「松」型駆逐艦は日米太平洋戦争の戦訓に基づいて建造された、戦時量産型の汎用艦である。
太平洋戦争に於いて、駆逐艦は艦隊の働き者として、不眠不休ともいうべく活躍した。
その結果、多くの艦が戦没し又傷付き、深刻な不足が懸念された。
だがしかし、開戦時に日本海軍が保有していた駆逐艦は、艦隊決戦または其の前夜に於ける敵主力艦への魚雷攻撃に特化していると言ってもよく、その為の高性能を求めた結果として、当時の日本造船界の生産力では量産に向いているとは言い切れなかった。
1方で対米戦争の戦訓は、対水上艦の雷撃に特化した其れ専門の高性能艦では無く、対潜水艦、対航空機、そして対水上艦から輸送任務までのバランスの取れた汎用艦を求めていることが明らかに成っていった。
こうした戦訓に基づいて、対潜、対空に力点を置き、量産性にも優れた其の為には例えば高速性能などは妥協出来るだけは妥協した艦として設計された。
高出力に成れば成るほど精密に成り、調達困難に成るエンジンの入手が優先されたのである。
こうして戦時に対応した「松」型駆逐艦の量産が始まった。
だがしかし、敵は日本の建造したどの駆逐艦よりも大型で(酸素魚雷以外は)高性能であり改良余地に余裕のある「フレッチャー」クラス駆逐艦を100数10隻も量産してみせ、決戦兵器と言うべき「エセックス」クラス正規空母すら量産したアメリカ合衆国だった。
そして、先に挙げた様な戦訓が明らかに成ったのは、当然ながら開戦し、ある程度の時間が経過した後だった。
その為、間に合った兵器に成るかどうかが、微妙だった。
「松」型駆逐艦の量産艦が次々に実戦参加し始めたのは、1944年。
その年の8月には、日本の「負け逃げ」の形で対米戦争は終わった………。
……。
…戦争が終わって、再出発が始まった。
海軍も対米戦争の消耗からの再建を始めた。
そして先ず、数量的に回復するまで「松」型の量産が続けられることに成ったのである………。
……。
…1945年の夏。
北方警備を任務とする第5艦隊の第1水雷戦隊改め第5護衛戦隊に「松」型駆逐艦8隻が配備されていた。
その装備は、生産開始当時からは1新されていた。
日米停戦の条件の1つ「アメリカ製兵器の日本市場への開放」に従い、アメリカ製のレーダーやソナー、対潜迫撃砲「ヘッジホッグ 」等が搭載されていた。
主砲も12.7cm高角砲から5in,(インチ)両用砲に換装され、アメリカ製の対空機関砲や機銃が搭載された。
1方で、日本海軍の自慢だった酸素魚雷は残された。
実の処、対潜、対空に力点を置くとはいえ、艦隊の働き者としては「松」型だけでの任務に就くこともあり、その際に敵水上艦に遭遇することも在りえた為に対水上艦の攻撃力をゼロにするわけにもいかなかったのである。
これが例えば、空母護衛を任務とし、雷撃などは空母攻撃機に任せればいい「秋月」型との違いだった。
こうしてアメリカ製兵器で強化された「松」型駆逐艦8隻は、第5艦隊所属として北方警備の任務に就いていた。
艦隊旗艦は「高雄」型重巡洋艦姉妹の生き残り「鳥海」2番艦は「古鷹」型姉妹の生き残り「青葉」だった。
更に「松」型駆逐艦を率いる戦隊旗艦は、ベテランの5500トン級軽巡洋艦「多摩」同じく5500トン級の1隻「五十鈴」が対米戦争中に防空巡洋艦に改装された実績に加え、戦後に輸入されたアメリカ製対空、対潜兵器を搭載して改装された艦である。
元々、開戦時の最新駆逐艦「陽炎」型の旗艦として建造中だった「阿賀野」型が、やはり雷撃指揮に特化した艦だったことも在り「松」型が数量的再建の主力と成るにあたって「松」型の拡大版と言って好い汎用艦であり、司令部機能も備えた「石狩」型が建造されることに成ったが、流石に巡洋艦を1年弱で建造は出来ず、それまでの繋ぎと言えた。
これ等の戦闘艦に加え、北の海のパトロールに適応した海防艦が数隻というのが、北方警備部隊の陣容だったが、その海防艦の定時パトロールが突然に中断された。
この日、東アジア時間で1945年8月8日から9日に変わった瞬間、ソヴィエト連邦が大日本帝国に宣戦布告したのである。
