窓の外は満天の星空。雲ひとつ無く月光が差し込む部屋の中、木製のベッドの上でタオルケットを身体に巻き付けたまま、身をよじる影が一つ。
頭頂から生えたウマ耳は同室の同級生の規則正しい寝息を捉え、カチコチと時計の音と入り混じる。合宿も折り返しを過ぎて、最初は疲労から夕食後の記憶も曖昧で泥の様に眠っていたのが、慣れたのか深夜にも関わらず眠気が遠い。
『三回、出来れば二回で結果を出して欲しい』
トレーナーさんからの言葉を脳内で反芻する。硝子の脚、と彼が形容した自分の時限爆弾の許容できる限界として提示された条件。
年明けのレースに出るために入着以上の結果が欲しいと、もちろん走る以上は目指すのは1着ではあるが、明言された。復帰戦はオープンクラス、その後は即重賞レース。
そして年明けの京都、最短で走り抜けなければ辿り着けない。無理を通してる自覚はあるが、通さなければ道理が引っ込まない。
日常生活に支障をきたさない為に競走禁止という道理を。そしてこの無理を告げた時に苦い顔をしながら無言の後、分かった、とだけ答えてくれたトレーナーさん。
寝床から出来るだけ音を立てずに起き上がり、木の扉をくぐって廊下に足を向ける。真夜中にほど近い時間、何気なく奥へと視線を向けると扉が締まり切っていないのか明かりが漏れている。
「トレーナーさん…?」
引き寄せられる夜蝶の様に扉の前まで足を進めると2度、軽くノックをして扉を開く。果たしてそこには仮設で置かれたであろう事務机でノートパソコンに向かっているトレーナーの姿があった。おそらく寝間着代わりなのだろう普段よりも更にラフなくたびれたジャージ姿、仮置きの机の上にはプリンターが吐き出した紙が山積みになっている。
「どうした、眠れないか?」
「え、あ、はい…」
キーボードを叩く音が繰り返され、一つ僅かに大きな音で終わると音がして開いた扉へと視線が向く。濃い紺色の生地に無数の人参が散りばめられた、年齢からするとやや幼い印象を受ける寝間着、普段は下ろしている髪を上げた眼鏡の青鹿毛のウマ娘がそこには立っていた。
「そうだな、茶でも飲むか」
立ち上がると連れだって貸しコテージのリビングへと向かう。背中を追い耳をピクピクと動かし足音に気をつけながら寝静まってる各部屋の前を通り過ぎ、階段を降りていく。
トレーナーの部屋はウマ娘禁止。チーム内の不文律は合宿でも有効だった。なにせあの栗毛の卒業生ですら踏み込まない以上、現役が乗り越えるのは困難だった。誰の目もない深夜なら、とほんのり期待しないでも無かったが、逆に時間も時間で問題でしか無いこともまた当然だった。
「紅茶にするか…構わないな?」
手際よくケトルに浄水を注ぐと、引き出しからティーバッグを取り出しカップにセットするトレーナー。ソファーに座りぼんやりと様子を見ているうちに湯気たつ器が目の前に用意される。
「慣れて、ますね?」
「そりゃ、お前たちより人生長いからな」
何気ない言葉とその返事にクスリと笑う。カモミールだろうか、カップに口を付ける前、匂いを嗅いで思う。こういう所が慣れてる、というのだけれど、と。
「それで…脚の具合はどうだ?報告は毎日聞いてるが」
「はい、関節は少し熱を持つことはありますけど…走る回数は加減してもらってますし、直ぐに先輩が整えてくれるので…話している、訳ではないんですよね?」
2人だけの秘密、のはずだと、やや疑いの目でトレーナーを見る眼鏡のウマ娘。併走や各種トレーニングでも脚を使うと気がつけば触診されて二、三のお小言を貰うとなれば、何か言い含められてるのかと思うのも無理はない。
「いや、単に病み上がりだから気にしてやってくれ、としか伝えて無いが…ま、医者の卵だ、それに自分の事もあるだろうから、な」
気づかれてる可能性は脇に置けないと言いながらトレーナーは自らが淹れた紅茶に口を付ける。勘の良さならもう1人の方だがな、と笑いながら。
「そう、ですか…あの、栗毛の先輩は、いつ、から」
走れなく、なったのですか、と最後の言葉までは言えずに尋ねる。自分たちがチームに加わった時には既に松葉杖を支えにしていた。本人に聞くのもはばかられるし、その後も何となくタブー的な感じで避けていた話題。
「12月の頭、お前たちが入ってくる前の年の、レースでな」
