――フランシス・ベーコン『
Te ratio ducat, non fortuna.
――Titus Livius, “Ab Urbe Condita”, 22, 39.
あの日から、この目に映る世界は変わってしまった。
人を信じられない。信用できないのではなく、信頼できない。他者に期待することにためらいを感じる。シンオウ神殿でウォロと戦い、袂を分かった日から数年、その傷と痛みをショウは今も抱え続けていた。
信頼と敬意に値すると思っていたのだ。否、裏切りを経た今もなお、その判断は間違っていなかったと思っている。知識を求め、未知へと向かう好奇心に共感を抱いていた。他人の意見で自分の行動を左右しない強い意志を評価していた。コトブキムラを追われたショウに差し伸べられた手に感謝していた。それらは一つとして失われてはいない。ショウが把握していたウォロの人物像は誤っていなかったし、裏にどのような思惑があったにせよ、助けられた事実は否定されないのだから。
ウォロは好奇心と向上心を行動原理とし、それらを最も優先する人間だ。知識を求め、真理を求め、目的のために万難を排して進む意志を持つ。それはつまり、自分の好奇心と向上心を裏切らないために、他者を裏切れるということで──故にショウは裏切られた。
裏切られても敬意は失われず、だからこそ、敬意の先にあるものによって受けた傷は痛み続ける。人を見誤って傷つくことを恐れているのではなく、信じるに値すると評価したものによって傷つくことを恐れている。それが関係性を壊し、自分の心に爪痕を残しうることに気づいてしまった。
要するに、信じ抜くための覚悟と勇気が足りていない。
それはショウにとっては大問題だった。彼女の望みを現実のものとするための道は、人を信じていなければ歩き続けることは難しい。ウォロが残していったものはあまりにも大きかったのだ。それこそ、何も対処しなければ後々にまで影響を及ぼしかねないほどに。
だからといって、それは簡単に解決するような問題ではなかった。結局のところ、失われた信頼を取り戻すためには、再び人を信じるほかないのだろう。心の底に燻る恐怖を抱え、それでも前へと踏み出さなければならない。
そのためにショウは今、はじまりの浜に泊まる船に乗り、その出港を待っていた。
ポケモン図鑑が完成してしばらくした頃、調査隊はある問題にぶつかっていた。
「伝説のポケモンに関する知識が不足しています。ヒスイで暮らしていくためにクリティカルな情報だというのは時空の裂け目の件から明らかですのに、ボクたちは彼らのことを殆ど知りません」
研究室で図鑑の編集作業を進めている最中、ラベンは深刻な表情で危惧を語った。
「そうですね……。あのときはコギトさんが受け継いできた伝承のおかげで何とかなりましたけど、次に何かあったときに対処できるとは限りません。それに、また誰かが濡れ衣を着せられないとも言い切れませんから」
異変の原因が分からない中、裂け目から落ちてきた出自不明の人物だというだけの理由でショウの関与が疑われた。処分を決めたデンボクの立場とて、全く理解できないわけではない。しかし、あの時点で原因や対処方法が多少なりとも分かっていれば、他の手段をとりえたのだろう。
「ですから、ヒスイに伝わる伝説を調査する必要があります。コンゴウ団・シンジュ団の方々や……コギトさんに協力していただくのがよいでしょうか」
一瞬、ラベンは言い淀んだ。あの人が思い浮かんだのだろう。しかし、ショウを慮って口に出さなかった。
「いえ……適任者を、あたしたちは知っているはずです」
気遣いはありがたかったが、知っている人を知っているのに意図的に除外するのはショウの主義に反する。
「ショウ! 無理する必要はないんだぞ。おまえがされたことを思えば当然だろ! そもそも行方だって分からないんだし」
テルは心配そうな目をショウに向けた。ショウが悩んでいたことを、テルも気づいていたらしい。
「ありがとうございます、テル先輩。無理をしてるわけじゃないんですよ」
そう言ってショウはラベンに向き直る。
「博士、あたしはウォロさんが適任だと思います。リスクがないとは言えませんが、知識も思考力も意欲も、あの人以上を見つけるのは難しいです。それに、行方には心当たりがあります。正確には、いくつか候補が」
ウォロが姿を消してからというもの、ヒスイでは全く足取りが掴めなかった。ウォロとて人間である以上、他者との関わりを完全に絶つことは難しいはずだ。しかし、あの目立つ容姿の人物に目撃情報の一つすら集まらなかった。おそらくヒスイにはいないのだろう。ヒスイを離れたウォロの行先は、他地方の遺跡である可能性が高い。
「あたしがウォロさんを探しに行きます。……行かせてください」
ショウはラベンに頭を下げる。ショウにはウォロと会わなければならない理由があった。
「……ウォロさんがいなくなってから、キミが何かに苦しんでいることは知っていました。あの人に、会いに行く必要があるのですね?」
「はい。もう一度、話す必要があるんです。……過去と決着をつけなければいけません」
出港を告げる声が響き、船が桟橋から離れていく。
この世界に来て初めてヒスイから出る高揚、その先にいるはずの人と向き合う緊張に心臓が早鐘を打つ。
目指すはジョウト地方の北──シント遺跡へ。
他者は思い通りではいてくれないからこそ他者なのだ。