ゼロ戦こと零式艦上戦闘機は「栄」エンジンとのベストマッチに因って、その高性能を発揮していた。
そして、日本航空界に於ける最大生産数を達成する程に活躍した。
だがしかし、それは「栄」エンジンの高出力化の限界が其のままゼロ戦の改良の限界であることを意味していた。
それでも、試作型である11型、前期生産型である21型に続いて32型、43型と改良が続けられ、そして対米戦争が「負け逃げ」に終わった後に、決定打ともいえる54型が登場した。
実の処、この54型の誕生には、日米停戦が関わっている。
停戦条件の1つ「アメリカ製兵器の日本市場への開放」に基いて、エンジンの重要な補助機器であるターボチャージャーが輸入されたのだ。
「栄」エンジンは高度3000~4000mで搭載機に最大限の性能を発揮させるエンジンだった。
無論、その高度でも富士山に匹敵する。
その為「栄」エンジンにも、機械式過給機は装着されてていた。
だがしかし、それ以上の高度ではターボチャージャーを装備する連合国軍機には、到底及ばない。
高高度性能や上昇力のみならず、より空気抵抗の小さい高高度で発揮される高速性能などでも、日米戦争後期には連合国軍機がゼロ戦を上回っていった。
当然ながら日本側でもターボチャージャーを欲したが、遂に自力での実用化を達成せず、日米戦争は終わった。
皮肉というべきだろうか、戦後に成ってアメリカ製のターボチャージャーが輸入されて、ゼロ戦の「栄」エンジンに装着された。
更には、アメリカ製の高性能ガソリンが輸入出来る様に成った。
当然に、出力の増大や高高度性能の向上が期待されたが、結果として改良は他の方向に進んだ。
出力に余裕が出来た為、その欠如が長くゼロ戦の弱点とされて多くのパイロットの犠牲を生んで来た防弾板が、装備された。
それでも尚、出力には余裕があり、空中性能も向上した………。
……。
…日米停戦から1年。
ソ連軍の満州侵攻に因って、今度は日ソ戦争が勃発した。
既に帝国海軍にはゼロ戦の後継「烈風」や繋(つな)ぎとされた「紫電改」が、陸軍航空隊と海軍基地航空隊を統合した帝国空軍には新型機である51式戦闘機「奔馬」(その実態はアメリカから輸入したP-51H「マスタング」戦闘機)が配備されていた。
多くのゼロ戦で名を残したエースパイロットが「烈風」「紫電改」や「奔馬」に乗り換えていた。
だがしかし無論のこと、全ての空母や基地航空隊の戦闘機が新鋭機に更新されていた訳では無かった。
未だ、少なくないゼロ戦54型が、実戦部隊に残っていた。
そして、戦闘機対戦闘機の主力を譲った後も、54型は日ソ戦争の最後まで活躍した。
例えば、向上された高高度性能や上昇力を活用した対爆撃機の迎撃任務である。
ゼロ戦の20mm機関砲はアメリカ製戦闘機の12.7mm機銃よりも弾丸の威力が大きく、戦闘機などよりも強靭な大型爆撃機にも有効だった。
また日ソ戦争当時でも尚、高性能といえた低空での運動性と新たに装備された防弾板に因る生存性を活用した地上部隊への襲撃任務にも活躍した。
20mm機関砲は、本来防御を考慮されていなかった薄い上部装甲ならば、走行車両を貫通出来るとされた。
こうして、アメリカ製のターボチャージャーを装備したゼロ戦54型は、日ソ戦争の終結まで前線で戦い抜いた。
この戦争は、レシプロエンジン搭載機が主力と成った、最後の戦争とも言われた。
ジェットエンジン航空機の時代が来ようとしていた。
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