「……一旦休憩。東雲さん、今のフレーズ、もう少し低音の響きを意識してくれる?」
志歩がベースの弦を止め、汗を拭いながら星名に告げる。
星名は「うん、わかった。やってみるね」と、疲れを見せずに微笑んだ。
一時間、一切の妥協なしで行われた集中練習。その張り詰めた空気を緩めるように、星名は部屋の隅に置いていた大きな保冷バッグを手にとった。
1. 蓋を開けた瞬間の「景色」
「みんな、お疲れ様。……志歩ちゃん、これ、よかったら食べて。今日の練習に合わせて考えたメニューなんだ」
星名が広げたのは、四人分の色鮮やかなお弁当だった。
「わあぁ! 待ってましたっ、せーちゃんのお弁当!」
咲希が真っ先に飛びつく。一歌と穂波も、蓋を開けた瞬間の美しさに感嘆の声を上げた。
志歩の前に置かれたのは、根菜の炊き込みご飯と、山椒を効かせた鶏の照り焼き、そして目に優しいとされる紫キャベツのマリネ。
「……練習に合わせて、メニューを?」
志歩が不思議そうに尋ねる。
「うん。今日は志歩ちゃんのベースがすごく力強いから、噛み応えがあって、でも集中力が切れないように消化にいいものを選んだよ」
星名は、まるで楽譜を読み解くように、志歩の状態に合わせた献立を解説した。
2. 完璧すぎる「調和」の味
一口食べた志歩は、箸を止めて絶句した。
「…………。何、これ」
鶏肉の火入れは完璧で、噛むたびに溢れる旨味。炊き込みご飯の出汁の加減は、高級料亭でもお目にかかれないほど繊細だった。何より、練習で昂った神経が、食べるごとに穏やかに鎮まっていくのがわかる。
「東雲さん……。あなた、風景画がプロレベルで、さっきの歌も……それだけでも異常なのに。この料理、何なの? 趣味の範囲を完全に逸脱してる」
「美味しいならよかった。……私ね、彰人やお姉ちゃんが頑張ってる姿を見るのが好きだから。二人を支えたくて作ってるうちに、いつの間にかできるようになったの」
星名は当たり前のように言うが、志歩からすれば、これは「努力」だけで到達できる域ではない。対象を深く観察し、最も必要な形に変えて提供する……その圧倒的な「才能」の多重奏に、志歩は寒気すら覚えた。
3. 多才ゆえの「空恐ろしさ」
「……風景画、歌、料理。……天は二物を与えずって言うけど、あなたを見てるとその言葉が嘘に聞こえるわ」
志歩はマリネを口に運びながら、少しだけ苦笑した。
「私、ただのベース馬鹿だから……一つのことに人生懸けてる人間からすると、あなたみたいな存在は、正直……怖いくらいよ」
「怖い……?」
星名が不思議そうに首をかしげる。
「ええ。何をやらせても『本物』になれる。……でも、そんなあなたが私たちのために歌ってくれるんだから、これ以上の贅沢はないわね」
志歩の表情から、いつもの険しさが少しだけ消えた。星名の作る「優しさ」に、志歩のストイックな心もしなやかに解かされていく。
4. 結末:一番星のハミング
食事を終え、満足感に包まれるスタジオ。
星名は片付けをしながら、また何気なく鼻歌を歌い始めた。
その声は、今食べたばかりのお弁当の味と同じように、滋味深く、聴く者の心を温める響き。
志歩はベースを再び手に取り、その声に寄り添うように、静かな低音を重ねた。
「……よし、後半戦。今の『味』を忘れないうちに、もう一度合わせるわよ」
「うん、頑張ろう、志歩ちゃん」
多才な星名という「一番星」に導かれ、レオニの音楽は、今まで以上に深く、豊かな色彩を帯び始めていた。
その日の帰り道
• 志歩の自省: 帰宅中、志歩は自分の夕食(コンビニのサラダ)を見て、「……あの味を思い出して、明日も頑張るか」と自分を奮い立たせた。
• 星名のメモ: 星名は今日のみんなの食べっぷりを思い出しながら、「志歩ちゃんはもう少し塩分があってもいいかな」と、次の練習のための「特製レシピ」をスマホにメモしていた。