予科練こと海軍飛行予科練習生。
それは海軍が旧制中学校を持っていたと言って言い。
元来、海軍飛行隊では、旧制中学(5年制)4年修了程度の若者を下士官候補として採用し、練習航空隊でパイロット教育を施していた。
だがしかし、それでは将来不足すると考える様に成り、高等小学校(2年制、戦後に新制中学と成る)卒業程度の少年に試験を受けさせ、合格者には旧制中学相当の教育を海軍で受けさせた後に、練習航空隊でのパイロット教育に進ませたのである。
これは、経済的理由その他で中学進学が困難に成っていた少年たちに教育の機会を与えることに成った。
そして軍国主義の時代もあって、予科練はパイロットを目指す少年たちの憧れと成っていた。
平賀才人も、そんな少年たちの1人だった。
才人の父親は、下士官上がりの機関士官だった。
「ボイラー焚き」1筋で、水兵から士官まで成り上った彼には、息子を中学に進学させるだけの経済的余裕はあった。
だがしかし、1日でも早く憧れのパイロットに成りたい息子は、予科練を選択した。
ここで陸軍少年飛行兵では無く海軍を選んだのは、やはり父親の背中を見ていたからだろう。
予科練を受験して合格した才人は、将来の下士官としての教育を受け、更に練習航空隊に進んで戦闘機パイロットとしての教育を受けた。
そして卒業し、いよいよ部隊配備を待つ才人に手渡された辞令は、
「軍艦「隼鷹」擬装員を命ず」
というものだった。
これは、この航空母艦が完成したとき、その乗組員に成るということを意味していた。
辞令を受け取った才人は、空母が建造中の造船所が在る長崎へと向かった。
造船所の門で身分証明書と辞令を示して擬装中の艦が係留されている岸壁に向かった才人は、如何にも空母らしい全通甲板のシルエットを現しつつある、自分の乗艦を見上げて感慨を覚えていた。
ところが、その艦上に意外な姿を見た気がした。
服装は海軍士官らしい装いだが、どう見ても特徴ある髪を靡かせた美少女に見えた。
(そんな、アホな)
思わず,そこらに居た先着の擬装員たちに問い質していた。
その質問に対する反応も予想外だった。
「ほう、お前さんには見えるのかい」
その時、教えられた。
「船乗りたち」が信じる「艦魂」という存在のことを。
聞いた才人は、艦上に上がってみた。
先程、見かけた少女を見付け、近寄って話し掛ける。
「貴女は「隼鷹」なのか?」
少女は、才人を振り返った。
「あなたには私が見えるのね。でも、あなたも私を其の名前で呼ぶのね」
意味深な言い方だった。
最寄りの航空基地でゼロ戦を受領した才人は、戦闘機パイロットとしての技量が落ちない様に訓練を続けるとともに「隼鷹」の完成に、先任の擬装員たちに教わりながら協力した。
そして、遂に完成した「隼鷹」乗組の戦闘機パイロットとして、戦場に赴く時が迫った。
才人と「隼鷹」の初陣は、ミッドウェー作戦に連動したアリューシャン群島攻略だった。
次いで、ソロモン諸島の沖で戦われた空母決戦に参加した。
だがしかし、アメリカ軍の対日戦争における決勝兵器ともいうべき「エセックス」クラス空母部隊との、最後の戦いが待っていた。
この戦いでも、才人はゼロ戦を駆ってアメリカ軍機と戦った。
だがしかし、遂に敵の攻撃が、才人の見慣れたシルエットの艦を襲った。
「「隼鷹」!」
思わず叫んだ才人だったが、それは「隼鷹」の姉妹艦「飛鷹」だった………。
……。
…日米戦争は終わった。
「負け逃げ」の形に成った日本では、様々な改革が始まり、その1つとして帝国空軍が発足した。
それに伴い、才人も海軍の下士官パイロットから空軍少尉へと転じることと成った………。
……。
…才人が空軍少尉としての任務に成れてきた頃、ソ連軍との新たな戦争が始まった。
才人も新たなる乗機、51式戦闘機「奔馬」を駆って、満州の空に戦うことに成った………。
……。
…その年の暮れ。
色々とアメリカ軍式に成っていた帝国空軍では、パイロット達にも交代で休暇を取らせる様に成っていた。
折しもクリスマスイヴ、対米戦争の頃は「敵性文化」として忌避されていたが、今やアメリカ文化に積極的に習う時勢に成った為、普及していた。
才人はイヴの休暇を、どう過ごすか少しだけ迷った。
そして丁度、本土から増援の兵員を輸送してきたまま港に入港していた、チャーター契約の客船でのクリスマスパーティーに潜り込むことにした。
船上パーティーの席上、才人は、乾杯の盃を掲げる人影に気付いた。
この客船の高級船員と同じ服装の、しかし才人には見覚えのある美少女。
近寄って声を掛けていた。
「そこに居るのは「隼鷹」だろ」
「私は「橿原丸」よ」
実は「隼鷹」は、東京オリンピックに備えて建造された豪華客船「橿原丸」を改造した空母だった。
東京オリンピックは戦争の為に中止され「橿原丸」は空母「隼鷹」に改造された。
姉妹船「出雲丸」は客船と成ること無く、空母「飛鷹」として散った。
日米戦争が終わって停戦条件の1つとして、改造空母は空母では無くなることに成った。
例えば潜水母艦から改造されていた空母は潜水母艦に戻った。
客船改造の空母も客船への再改造が行われることに成ったのだ。
例外と成ったのは「大和」型戦艦3番艦に戻ることを何処かの誰かが懸念したかも知れなかった「信濃」くらいだったろう。
「隼鷹」も「橿原丸」に戻った。
そして現在は、客船本来の人員輸送能力を活用して、兵員輸送の為のチャーター契約で就航していた。
「そうだったのか」
そう感慨を感じる才人の前で「橿原丸」(船魂)は乾杯の盃を掲げた。
「メリークリスマス、お姉様」
平和の祭典の為に建造されながら、そのオリンピックを見ることなく散った姉「出雲丸」に、そして祖国の為と信じて自分を発進し戦った「子供たち」(飛行隊)に。
才人も盃を掲げた………。
……。
…時は移り、1964年10月10日。
今度こそ、東京オリンピックは開催された。
この開催が、国内外の様々な場所で祝われた。
今は海上ホテルとして係留されている「橿原丸」の船上でも。
豪華客船を人は「海上のプリンセス」とも言う。
かつての東京オリンピックの為に建造された「プリンセス」の船体には、鮮やかに「5輪マーク」が描かれていた。
今は此の平和の祭典の為に訪れる人々を運ぶ任務は、客船から旅客機に移っていた。
そんな1機の操縦桿を握るのは、海軍から空軍を経て、民間機パイロットとして後半生を歩む平賀才人だった。
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