――できるはずだ。
 予備校生である少女は抜け道に社を見つける。そこで買った二百円の御守に効果なんてあるはずは無い。ましてや、天変地異を止めることなんて出来ない。
 しかし、それを握る彼女はポケモントレーナーであった。昔も、今も。

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近道の御守、あるいはとある少女トレーナーの後日談

 朝の林の中はやや肌寒い。しかし、私の肌は汗ばんでいた。坂道の果ては、まだはるか上に見える。

 かがみ込み、スカートの下からのぞく運動靴のボタンを押す。かなり前のモデルのランニングシューズだ。引っ張り出しておいて良かった。制服では許されなかった、文明の利器である。

 アシスト機能が、私の身体を半自動で前へと押し進める。これは本来、狭い路側帯で使うものではなく、広大なフィールドを駆け回るためのもの。制御を誤れば危険だ。対向車が来ないか、細心の注意を払わなければ。

 

「やっほー!」

 

 無理やり坂を登らされているうちに、気分まで前向き、上向きになった気がする。

 スクールに遅刻しかけて、この抜け道を走らざるを得ない状況だとしても。

 

 

 

 バスに乗り遅れたのは、私が寝坊したせいだろうか。いいや、違う。スマホで確認した。あのバスは定刻より一分も早く発車したのだ。

 人は言うかもしれない。一分前に着いていなかったお前が悪い、と。

 今日は用水路に財布を落としたおばあちゃんがいて、私のポケモンに取ってもらっていたせいで遅れたのだ。なのに、そんな風に言われたら……。

 

「そんなの、ないわー!」

 

 誰もいないのをいいことに、私は叫んだ。

 大丈夫。周りには木立に紛れたナゾノクサやマダツボミ、もしかするとウソッキーもいるかもしれない。彼らは私の言葉を理解できないし、万が一理解したとしても、誰かに告げ口することはないだろう。

 残念なことにね。

 

 

 

 峠に着いた。真横に石段がある。急制動をかけて見上げてみる。

 少し先に、人が立ったままギリギリ抜けられるほどの小さな鳥居があった。横の石碑には「九根社」と彫られている。

 十中八九、キュウコンを祀っているのだろう。黄金色の体毛と九本の尾を持つ、美しいポケモン。特に特性が「ひでり」の個体は、神聖視されやすい。

 

「残念ですが、今は失礼します! 急いでいるので、また来ます」

 

 鳥居に軽く会釈し、下り道に目を向ける。眼下にはコンクリートのビルや瓦屋根の住宅街が広がっていた。

 これは筋肉痛、確定かな。

 まあでも、これなら余裕で間に合うだろうし、新しい散策スポットも見つかった。「捨てる神あれば拾う神あり」ってね。

 飛ぶように加速する。ランニングシューズが地面を跳ねる。

 それでも、まだ足りない。大空を自分のポケモンに跨って飛び回った、あのスピード感には到底及ばない。

 彼らは実家に置いてきた。「あなたはバトルにうつつを抜かして試験勉強しなくなるだろうから、三匹だけ連れていきなさい。さもなければ、また落ちて一年勉強する羽目になるわよ」と母に言われて。

 ちなみに、そのうち一匹は母に懐柔されたスパイだ。私が勉強をサボっていると、勝手に実家に報告する。

 というわけで、私のトロピウスはここにはいない。いないんだ。

 

「ママのバカヤロー!」

 

 坂道を跳ねながら、私は叫んだ。少しだけ、胸がすっとした。

 

 

 

 新生活は、必ずしも爽快なものではない。大変だったけれど新しい出会いや体験に満ちていたかつての旅路と比べ、実に窮屈だった。

 ワニノコと旅に出た頃は、シャワーが冷水しか出ないことくらい笑って耐えられたのに、今では一定の温度を保てない蛇口にすら文句を言ってしまう。

 

「衰えたのかな、私」

 

 ふよふよと浮かぶ紫のポケモンに問いかける。とんがり帽子のような頭部に、ネックレスのように宝石が連なったゴーストポケモン。私のムウマージだ。

 銀色の湯釜の前で湯の調整をミスした私は、彼女に愚痴をこぼした。

 彼女は美しい呪文のような鳴き声で応えてくれる。それだけで、心が癒やされた。

 私は彼女をそっと抱きしめる。

 

