その日の夜、東雲家は静まり返っていた。
彰人は不在、父も書斎に籠もっている。
リビングの窓辺。月明かりだけが差し込む部屋で、星名は椅子に腰掛け、じっと夜空を見上げていた。
白く細い首筋、光を透かす淡い髪の先。彼女がふう、と深く息を吐いた瞬間、その体までもが白い霧に変わって、夜風に混ざって消えてしまうのではないか——。
絵名は、自分の部屋に向かっていた足を止めた。
絵の具の匂いが立ち込める中、目の前の妹があまりに「透明」すぎて、網膜に焼き付いているはずの姿が、どんどん淡く、薄くなっていく錯覚に襲われる。
「……あ」
気づけば、絵名は、星名の背中にしがみついていた。
震える指先で、妹の柔らかな部屋着の生地を、爪が食い込むほど強く、強く握りしめる。
「お、お姉ちゃん……? どうしたの、急に」
驚いて振り返ろうとする星名を、絵名は許さない。
顔を星名の細い背中に押し付け、くぐもった声で必死に呟く。
「……動かないで。どこにも、行かないでよ」
「え……?」
「あんた、時々……本当に消えちゃいそうなんだもん。私が描いた絵みたいに……。色が褪せて、ただの白い紙に戻るとか……そんなの絶対に嫌。お願いだから、ちゃんとここにいて。明日も、明後日も、ずっと……」
絵名の腕の中に伝わる、星名の微かな体温。
けれど、その温もりさえも、月光が強まれば蒸発してしまうのではないかという恐怖が、絵名の胸を締め付ける。
星名は一瞬、瞬きを繰り返したが、やがてすべてを理解したように優しく目を細めた。
自由な方の手で、自分の腰に回された姉の震える手を、包み込むようにそっと重ねる。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。私はどこにも行かないよ」
「……嘘。あんたは、誰にでも優しいから、空が呼んだらそのまま行っちゃいそうなんだもん」
「ふふ、そんなことないよ。……お姉ちゃんがこんなに強く私を呼んでくれるんだもん。私は、お姉ちゃんの隣に、繋ぎ止められていたいんだよ」
星名は椅子から降りて向き直ると、今度は自分から絵名をそっと抱きしめ返した。
絵名の肩に顔を寄せ、トクトクと脈打つ自分の鼓動を、姉に伝えるように。
「ねえ、お姉ちゃん。私の心臓の音、聞こえる? 私は、ちゃんとここにいるよ」
絵名は返事の代わりに、さらに深く妹の肩に顔を埋めた。
その温もり、服の擦れる音、そして自分の指先に残る確かな感触だけが、今この瞬間、星名という少女が「現実」というキャンバスに繋ぎ止められている唯一の証だった。
「……明日も、ちゃんと起こしてよね。……あんたが作った、朝ごはん食べるんだから」
「うん。お姉ちゃんの好きな、フレンチトーストにするね」
夜の静寂の中、二人はいつまでも寄り添い合っていた。
一番星が夜空から消えてしまわないように、姉はただひたすらに、その光を抱きしめ続けていた。