「……どういう意味ですか」
悠真の声が低くなった。警戒の色が混じっている。
「そのままの意味ですけど」
「イヤホンから漏れてた? いつの話ですか」
「大学3年の時です。先輩が4年の」
悠真は少し間を置いた。
「……だから『先輩』と呼んでたんですか」
「はい。本当に先輩ですから」
「場所は」
「図書館の自習室。先輩、いつも窓際の席にいましたよね」
悠真が黙った。
「私、その2つ隣の席が定位置だったんです」
「……知らなかった」
「知らないと思います。先輩、周り見てなかったので」
「それは……」
「悪口じゃないですよ。集中してたんだなって」
悠真は少し間を置いてから、聞いた。
「……そういえば、名前」
「え?」
「聞いてなかった。あなたの名前」
彼女は少し驚いたような顔をして、それから微笑んだ。
「桜です」
「……桜」
「はい。よろしくお願いしますね、先輩」
「今更よろしくもないでしょう」
「じゃあ、改めて。先輩の名前は?」
「……蛸島です。蛸島悠真」
「蛸島先輩」
「……なんですか」
「タコ先輩」
「は?」
「蛸島だからタコ。タコ先輩」
悠真——もといタコ先輩が顔をしかめた。
「勝手にあだ名つけないでください」
「いいじゃないですか。呼びやすいし、可愛いし」
「可愛くない」
「私の中ではもうタコ先輩です」
タコ先輩は諦めたようにため息をついた。
「で、その曲は何なんですか」
「教えません」
「は?」
「先輩が思い出してください」
タコ先輩が眉をひそめた。
「3年前の曲なんて覚えてませんよ」
「じゃあ思い出すまで楽しみにしててください。5万年ありますし」
「……あなた、本当に性格悪いですね」
「2回目ですよ、それ」
桜が指を2本立てる。タコ先輩が舌打ちした。
沈黙が流れる。
タコ先輩は自分の領域に戻ろうとして、足を止めた。
「……1つだけ」
「はい」
「なんで覚えてるんですか。2つ隣の席の人間のイヤホンから漏れてた曲なんて」
桜が首を傾げた。
「先輩は覚えてないんですか?」
「何をですか」
「2つ隣に誰が座ってたか」
「……覚えてません」
「ですよね」
桜は笑った。いつもの微笑みではなく、どこか寂しげな笑み。
「私は覚えてます。それだけの話です」
タコ先輩は何か言いかけて、やめた。
踵を返し、自分の領域へ戻っていく。
「先輩」
「……何ですか」
「おやすみなさい」
「この空間に夜はないでしょう」
「気分の問題です」
タコ先輩は振り返らなかった。
ただ、小さく「おやすみなさい」と返した。
桜はそれを聞いて、また歌い始めた。
同じ曲を。
3年間、ずっと覚えていた曲を。
<<hr>>
続く