久遠兄妹の歪な日常 作:いっぺー
薄暗いカーテンの隙間から、冬の朝の冷え切った光が差し込んでいた。
しかし、僕を包む毛布の中だけは、湿り気を帯びた花の香りと、逃げ出したくなるほどの甘い熱が充満している。
「……お兄ちゃん。起きて、朝だよ」
鼓膜に直接流し込まれるような、柔らかな声。
目を開けるより先に、首筋に柔らかな感触が触れた。妹の冬花の唇だ。彼女の大きな瞳は、まだ眠りの中にいる僕を逃さないよう、執念に近い情熱を持って至近距離から僕を見つめていた。
「おはよう、冬花……」
「うん、おはよう……まだ眠そうだね、お兄ちゃん」
冬花は僕の頬に冷たい指先を添え、愛おしそうになぞる。昨夜、深夜に僕の部屋へ忍び込んできた彼女は、何も言わずに僕の背中にしがみつき、僕たちはそのまま「本当の兄妹」ではないことを確認し合った。その名残が、シーツの乱れと、僕の体にこびりついた彼女の匂いとして残っている。
「父さんは……?」
「お父さんはもう、私がお弁当を渡して送り出したよ。今頃はもう職員室かな。今日は朝から会議だって言ってた」
冬花が「お父さん」と言うとき、その声には一切の迷いがない。
久遠道也。僕の実の父であり、彼女の恩人。父さんの不在。それは、この家が僕と冬花だけの「聖域」に変わる合図だった。
「いいよ、お兄ちゃん。そのまま座ってて……私が全部、してあげるから」
冬花は慣れた手つきで掛け布団を剥ぎ、僕の体を抱き起こす。
僕はまるで、意志を持たない人形のように彼女のなすがままに身を任せる。彼女はまず、僕のパジャマのボタンを上から一つずつ、儀式のように丁寧に外していった。
パジャマが肩から滑り落ち、僕の裸体が露わになる。冬花の視線が、僕の鎖骨や胸元に残る、昨夜の「痕」をなぞった。
「……綺麗。これ、私がつけたんだよね」
彼女の指先が、赤紫色の痕を愛撫するように触れ、ひやりとした感触に背筋が震える。
彼女はクローゼットから、完璧にアイロンのかかった清潔なシャツを取り出した。
「腕、通して?」
冬花の指示に従い、袖に腕を通す。彼女は僕の正面に膝立ちになり、至近距離で僕のシャツのボタンを留めていく。彼女の吐息が僕の胸元にかかり、意識が朦朧とする。
指先が不意に僕の肌に触れるたび、それが偶然なのか意図的なのか判別できないまま、僕は彼女の母性に感情が揺れ動く。
「お兄ちゃんは、何もしなくていいの。私が、お兄ちゃんの全てを管理してあげる……ね?」
彼女は最後の一つまでボタンを留めると、満足げに僕の胸に一度顔を埋め、深く呼吸をした。僕という個体を自分の一部として確認するかのような、恐ろしくも甘い時間だった。
一階のダイニングに降りると、そこには完璧な朝食が並んでいた。
焼き魚、出汁巻き卵、湯気を立てる白いご飯。父さんが座っていたはずの椅子は、既に整然と収められている。
冬花は僕の隣にぴったりと座り、自分の分には手を付けず、箸を持って僕を見つめた。
「さあ、お兄ちゃん。あーんして?」
「……冬花。自分で食べられるから大丈夫だよ」
僕は苦笑いして、自分で箸を持とうとした。
その瞬間、冬花の手が止まった。
そして彼女の大きな瞳に、みるみるうちに大粒の涙が溜まっていく。
「……お兄ちゃん。私のこと、もう必要ないの? 私のしてあげることは、お兄ちゃんにとって迷惑だったの……?」
彼女の肩が微かに震え、今にも零れ落ちそうな涙が彼女の頬を濡らそうとする。
僕は心臓が止まるような衝撃を受けた。彼女が壊れる。僕が拒絶すれば、この子はまたあの絶望の淵へ戻ってしまう。
「ち、違うんだ! 冬花。ごめん……僕が悪かった……食べさせて、欲しい」
僕が慌てて言うと、冬花はパッと顔を輝かせた。涙を指で拭い、聖母のような、あるいは無邪気な子供のような笑顔で僕に箸を向ける。
「本当? よかった……。はい、あーん」
彼女から差し出される卵焼き。甘すぎるほどのそれは、彼女の愛の重さそのものだった。
咀嚼し、飲み込む。彼女はそれを確認するたび、恍惚とした表情を浮かべる。
僕の血も、肉も、彼女が与えたもので出来ていく。
僕は、彼女という名の揺り籠の中で、自立という言葉を忘れていく。
食後、再び冬花による「仕上げ」が始まった。
彼女は僕の前に立ち、制服のネクタイを手に取る。
「動かないで、お兄ちゃん」
彼女は僕の首にネクタイをかけ、ゆっくりと結び目を作っていく。
顔と顔の距離は数センチ。彼女の甘い石鹸の香りと、体温が混ざり合う。
冬花はわざと時間をかけるように、僕の襟元を整え、ネクタイを締め上げていく。彼女の指が僕の首筋を執拗になぞり、喉仏をそっと愛撫する。
「私達……本当の兄妹じゃないから、学校でもこうしてあげたいな」
彼女はねっとりとした視線で僕を見上げ、最後の一仕上げとして、結び目をギュッと強く締めた。
それは「あなたは私のもの」と、目に見えない首輪をつけられたような感覚だった。
「これでよし。今日も完璧だよ、お兄ちゃん」
冬花は僕の制服の乱れを何度も確認し、自分の髪を整える。
鏡に映る僕たちは、どこから見ても仲の良い、美しい兄妹だ。けれど、その内側でどれほどドロドロとした熱が溶け合っているか、誰にも想像できないだろう。
「忘れ物はない? お兄ちゃんの心は、ちゃんとここにある?」
冬花は僕の左胸をポンポンと叩き、クスクスと笑う。
「……ああ。全部、冬花に預けてあるよ」
玄関のドアを開けると、冷たい冬の朝の空気が流れ込んできた。
けれど、冬花が僕の手を握った瞬間、その冷気はどこか遠くへ消え去った。
彼女は僕の指を一本ずつ絡めるようにして、深く、隙間なく手を繋いでくる。
「学校でも、私のことだけ考えててね。……私だけのお兄ちゃん」
外の世界へ出れば、僕たちは「普通の兄妹」として振る舞わなければならない。
けれど、繋がれた手から伝わる異常なまでの熱が、僕たちの関係が普通ではないことを、片時も忘れさせてはくれない。
並んで歩く僕たちの影は、朝日を浴びて地面の上で一つに重なり、決して離れることはなかった。