木々が揺らめく音が聞こえる。
背後の風が、針葉樹の間をすり抜け、冷たく湿った香りを運んできた。
小石を弾いては揺れる荷台の上で、僕はこの旅を楽しんでいた。
「旦那、そろそろ着きまっせ。」
壮年の御者の声に耳を傾ける。
「まだ旦那ってほどの
「あぁっ、これはいけねぇ…すいやせんね、癖でして…」
「謝らなくていいよ、むしろ商人さんには感謝してるんだから」
まだ森に入る前、一人で草原の街道を歩いていたところをこの壮年の御者に拾われたのだ。
僕のことを盗賊だとは考えずに声を掛けたのだろう。逆に不審がっていくら質問しても、悪意のようなものは感じ取れなかった。
森を揺らす風は次第に強くなり、木々の葉がざわめく音はまるで遠くの波のようだった。そろそろ森を抜ける頃だろう。
ふと思い立ち、幌付きの荷台の後ろから身を乗り出し、空を見上げる。
霧がけぶっているが、快晴だ。素晴らしいほどの快晴である。
このまま見続けたら目が焼け焦げそうなほどの日差しに耐えかね、再び幌の下へと収まる。
荷台の上で腕を組み、少し唸る。
やはり、おかしいな?
快晴だというのに、昼間だというのに、霧が出ている。
見間違いかと思い、再び荷台の後ろを見てみると、やはり霧が出ていた。しかも先程より確実に濃くなっている。
その答え合わせをするかのように、馬が大声を上げてその場に止まった。
「な、なんだ…!?」
御者が驚き、周囲を見渡す。霧が更に濃くなっていく。
異変に気付いたのだろう、身体が震えている。
親切心はあっても鈍感なのは如何なものか、と思いつつ、先程まで呑気に『おかしいなぁ』と考えてた僕はこれ以上何も言えない。
「だ、旦那ぁ!
「珍しいね、こんなとこに出るなんて。」
ゆっくりと立ち上がり、天井の幌の縁を両手で掴む。そのまま自分の体を引き寄せながら片足ずつ振り上げ、幌の上へと登る。
「何してるんでさぁ!?」
御者の声を無視して、周囲を見渡す。
「あー、あー、もしもーし!こちらに敵意はないでーす!」
「旦那ぁ!?」
声を張り上げ、霧の主との対話を試みる。だが、御者以外からの反応は無く、依然霧も濃いままだ。
「……そりゃ話は通じないし、通じたとしても答えないよね…」
当たり前のことに落胆しつつ、なかなか姿を現さない霧の主相手にどうしようかと悩む。臆病な奴か、慎重な奴か、特殊な奴か。
「あぁクソッ!動け!動いてくれっ!」
幌の上から覗いてみると、気が動転している御者が馬の
……いや、あれは御者台の上から馬を押そうとしているだけか?
馬はそんな主人を気にも止めず、その場で足踏みを繰り返している。
その時、視界の端で何かが蠢いた。
「やっと出てきたか。」
再び周囲に目を向ける。霧の中に影が現れたと思ったら、消えてまた別のところへと現れる。
追え、追い続けろ。見失うな、考えろ、動き方の癖を掴め。
…右、左、右、右、左、右、左、右、右、右、左、右、右、左、右、左右、右、……
右。
「追い詰められたお前はどうする?」
『グルルゥゥ……』
霧の奥から、喉を引き裂くような低い唸りが漏れた。
アイツらに"逃亡"という概念はない。どうしてかは知らないが、どんな状況であっても狙った獲物を狙い続ける。その単純さは時には最も扱いやすく、時には最も恐ろしいものとなる。
今回は前者だ。
霧の中の影が空気を震わせるかのような咆哮とともに飛び出してきた。
『ガァアアッ!!」
二足歩行の、人間より頭一つ分ほどの大きい狼だった。
「ひぃっ!?」
狙いは御者が縋りついている馬のようで、そこへ一直線に走っている。
「…"鋼は境界を示す。"」
屋根の端につま先で乗り、身を屈ませる。
「"刃は理を語る。"」
「だっ、誰かっ、助けてっ!」
足で身体を押し出し、その勢いのまま空中へと跳ぶ。
「"在ると在らぬは分かたれる。"」
空中で足を折り畳み、身体に密着させ、両掌を下へ向ける。
すると、両手の内側に、霧が集まる。それは二本の鋼の棒へと変化した。次に、手と手の間に霧が集まった。それは刃となり、二本の棒を繋ぐ。
二本の棒と薄い刃のみの簡素な作りだったそれは、周囲の霧を吸い込み、次第により重く、より厚く、より人の扱う物ではなくなった。
その時にはもう
作り上げられた特大の両手鉈に、両つま先を乗せる。
全体重を乗せ、
「"
思っていたよりもすんなりと刃は通った。ほぼ四足歩行のような、前のめりで走っていた
霧は晴れ、
少し不安で緊張していたが、上手くいって良かった。そう思ったのも束の間、馬が前足を振り上げながら大声を出し、急発進し始めた。
「旦那ァ!!」
御者の声とともに、襟を掴まれ、馬の走る勢いのまま引っ張られた。
「首っ!首締まる!!」
「はやくっ!はやく上がってきてくだせぇ!」
意識が遠退く前に、急いで御者台の手摺に捕まる。そして幌の上に乗ったときと同様にして、御者台に飛び乗る。
「はぁ…はぁ…死ぬかと…
首元を触りながら息を落ち着かせる。
「す、すいやせん…コイツがいきなり走り出しちゃったもんで…」
「お、落ち着かせてからこっち戻ってくるとかさ…」
「…頭が回りやせんでした……」
御者が馬を落ち着かせながら、申し訳なさそうな顔をしてこちらを見てくる。
「あ、それと助かりやした!旦那って狩人だったんですね?」
狩人。さっきのような
「まぁ、狩人…だね。」
「…?」
「あぁいや!すごい遠くから来たもんでさ!故郷じゃ狩人って言われてなかったんだ!」
「あぁ、そうだったんですね。そりゃ随分遠いとこで育ったんですねぇ。」
焦って嘘を並べてるように見えるが、僕の言葉に嘘偽りはない。狩人っていう存在を知ったのは旅を始めてからだ。生まれ育った故郷も、随分と遠くにある。
「そういや旦那、名前はなんて言うんでさぁ?」
「僕?…ヴィールだよ。ただのヴィール。」
「ヴィールの旦那…名前的に北の方の生まれですかい?俺もねぇ、実は故郷があっちの方でして…」
その後も、御者との他愛のない話をしながら、この旅を楽しんだ。
そういえば、
✼ ✼ ✼ ✼ ✼
フードを深く被った人影が、森の中を一人で歩いていた。
日陰を歩いていると、足先に何かが当たる感触とともにコツン、と音がした。
小石か何かだろう、と蹴った物の軌跡を目で追う。
それが陽の元に出たとき、綺麗な蒼色に光った。
「なっ!?」
急いでその物体のもとに駆け寄る。顔が地面につくほどに這いつくばり、蒼く輝いた物を見る。
「こ、これは…!?」
恐る恐る、それを手に取り、目に近付ける。
「間違いない…小さめの
立ち上がり、太陽に被さるように手の中のお宝を掲げる。
「一体誰がこんな芸当を…気になる…是非会いたい!会って経緯を聞きたい!この道に落ちてるってことは、このまま進めば会えるはず…!」
ゴクリ、と唾を飲み、果てぬ道の先を見る。
「待ってなさい…!必ず追いついて、聞き出してみせるわ…!!」