「贅沢を言うけど、あなたも話せたらもっと賑やかだったのにね」

 

 こう言えば「娘が寂しがっている」と、母が仕送りを増やしてくれるかもしれない。

 チラッとスパイである彼女を見たら、ジトッとした目でこちらを見ていた。下心がバレたか。

 今日もテストの点数が良くなかった。明日も帰りに、受付のお姉さんのラッキーに抱きついて幸運を分けてもらおう。

 浮気するな。と、目でそう言われた気がした。

 

 

 

 少し早起きして、私は例の石段を登っていた。一礼して鳥居をくぐる。

 そこは草がうっすらと生えた広場になっていた。奥に山の斜面が見え、その手前に祠がある。周囲には、涸れてはいるが手水舎と、小さな棚が置かれていた。

 全く管理されていないわけではないらしい。

 棚の中を覗くと、賽銭入れと「豊穣」と書かれた御守が籠に数個入っている。中に「二百円」と書かれた紙切れもあった。

 

「やすっ」

 

 思わず声が漏れた。少し考えて、「点数も実りますように」と願い、硬貨を二枚入れる。

 棚の戸の裏に「九根様の尾の毛入り」と書かれているのが見えた。

 あまりの破格っぷりに驚く。本当に、商売目的ではないのだろう。

 御守を手に取って眺めていると、祠の方から物音がした。

 まさか、キュウコン。

 境内とはいえ、念のためムウマージをボールから出す。他の子は、少し威圧的すぎるから。

 草が擦れ合う音。祠の真下が揺れている。

 中から出てきたのは、たんぽぽの葉っぱ。その下から、ピンク色の小さなポケモンが姿を現した。

 

「ハネッコじゃん! 可愛い!」

 

 さらに小さなハネッコが、数匹ぞろぞろと出てくる。

 ムウマージと共に近づくと、今度は白い綿毛が三つ付いた青いポケモンが出てきた。

 ワタッコ。最終進化形なだけあって、相応の実力はあるはずだ。戦闘準備をするよう、ムウマージに目配せする。

 しかし、ワタッコはこちらを警戒するでもなく、ただそこに佇んでいるだけだった。

 様子を窺っていると、一匹のハネッコがひょこひょこと跳ねてきて、私のシューズにすり寄ってきた。

 ワタッコの方を見る。彼女は私を一瞥すると、すぐに他のハネッコたちへ視線を戻した。

 

「触っても、いいの?」

 

 ワタッコは、こちらを見ただけで何の反応も返さない。

 

「ありがとう」

 

 私は警戒心のない足元の子を抱き上げる。ひょこひょこ動くのに、くさタイプだけあって、獣臭さがない。ペットボトル一本分ほどの重さしかないその子を、飛ばされないようにしっかりと抱きしめた。

 気がつくと、他の子たちも足元に集まってきており、ワタッコもじっとこちらを見ていた。

 

「ちょっと。これからスクールなんだけど……」

 

 日向の境内。草の間から白い砂利がのぞく暖かな空間で、私は途方に暮れた。

 

 

 

 それから、私はたまに社へ寄るようになった。ハネッコたちが跳ね回るのを眺めたり、自分のポケモンたちを日向ぼっこさせたり。

 遅刻しかけてランニングシューズで坂を爆走し、鳥居の上でハネッコ達を引き連れたワタッコに綿を振られることもあった。

 朝はハネッコ、夜はラッキー。これで私の点数は上がる……はずもなく。

 結局、ムウマージ越しに母に監視されながら、真夜中に机に向かう日々が続いた。

 御守を握りしめる。少しでも、少しでもいい。力を貸してほしい。

 

 夢に見るのは、仲間と過ごした懐かしい日々。

 ワニノコやムウマ、ココドラといった、自分より小さな子たちと心細く過ごした街道の夜。

 心強い緑の翼に身を任せて駆けた、夕暮れの空。

 ピカチュウに似た姿のゴーストポケモンと、必勝の策を練ったナイターの光。

 ぬめっとした水ポケモンを抱きしめたまま、水平線に見た夜明け。

 

 真夜中に目を覚ました私は、枕元の三つのボールを撫でた。

 強風が窓ガラスを揺らす。

 夢なんかじゃない。私は確かに、あの世界を自由に生きていた。

 

 明日の模擬試験が終わったら、この子たちとまた遊ぼう。

 あの頃みたいにはできないかもしれない。でも、思い出すことはできるんだ。

 

