「これが5万年ボタンですか」
蛸島悠真は、目の前の装置を見つめた。魔法回路が刻まれた台座の上に、赤いボタンがひとつ。
「はい。押すと認知空間に意識が飛ばされて、主観的に5万年を体験します」
説明しているのは、研究員らしき女性。白衣を着ている。顔は……なぜか、よく見えない。
「実際には5万年も経たないんですよね」
「ええ。電気刺激と精神魔法で時間認知を加速させるだけです。実際は数ヶ月から2年程度」
「で、終わったら記憶は消える」
「はい。5万年分の記憶は脳が処理できないので」
「つまり僕の体感では、ボタンを押した次の瞬間には終わってる」
「そういうことになります」
悠真は肩をすくめた。
「100万マドル貰えるなら、悪くない取引ですね」
ボタンを押した。
気づいたら、白い空間にいた。
何もない。床も壁も天井も、全てが白い。境界線すら見えない。
「……本当に何もないな」
呟いた瞬間、声がした。
「提供されるのは時間と空間だけですから」
振り向くと、女性が立っていた。
さっきの研究員——ではない。白衣は着ていない。私服だ。そして、顔がはっきり見える。
黒髪。穏やかな目。どこかで見たことがあるような——
「誰ですか」
「監視員です。被験者の精神状態を観察して、破綻しないよう調整するのが仕事です」
「監視員? 聞いてませんけど」
「説明はされてるはずですよ。読み飛ばしたんじゃないですか」
「……」
図星だった。
「5万年、よろしくお願いしますね」
監視員は微笑んだ。どこかで見たことがあるような顔だったが、思い出せなかった。
「……よろしくされても困るんですが」
「そうですか? 私は楽しみにしてますよ」
意味がわからなかった。
「魔法は使えるんですよね」
「はい。この空間は精神魔法で生成されてるので、むしろ外より効率がいいです」
悠真は頷いて、構築魔法を発動した。
床に四角い領域が浮かび上がり、壁が生えて、天井が閉じる。簡素な部屋が出来上がった。
「持ち込み申請した本は」
「中にあるはずです」
部屋に入ると、確かに本棚があった。経済誌と専門書が並んでいる。椅子と机もある。
「これで5万年過ごせと」
「ご自由に」
悠真は振り返った。監視員は、部屋の外に立っている。
「……1つ、いいですか」
「はい」
「プライバシーもあったものじゃない」
魔法で、床に線を引いた。部屋を囲むように、白い空間に赤い境界線が走る。
「この線から入って来ないでください」
「わかりました」
監視員は素直に頷いた。
それから、どれくらい経っただろう。
本は全て読んだ。30回以上。暗記できるほど読み込んだ。
それでも、まだ数ヶ月しか経っていなかった。
「……暇だ」
呟いた。誰にも聞こえないはずだった。
線の向こうで、監視員が何かを口ずさんでいた。歌だ。聞いたことがあるような、ないような。
「……」
気づいたら、部屋を出ていた。
線の手前で立ち止まる。彼女は歌い続けている。
「……あなたは——」