その為、艦隊とは関係の無いエピソードも混じります。
例えば、今話も艦魂は登場いたしません。
日本陸海軍の航空部隊では、3機編隊を編成の基本単位である小隊とする体制が伝統だった。
その1方で、戦闘機同士の空中戦に成ると、単機での格闘戦に陥(おちい)りがちだった。
だがしかし列強諸国の空軍では、2機編隊ないしはこれを組み合わせた4機編隊での集団空戦が定着しつつあった。
1つには、通信技術の問題もあっただろう。
確かに
「雑音ばかりで実用的で無い。むしろ余分な重量物だ」
などと言われる程度の無線通信の精度では、2機以上での集団戦闘など出来たものでは無い。
だがしかし既に”太正”時代に、秘密部隊とはいえ、帝都ー巴里間の無線通信が実用化されていたのである。
この為1942年の現状に於いて、4機編隊戦闘の実用化に応え得る精度の無線電話が、日本海軍のゼロ戦(零式艦上戦闘機)にも搭載される様に成っていた。
これに因り、従来の3機編隊小隊に4番機のパイロットが配属される様に成った。
とある3人のパイロットの元にも、新鋭のパイロットが配属されてきた。
*
とはいえ、この3人は既に3機編隊の小隊長を務めるエース・パイロットだった。
成程、3人の内の1人坂井三郎は、他の1人笹井醇一が新人パイロットとして部隊配属された当時の「教官」役を務めた。
また、残る西沢広義とも、長年「同じ釜の飯を食った」戦友だった。
恐らく海軍当局の思惑としては、何れも実績あるエース級の3人に有望な新人を預けることで、新たな4機編隊戦闘の成功例としたかったのだろう。
配属される4番機パイロットは鴛淵孝、笹井の学校時代の「対番」だった。
対番とは以下の様な制度を言う。
将来の士官を教育する学校は全寮制であり3年生以上は同学年で同室だが、2年生と1年生は、2年生と1年生それぞれが同数ずつで同室に成り、1対1の組み合わせで1年間の生活を送る。
2年生としては「士官」つまりは卒業後は部下を持つ上官を養成する学校としては最初の上官経験であり、予科練などの海軍の学校出身でも無ければ全くの新兵であろう1年生に対しては、1対1での軍隊生活そのもののキメ細かい教育が期待される。
そうした経緯があるため、他の先輩後輩よりも強い絆が期待されたのだろう。
無論、鴛淵が将来有望な新人パイロットであることも確かだったが。
鴛淵は、坂井・西沢・笹井が配属されている南太平洋のラバウル基地へと、受領したてのゼロ戦とともにやってきた………。
……。
…連日といっても好い実戦の中で、鴛淵も促成的ながら1応の戦闘機パイロットとして成長し、坂井たちも4機編隊での集団戦闘をマスターしつつあった頃…
ラバウルからゼロ戦の戦闘半径ギリギリに位置するガダルカナル島にアメリカ軍が上陸し、日本軍が完成間近だった航空基地が占領された。
直ちに、坂井たち4人を含めたラバウル航空隊は、ガダルカナルの米軍に反撃するため出撃した。
その帰途…
坂井は「味方から逸(はぐ)れた、無警戒な戦闘機編隊(?)らしきもの」を発見し、後方から奇襲しようと目論んだ。
その時、無線電話に鴛淵の声が響いた。
「坂井!(1応、鴛淵は学校出の士官で坂井は下士官だった)あれは戦闘機じゃ無い。
後席に機銃のある艦攻(艦上攻撃機)だ。近寄るな!」
危ない処だった。迂闊に後方から近寄れば、返り討ちにされていたかも知れない。
坂井は戦線離脱の危機を回避していた………。
……。
…ガダルカナルの戦いは数か月に及び、何とか日本軍が奪回した後も、ソロモン諸島の空に日米両軍の航空戦は続いた。