平時のパトロール艦である海防艦などを、迂闊にソ連側の近海に近づけたら、撃沈されかねないとの判断からだった。
代わって航空索敵が厳にされたが、隠す気も無いかの様に巡洋艦3隻を主力とする艦隊と護送船団がカムチャッカ半島から近づいてくるのが発見された。
そして、北方警備部隊が基地とする幌筵島の隣、千島列島の最北端でカムチャッカに最も近い占守島に接近してきた………。
……。
…確かに千島と樺太は、江戸幕府とロシア帝国の時代からの係争地だった。
紆余曲折を経て、日本が統治する様に成っていた南樺太と千島全島は、ソ連側にしてみれば取り返すべき土地だったかも知れない。
満州侵攻に併せて南樺太や千島に進攻し、あわよくば北海道も、という発想も彼らにしてみれば在りえただろう。
だがしかし”現在”の日本は世界を相手に戦い、敗戦しつつある衰亡の国では無かった。
既にアメリカを始めとする連合国とは停戦し、再建し始めている国家だった。
北方警備を任務とする第5艦隊も北方に復帰していた。
そして、第5艦隊の司令長官は出撃を決断した………。
……。
…既に占守島では、上陸するソ連軍と守備する日本陸軍との交戦が始まっていた。
そして、島にはソ連艦隊と船団が群がっていた。
これに対し日本第5艦隊では、先ず第5護衛戦隊が戦隊旗艦を先頭に突入した。
対空射撃を基本とする砲とはいえ、水上艦船を撃てない訳ではない。
だからこその両用砲と言われるのだ。
護衛戦隊の各艦は、敵船団に両用砲を撃ちまくりながら(昨今アメリカ軍から習った言い方ならば)HVU(高価値目標)を探した。
そして発見した、この艦隊の主力と思(おぼ)しき3隻の巡洋艦を。
「魚雷戦用意ーっ」
戦隊旗艦からの命令に従い「松」型8隻は、1斉に魚雷発射管をHVUに向けた。
「松」型駆逐艦(艦魂)8人は、引き金に指を添え、
「てーっ」
落とした。
アメリカ海軍をして
「魚雷だけは日本軍が上だった」
とまで言わしめた酸素魚雷が8隻各艦4門づつ計32問の発射管から放たれ、ソ連巡洋艦を狙って突進した。
更に、次発装填装置から装填された次発魚雷が追い打ちとばかりに発射された。
そして魚雷は命中、巡洋艦3隻は大破した。
こう成ると、もう日本艦隊の独壇場だった。
第5護衛戦隊の各艦はエスコートを失った船団を撃ちまくり、艦隊旗艦「鳥海」は、
「「青葉」よ来たれ」
2番艦「青葉」に続行させて、占守島に接近した。
この2隻の大型巡洋艦の主砲は、対艦に特化していたと言って好い20cm連装砲から、対空そして対地艦砲射撃に至る汎用性を力点として15.5cm3連装砲に換装されていた。
その15.5cm砲が、占守島に上陸し日本陸軍と交戦中のソ連軍に対して撃ち込まれた。
15.5cmは陸上ならば立派に重砲である。
それが「鳥海」の15門「青葉」の9門の合計24門から、釣瓶(つるべ)撃ちに撃ち込まれた。
従来の日本戦車に代わり、4式戦闘戦車(アメリカ側から購入したM4シャーマン戦車)で武装し、ソ連軍と互角以上に戦っていた日本陸軍には充分な援護だった。
その上、ソ連軍の後続と補給を載せた船団は、日本艦隊に因って沈められつつあった。
こうしてソ連軍の千島侵攻は、第1島である占守島で挫折したのである。
奇しくも、この「松」型駆逐艦による殊勲は、水上艦隊同士による雷撃に因って戦果を上げた最後の例と成った。
少なくとも、21世紀最初の4半期現在では、そうである………。
……。
…日本軍は千島の防衛に成功し、樺太では逆に北樺太を占領した。
そして、主戦場と言うべき満州でも戦争は終結した。
新たなるソ連軍の侵攻に備え、樺太や千島の要地には、旧式戦艦から種別変更された特殊警備艦が浮き砲台として配置された。
幌筵泊地にも「金剛」型戦艦だった「比叡」「霧島」が配置された。
「比叡」「霧島」の36cm主砲ならば、幌筵泊地から占守全島を射程圏内に収められた。
これがどの程度の抑止力に成ったか、ソヴィエト連邦の崩壊する日まで、再度の侵攻は無かった。