あ、ここ……病院?)

 

重い瞼を開けると、そこには見慣れた野戦病院の天井ではなく、清潔なシーツと、真っ白な天井があった。

 

「……生きてる、んだ、私」

 

ぽつりと呟いた、その瞬間だった。

 

「――当たり前でしょうが!!!!」

 

鼓膜を突き刺すような大音量が響き、耳がキーンと鳴った。

 

「……え?」

 

状況を把握するより早く、視界に黒い影が飛び込んでくる。

 

「ホ・シ・ノ・先・輩!!!!」

 

セリカだった。ベッドの脇に仁王立ちし、猫耳を逆立ててこちらを睨みつけている。

 

「あ、あれ……? えっと、セリカちゃん……?」

 

「“えっと”じゃないです!!」

 

セリカは身を乗り出し、ベッドの縁を拳で叩いた。

 

「どれだけ心配したと思ってるんですか! 血まみれで倒れてて、息も絶え絶えで! 意識が戻るまで、アヤネがどれだけ泣きそうになりながらモニターを睨んでたと思ってるんですか!」

 

一気に捲し立てられ、私は反射的に布団を鼻先まで引き寄せた。

 

「……そんなに、酷かった?」

 

「そんなにです!!!」

 

声が裏返る。

 

「……もう少しで、本当に……取り返しのつかないことになるところだったんですよ……!」

 

その瞬間、セリカの声が震えた。怒鳴っていたはずなのに、その瞳には大きな涙が溜まっている。

 

「……先輩がいなくなるとか……そんなの、絶対に……許さないんだから……」

 

「……セリカちゃん」

 

「……最低です。一人で英雄みたいな顔して……残される側の気持ち、考えたことありますか……」

 

胸が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。

 

「……ごめんね」

 

そう言うと、セリカは乱暴に目元を拭って、ぷいっと顔を背けた。

 

「“ごめん”で済むなら、私たちはこんなに怒ってません! ……もう、二度と……二度とやらないでください……」

 

その後ろで、壁にもたれていたクロコが深く息を吐いた。

 

「……よかった。目、覚ました」

 

「ん。生存確認。ホシノ先輩の心拍、極めて安定」

 

シロコも、ベッドの反対側で銃を置き、安堵したように肩の力を抜いている。

 

「数値、完全に正常範囲に戻りました。……本当に、本当によかったです」

 

アヤネの声が、通信機越しではなく、すぐそばで震えていた。

 

ノノミはベッドの端に腰掛け、少し赤い目を見せながらも、いつもの優しさで笑ってくれた。

 

「もう……心配させすぎですよ~? 次からは、ちゃんと私に甘えてくださいね、ホシノ先輩」

 

ユメ先輩は、少し離れたドアの近くで、慈しむように私を見ていた。

 

目が合うと、言葉を交わさずとも「約束だよ」と微笑んでくれる。

 

「……みんな」

 

声が自然と小さくなる。

 

「……本当に、ごめん。……おじさん、大反省だよ」

 

「反省してます? 誓えます?」

 

セリカが鋭く詰め寄る。

 

「……はい」

 

「なら、いいです。……次やったら、本気で怒りますからね」

 

(今も十分、本気だったと思うけど……)

 

でも、その言葉に込められた熱い想いが、今は何よりも嬉しかった。

 

クロコが一歩前に出て、私の手をそっと握った。

 

「先輩。……無事で、よかった」

 

それだけ。でも、その掌の温度が、全部を物語っていた。

 

「……ありがとう」

 

私は、窓の外から聞こえる穏やかな波音に耳を傾けた。

 

「……ねえ。みんな、ちゃんと……帰ってきたんだよね?」

 

「もちろんです!」

 

セリカが胸を張って即答する。

 

「制圧完了。島はもう安全です。……だから、先輩はもう、何にも気にしないで休んでください。先生だって、もうすぐここに到着するはずですから」

 

「……そっか」

 

胸の奥が、温かな幸福感で満たされていく。

 

(……守られたなぁ。今度は、私が)

 

私は、再びゆっくりと目を閉じた。

 

潮騒の音はもう、孤独を象徴するものではなかった。

 

みんながここにいる。先生がもうすぐやってくる。

 

私たちは――誰一人欠けることなく、最高のアビドス対策委員会だった。

 

 

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