元来、日本海軍の陸上攻撃機は陸上基地から発進して洋上の敵艦を攻撃する機種だったが、日中戦争の頃から陸軍の重爆撃機隊に混じって陸上目標への長距離空爆を実行する様に成った。
やがて日米戦争が停戦と成って後、帝国空軍が発足して陸軍航空隊と海軍の基地航空隊が其処に統合されると、海軍陸攻部隊の殆(ほとん)ども(対潜哨戒機部隊を除いて)空軍の爆撃機部隊に統合された。
この結果として帝国空軍爆撃機部隊には、陸軍由来と海軍由来の様々な爆撃機が混在する様に成り、これらを統合する必要を感じた。
無論、これは爆撃機のみの問題でも無かったが。
更には日米停戦の条件の1つ「アメリカ製兵器の日本市場への開放」もあって、日米戦争中には痛感させられた、より高性能のアメリカ製の4発大型爆撃機が求められた。
日米戦争中には、日本海軍でも4発大型陸攻の開発が企図されたが、実用化出来たのは大型飛行艇のみであり、陸軍に至っては双発機を重爆撃機と呼んでいる有様だった。
この需要に対してアメリカ側では(見方によっては気前が好いとも言える)新型機の供給で応えた。
日米停戦の時点で実用化されたばかりの新鋭機「超空の要塞」とも呼ばれたB-29爆撃機である。
日米戦争が続いていれば日本本土を焼き払っていたかも知れない「超空の要塞」は、帝国空軍に売却されて、29式重爆撃機「火竜」と名付けられた。
ちなみに日米停戦直前の時点で、帝国陸軍は「火竜」と仮称する爆撃機を開発しようとしたが、停戦に因って放棄されている。
1つにはドイツから導入したジェットエンジン技術によって開発されようとしていたことに因るだろう。
この試作機に限らずドイツから導入した技術情報については、アメリカ側に引き渡すかどうかが、停戦交渉での議論を呼んだ。
何れにせよ、対日戦争への投入の為にアメリカ工業界の誇る生産力で量産されつつあった大型爆撃機は、その日本で新たに発足した空軍の爆撃機と成ったのである。
*
その「火竜」爆撃機隊へと海軍陸攻部隊から横滑りしてきたパイロットの中に、野中五郎が居た。
野中は、歴戦の陸攻部隊飛行隊長である。
1式陸攻の部隊長として、日米戦争を最前線で戦い抜いた。
部下に対しては、べらんめえ口調の侠客を演出し、攻撃のことを「討ち入り」と言い、自分の飛行機隊を「野中1家」と称していた。
そんな野中と部下たちが、新たな重爆「火竜」に搭乗することに成ったのである………。
……。
…日米停戦から1年「野中1家」が「火竜」に習熟してきた頃、日ソ戦争が勃発した。
再び「野中1家」は戦場に赴(おもむ)くとに成る………。
……。
…九州北岸の都市に存在する空港、実は軍民共用であり、戦時には近くの北九州空港に民間空港としては代替してもらって軍の航空基地と成る。
対ソ戦争の当時も、爆撃機「火竜」と援護戦闘機「奔馬」が配属されていた。
その基地から此の日も「野中1家」は出撃して行った。
対馬海峡を横断し、半島を縦断し、満州の敵標的を目指す。
与圧の効いた「火竜」のコクピットは、ヒマラヤ山脈程の高空でも快適だった。
いっそのこと、狭い与圧の無いコクピットの「奔馬」パイロットたちに対して、軽い罪悪感を覚えるくらいに。
指揮官として野中は、そんな感傷に身を任せることなく、自分の部隊が爆撃するべき標的に意識を向けていた。
先行する「火竜」の偵察機型「風雲」からは、天候不良の報告が入っていた。
「ならば…」
野中は決断した。
やがて爆撃機隊は、標的付近の上空に差し掛かる。
眼下は厚く広がる雲に遮られていた。
「行くぜ!野郎ども!」
「「「ガッテン承知!!」」」
無線電話を通じて「野中1家」の何時もの遣り取りが交わされ、編隊先頭の機の操縦桿を野中が押すと、機体が降下して雲の中に突っ込んだ。
次々と、部下たちの機体が続く。
たちまち雲を突っ切り「火竜」の巨体からすればムチャとしか言いようのない低空まで舞い降りると、そのまま地面スレスレを突進する。
まるで、敵艦隊への雷撃の為に海面スレスレを飛ぶかの様に。
その編隊の爆弾扉が開いた。
中に搭載されているのは、これは日本製の800kg爆弾である。
日米戦争の為に日本海軍向けに生産されたまま、停戦後も処分しかねていた爆弾が日ソ戦争の為に消費されていた。
その800kg爆弾が「火竜」の搭載力の限りに満載されていた。
みるみる標的であるソ連軍陣地が迫ると、そのスレスレを飛びながら、800kg爆弾の雨あられが降り注いだ。
地上は地獄絵図だろう。
それを尻目に「野中1家」の「火竜」編隊は再び雲の中へ、その上の高空へと上昇して行った。
雲上の巡航高度に戻ると、編隊を組みなおし帰途につく。
野中が状況を問い質すと、流石に何機かは対空砲火から何発か被弾していた様だが、帰還に支障のある機体は無さそうだった。
防弾軽視の結果「ワンショットライター」とまで敵軍に呼ばれた1式陸攻で日米戦争を戦い抜いた野中たちからすれば、驚嘆する程の打たれ強さだった。
「ようし、けぇるぞ、野郎ども」
「「「ガッテン承知」」」
「野中1家」の戦いは、日ソ戦争の終結まで続いた。
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帝国空軍の、アメリカ製戦略爆撃機に習った重爆撃機の系譜は、冷戦時代のB-1爆撃機に習った可変翼の音速爆撃機「飛鳥」まで続いた。
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