その中で、坂井・西沢・笹井・鴛淵の4機編隊は、共同撃墜を含めた戦果を着実に上げていった………。
……。
…そんな或る日、ラバウルの坂井たちは、戦争が終わったことを知らされた。
日本の「負け逃げ」の形で、日米戦争は停戦と成ったのだった。
これ以降の日本は、アメリカの同盟国として、アメリカの影響下に民主化しながら歩んで行く。
その1環として、陸海軍の再編成も行われた。
新たに帝国空軍が発足し、陸軍航空隊と海軍の基地航空隊が其処に統合された。
海軍からも、艦載機(空母搭載機や空母以外の艦に搭載される水上機)や対潜哨戒機を除く航空隊が、空軍に統合された。
坂井・西沢・笹井・鴛淵たちも其の中に居た。
更に士官搭乗制度が発足し、陸海軍の下士官パイロットだった者たちが新たに発足した空軍士官学校で速成教育を受けて、空軍少尉に任官した。
坂井・西沢も例外では無かった。
笹井・鴛淵も空軍士官に横滑りした。
そんな彼らが、空軍士官としての任務に成れてきた頃、彼らの前に新たな機体が現れた。
帝国空軍の51式戦闘機「奔馬」実は日米停戦の条件の1つ「アメリカ製兵器の日本市場への開放」によって購入された、P-51「マスタング」戦闘機の日本名である。
特に、徹底的に再設計された改良型ながら、余りにも改造した為に部品互換性などの問題から既に配備されていた連合国の実戦部隊からは敬遠されていたP-51Hが、新たな同盟国に供給されていた。
これが彼らの、新しい愛機だった………。
……。
…彼らが「奔馬」の操縦と模擬腔戦に完熟していた頃、1945年8月9日。
ソヴィエト連邦が日本に宣戦布告し、満州に攻め込んで来た。
帝国陸海空軍は、満州と其の周辺に出兵した。
坂井・西沢・笹井・鴛淵の「カルテット」(4機編隊)も、其の中に居た。
彼らが戦うのはソ連軍だが、その使用する兵器はソ連製だけでは無かった。
日本軍が今や同盟国と成ったアメリカ製の兵器を輸入していれば、ソ連もまた、今や正式停戦成って友好国の1つと成ったナチス・ドイツから兵器を輸入していたのだった。
例えば、ドイツ空軍に於いて多くのエース・パイロットが搭乗したBf109G戦闘機ことロシア語名「ゲオルギー」がソ連軍に於いても人気の戦闘機だった。
かくて満州の空では、日本人パイロットの搭乗するアメリカ製戦闘機と、ソ連軍パイロットの搭乗するドイツ製戦闘機が対決することに成るのである………。
……。
…その日も、坂井たちの「カルテット」は「ゲオルギー」を連携して追い詰め、パラシュート脱出に追い込んだ。
帰還して、この共同撃墜を報告すると、司令官たちが如何にも嬉しそうに肩を叩いてきた。
「やったな」
話を聞けば、共同撃墜を含めた4人の撃墜数の合計が、今日の共同撃墜で累計800機に達したとのことだった。
個人の撃墜数で言えば、ドイツ空軍のエーリヒ・ハルトマンが只1人、300機以上の撃墜を報告している。
だがしかし、ハルトマンには今1つの神話が在った。
ドイツ空軍に於ける2機編隊戦術、ロッテ戦法の相棒を誰1人として戦死させなかった、とされている。
そこまでロッテ戦法に徹底したからこそ、300機以上の撃墜だったと言えよう。
この「最強のカルテット」も、そうだった。
初めて4機編隊戦闘を導入して以来、1人も欠けることなく戦い抜いた。
そこまで編隊戦闘に徹底してこそ、共同撃墜を含めた800機撃墜だったのだ………。
……。
…彼ら「最強のカルテット」は、日米戦争そして日ソ戦争を4人で戦い抜いた。