それは、まだ彼が五歳かそこらの頃だった。
深い森の中、木漏れ日が差し込む丸太の上で、少年は自分の手をじっと見つめていた。
(……あ。俺、死んだんだっけ。それで……ここは『葬送のフリーレン』の世界……か?)
脳裏に濁流のように流れ込んできたのは、現代日本で生きていた前世の記憶。そして、自分が愛してやまなかった物語の登場人物――戦士シュタルクとして生まれ変わったという確信だった。
ふと顔を上げると、目の前には岩石のように分厚い胸板を持ち、顔の下半分を立派な髭で覆った低身長の男がいた。
「どうした、シュタルク。ぼうっとしていたら魔物に食われるぞ」
(……本物のアイゼンだ。間違いない。この人が俺を最強に育ててくれるんだ!)
少年は興奮に震えた。目の前にいるのは伝説のドワーフ戦士(と信じ込んでいる)。そして自分はその弟子。やるべきことは一つだった。
「師匠! 俺を鍛えてください! 最強の戦士になりたいんです!」
「……ほう、やる気があるなら構わんがな」
アイゼンは鼻を鳴らした。この時の少年は知る由もなかった。目の前の養父はドワーフですらなく、単に「ドワーフに憧れて見栄を張っているだけの人間(ヒューマン)」であり、実力も迷宮都市オラリオの中堅レベル(Lv.3)に留まる元冒険者に過ぎないということを。
こうして、世界一凄惨で、世界一デタラメな修行が始まった。
アイゼンは指導のプロではない。弟子に格好をつけるために「これくらい言っておけば伝説の師匠っぽくて格好いいだろう」という極めて不純な動機で、自分ですら不可能なメニューを次々と考案していった。
「まずは斧の振り方だ。次にその拳でそこら辺の岩を割れ。話はそれからだ」
(本家もやってた理不尽な修行! これを乗り越えなきゃ本物のシュタルクになれないんだ!)
アイゼンが投げた「適当な課題」を、シュタルクは「戦士への登竜門」だと誤解した。当初は普通の岩を相手に斧を振り、拳を血に染めていたが、転生者ゆえの根性と「本家はもっと凄いはずだ」という強迫観念が彼の才能を異常に開花させた。数年後、シュタルクはただの岩では物足りなくなり、師匠が顔を青くするほどの右往左往を経て、家ほどもある「大岩」を斧一振りで両断するまでになった。
シュタルクが成長するにつれ、アイゼンの「見栄」は加速していく。ある日、アイゼンはかつて同じファミリアにいた極東出身の仲間の姿を思い出し、その場のノリで必殺技を創作した。
「いいか、これぞ戦士の極意……『閃天撃(せんてんげき)』だ。この技を放つときは、必ずその名を大声で叫べ。魂の振動が武器に伝わり、威力が十倍に跳ね上がる。……ちなみに俺が現役の頃は、これで龍の角をへし折ったもんだ」
ただ格好いい漢字を並べ、「叫べば強くなる」という子供騙しの嘘を添えただけ。しかし、シュタルクはそれを「雲を割るための絶対の理」として盲信し、毎日腹の底から技名を叫びながら数万回の素振りを己に課した。
ある時、事件は起きた。成長しすぎる弟子の放つプレッシャーに、アイゼンが思わず恐怖し、反射的に拳を振り抜いてしまったのだ。アイゼンの拳は、シュタルクの**額(でこ)**を深く割った。
鮮血が視界を染める。アイゼンは自分のしでかしたことに激しく動揺し、震える手で弟子を突き放した。しかし、シュタルクはそれを「師匠を失望させた。こんなに震えるほど俺はダメなのか」と深く刻み込んだ。額の傷こそが「未熟な証」だと信じ込み、修行は狂気的な領域へと突入する。
十六歳の後半。シュタルクはついに「山」そのものをターゲットに据えた。
(本家は十八歳で崖を割った。なら、十七歳になる俺はもっと先を行かなきゃいけない……。この山だ。この山を割るために、閃天撃を完成させるんだ!)
そこから、山を相手にした試行錯誤が始まった。斧を振るたびに大地が揺れ、森の鳥たちが逃げ出す。アイゼンはその轟音を聞くたびに「あいつ、マジで何してんの……?」と小屋の隅でガタガタ震えていた。
——そして、十七歳の誕生日。
ついにその瞬間が訪れた。全身のバネ、遠心力、そして「本家へのリスペクト」という名の呪圧を込めた一撃。
「閃天撃ッ……!!」
少年が叫んだその瞬間、大気が爆ぜた。音速を超えた衝撃波が山の中腹を貫通し、巨大な山塊が物理的に「半分にズレて」轟音と共に崩落した。アイゼンの「叫べば強くなる」というホラを、シュタルクが事実(リアル)に変えてしまったのだ。
「師匠……やりました。山、半分くらい割れました。これで俺も、フリーレン様たちの旅に合流できますか?」
誇らしげに報告する弟子に、アイゼンは顔を引き攣らせて、ついに真実を白状した。
「……シュタルク。悪い、もう限界だ。全部嘘なんだ」
「……え?」
「俺は人間だし、レベル3の元冒険者だ。龍の角を折ったのも、叫べば強くなるってのも全部ホラだ。閃天撃ってのも、ただそれっぽく言ってみただけだ。修行もお前が本当にやると思わなくて適当に言っただけだ。……あと、そのフリーレンとかいう奴らも知らん。ここは迷宮都市オラリオの近郊だ」
シュタルクの脳内が真っ白になった。
フェルンとの旅も、フリーレンとの再会もない。自分が「修行不足の証」だと思っていたこの額の傷ですら、師匠が自分への恐怖で反射的に付けただけの「失敗の産物」だった。
「……じゃあ、俺、恩恵(ファルナ)も受けてないのに、山を割るバケモノになっちゃったんですか……?」
「ああ。正直、俺も毎日隣で爆音がするたびに怖くて震えてた。お前、マジで引くわ……」
「俺も引くわ!! なんだよこの体!! 自分の腕が一番怖いよ!!」
己の異常性にドン引きし、ガクガクと膝をつくシュタルク。
夢見ていた「楽しい旅」の約束は、最初から存在しなかった。
しかし、絶望の底で、彼はアイゼンがかつて語った『オラリオ』という街の存在を思い出す。
(楽しい旅は幻想だった。でも……神様に選ばれた冒険者たちがうじゃうじゃいる街なら、このバグった俺の力を振るいつつも、まだ楽しくすごせる場所があるかもしれない……)
「師匠。俺、オラリオに行くよ。あんたがついた『嘘』はもういい。ただ冒険者になれば冒険は出来るんだろ?そこで居場所を見つけてくるよ」
アイゼンは、かつて自分がLv.3時代に無理して使っていた重すぎる斧を、餞別に渡した。シュタルクはそれを羽根のように軽く背負い、一歩を踏み出した。
十七歳の夏。額に消えない傷を刻んだ、最強の勘違い戦士の物語が、今、迷宮都市に向けて幕を開けた。