 

 

 翌朝。ポンチョを着て、横殴りの雨に打たれながらバスを待っていた。

 来ない。こんな時に限って、定刻に来てくれない。

 このままでは遅刻する。せっかくの模擬試験。親に出してもらった費用も、受けられなければ無駄になる。

 いっそ、このまま……という、そんな邪念を振り払い、私は決断した。

 山を抜ける。これしかない。

 

「急げ!」

 

 ランニングシューズのスイッチを入れ、坂道を駆け上がる。不気味な雷鳴が大地を揺らした。

 このペースなら、まだ間に合う。安全に行こう。

 峠に着いた。

 ハネッコたちは大丈夫だろうか。あの子たちが、この嵐で吹き飛ばされていないだろうか。

 数秒だけ。確認するだけだ。

 鳥居の奥が見えた。祠の下で、ワタッコが小さな子たちを必死に押さえつけている。良かった。

 踵を返そうとした、その時。地響きがした。祠からじゃない。

 後ろの山からだ。

 地滑りの前兆。

 

「逃げて!」

 

 私は叫んだ。

 いや、待て。この子たちはちゃんと飛べないから、ここにいるのでは? この嵐で飛ばされたら、ワタッコはともかく、まだ親離れできていないチビたちは……。

 抱えて逃げる? 無理だ。ポケモンレンジャーを呼ぶ? 間に合うわけがない。

 ムウマージのサイコキネシスで凌ぐ? ダメだ。私の試験が、間に合わない。

 そもそも、私がこの子たちを助ける義理があるのだろうか。

 必死に寄り添うハネッコと、それを押さえるワタッコ。

 こんな、今にも崩れそうな山の社に住んでいた、この子たちが悪いのでは――。

 

「私は、なんてことを考えてるんだ!」

 

 そんなはずはない。私はポケットの御守を握り締めた。

 どうか、神様、この子たちに救いを。

 地響きは、容赦なく続く。

 神様。キュウコン様。いないのですか。

 誰もいない。助けを求める者たち以外は。

 

 ――私が、いた。

 

「神様! 出過ぎた真似をお許しください! 私はこれから、あなたの代わりをします!」

 

 地響きに負けないよう、私は叫んだ。

 

「ボスゴドラァァァ!」

 

 リーグ戦以来だ。こんなふうに、心の底から叫べたのは。

 投げたボールが手から離れるより早く、銀色の巨体が現れ、私の視界を塗りつぶす。

 

「あいにく、力があるんです。私には……ううん、私達には!」

 

 鋼の巨体を持つポケモン。その鉄鎧の体は、私だけの大切な騎士。

 

「この手が届く範囲は私達の縄張りだ! 汚させはしない!」

 

 彼女は頷き、祠の向こうの山肌へと猛然と突撃した。

 直後、社が大きく揺れる。

 

「大丈夫だからね! 私のボスゴドラが今、大地を固め直しているから!」

 

 高レベルのボスゴドラなら造作もない。

 私はハネッコたちとワタッコに呼びかけた。

 やがて、地響きが止んだ。

 

「ありがとう。じゃっ!」

 

 ボスゴドラをボールに戻し、ハネッコたちに会釈して、私は道に戻る。

 遅刻?

 いいや、私は我儘なんだ。

 増水した道はもはや川のようだ。危険極まりない。

 

「久しぶりだね、オーダイル」

 

 私は、最強の相棒を呼び出した。

 

「たきのぼりでの滝下りなんて、ね?」

 

 鋭い牙を剥き出しにした青い巨体は、ゆったりと振り向き、ニヤリと口角を上げた。

 私は彼の背に飛び乗る。

 

「行くよ!」

 

 オーダイルは容赦なく激流を滑り降りていく。

 サーフィンのように両足で踏ん張りながら、私は叫んだ。

 

「イヤッッッホォォォウ!」

 

 濡れた服は後で、ムウマージの「マジカルフレイム」で乾かそう。

 

 

 

 点数は、言うまでもない結果だった。当たり前だ。模擬試験の評価項目に「会場入りのドラマチックさ」なんてものはないのだから。

 

 私は御守を握り締めた。

 私は世界を、ほんの少しだけ良くしたと思う。

 じゃあ、私自身は私を、良くすることができるのかな。


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