レースで、僅かに聞いていた事と一致する。最終コーナーを抜けて一気に加速が入る所、そこでターフの窪みに脚をかけた。スピードが乗り始めたところ、遠心力で傾く身体、悪い要素が詰まったその瞬間に事故は起きた、と。
「あの時、俺たちは、いや俺は浮かれていたんだ。…だから見るべきを見れず、聞くことを聞けず、送り出してしまったんだ」
冷めた声、紅茶を間に挟みながら独白の様にトレーナーさんは言葉を続ける。
件のレースの前々週、当時の3年がようやく、初めて、そして最後のオープン戦を征した。そして2年2人が揃って同一重賞出バ。
当時のトレーナーの読みではどちらが勝ってもおかしくないと胸を張れるほど、2人の出来具合、事前に集めたデータ資料に裏付いた自信を持っていた。
事実、レースの展開は予想以上に追い風が吹いていた。
序盤、中盤と好位置に付けた2人はそのまま逃げのウマ娘を捕まえ、差しや追い込みの進路を巧みに潰しながら最加速の直線に向かう、その瞬間の出来事だった。
「咄嗟の判断、だったんだろうが、体勢を立て直すよりも走路を空ける事を選んで、な」
先行する中で急に減速すれば後続バが回避出来る余裕など無く、接触事故へと繋がるのは当然。瞬間にバランスを立て直さずにそのまま走者の居なかった外へと跳ねる様に飛び出したのは、レースそのものを無事に終わらせるという意味では正解だった、彼女の脚以外には。
結果、跳ねて転がり何度も地面と激突した膝は正常な屈曲を失ってしまったのだから。
「脚が、少し重たいと言っていたんだ、思い返せば」
遠い目をしてトレーナーが述懐する。ただの結果論であったかもしれないが、彼が自分を責めるには十分過ぎる理由だった。
「あの時の、アイツの暴れっぷりはお前の比じゃなかったな」
ひとしきりの話が終わると、最後に揶揄う様にそう言ってトレーナーは笑う。反して青鹿毛の眼鏡ウマ娘は気恥しげに顔を赤くに染める。
「や、言わないで、下さい…反省、してます」
走ることとウマ娘は等号で結ばれている、もう以前のようには走れないと知った時の取り乱しはそんな笑い話で済むことではなかった。
見舞いに来た両親、同級生の前では大人しくしていた。だが、トレーナーにだけは好き放題に荒れ狂った。手当たり次第に物を投げ、些細な事からあげつらい責め立て、別の日にはただただ号泣して過ごす。
精神のバランスを失した暴君と化して八つ当たりを繰り返す日々。それをトレーナーは何も言い返すことも無く、『気づいてやれず済まなかった』とその言葉だけを繰り返して寄り添い、受け入れられるまで、時間が過ぎ落ち着くのを待つだけだった。
その結果、目の前の青鹿毛が導き出したのは無理難題にも程があったが。
「わたしは、まだ、走れます…」
暫しの沈黙の後、目を閉じ、息を吸い、そして吐き出して、真っ直ぐに視線をトレーナーへと向けると口を開く。
「トレーナーさんが、走らせて、くれる、から…」
「だから、あと2回は…」
「トレーナーさん、貴方の為に走りたい」
言ってしまった。言うつもりは無かったのに。真夜中の悪戯だろうか、顔に熱が、さっきとは全く違う熱が上がる。見つめていた視線は逸らし、湯気の立たないカップへと向ける。
「そうか…それは責任重大だな」
重々しく口を開きゆっくりと立ち上がるトレーナー。数歩、座ったままの青鹿毛、眼鏡のウマ娘へと寄るとポンと耳の真ん中、頭に手を載せる。
「なら、今日はお開きだ。よく休め、明日から少し強度を上げるぞ?」
二度三度と撫でた後で深夜の茶会の終わりを告げる。心地良さげに閉じていた目が、もの寂しげに離れていく手のひらを追う。
「はい、おやすみ…なさい、トレーナーさん」
一礼の後、名残惜しげに席を辞すると、ゆっくりとあてがわれた自室へと戻っていく。その背中を無言で見送るトレーナー。小さな足音、そして扉が開き閉まる音が少し遠くで聞こえる。
虫の声だけが聞こえる夜の静寂に天井を見あげ目を閉じる男。
『…最低よ、貴方は』
震えた声が薄らと耳に木霊する。
そして唐突に力一杯に抱きしめてきた痛みを思い出す。
脳裏に浮かんだのは唐突に彼の前から姿を消した尾花栗毛のウマ娘。
泣き出しそうな笑顔でそれと悟らせずに別れを告げてきた、黄金色の残響だった。