「もういっぽーん、いくよー」
グラウンドに声が響く。ジャージ姿の小柄な芦毛のショートカットが腕を突き上げて周りを鼓舞する。それに応えて『はいっ』と威勢よく返すわたし達。
先週の先輩のレースは関西方面への遠征ということもあり、部室の大型テレビでの観戦だった。得意、というか唯一の作戦である逃げで加速していく姿。途中、2年のメガネ先輩が何度も手元のストップウオッチとメモ紙を見返すくらいに、中間のタイムは速かった。それでも、終盤の坂で減速したところを捕まえられ、まるで首根っこ掴まれたみたいに置き去りにされた。
でも、そこからが凄かった。坂を終えればほんの僅かでゴールに辿り着く、そのほんの僅かを。何歩で走ったのだろうかというか位に飛ぶように、本当に飛ぶように駆けたのだろう。
画面に映る先頭争いに、飛びこむように映り込んでゴール地点を越える。その後、明らかに制動を失って転がりながら消えたのは見ていた全員が焦った。
やがてカメラが引いてやや全体が映し出され、傷だらけの両手で体を抱えるようにして呆然と掲示板を振り返っている姿が捉えられた。
かつて同じように体ごとゴールに飛び込み、転がりターフに倒れたまま動けなくなった姿を生で見ていたわたし達は大きく息を吐いて浮かせていた腰をソファーに戻した。
特にサイドテールの先輩は涙目で何度もよかった、と繰り返していた。普段はトレーナーさんを巡って口喧嘩ばかりしてるけど、本音じゃ相当慕っているっぽい、絶対本人は認めないだろうけど。
レースの結果は最後に一つだけ順位を上げて4着。GⅡレースで掲示板入り、それだけを考えれば悪い結果ではなかった。ただ、先輩は3年、卒業までの時間はそう多く残されていない。オープンで入着常連、重賞レース出走経験有りとなれば、全体の上澄みの方である事は間違いない。
けれど、わたし達は程々を目指して走ってる訳じゃない。1つでも多くの勝ちを目指してこうやってトレーニングに励んでいるのだ。たとえ設備が多少古い第3グラウンドの、更にその端っこの直線コースしか使えなくても。
「プレオープンの先陣は、構わないな?」
何度目かのスタートとその直後の位置取りのシミュレーションの後、不意にトレーナーさんが声をかけてくる。
「はい。まずはレースに慣れること、です?」
ドリンクで喉を潤わせながら、問い返す。三度目の正直で未勝利戦を抜けたわたしだが、現状練習は大半が基礎体力固め、最近になってやっと併走が増えてきた印象だ。
それでも毎日体はバキバキで寮のお風呂で体を伸ばす瞬間が何より幸せな時間になってしまっていて、読みかけの小説が溜まってしまっている。
「そうだな…ただ経験については相手も同条件だからな。慣れながら勝ってもらうのが1番かな」
何気にハードルを上げてくるトレーナーさん。同級生の手前、先陣で惨敗なんて目も当てられない結果だけは免れたい。勝ち抜けて次の条件戦に上がれれば万歳三唱だ。
「気合い、です」
「そうだよ。『勝つ、勝つ』ってオマジナイみたいに言うといいよ。」
ふん、と力を入れ直したところでセミロングの青鹿毛の同級生が声を掛けてくれる。最後に未勝利戦をくぐり抜けた彼女だが、併走とかチームの練習じゃわたし達の中で1番なんだよね。
オマジナイは丁重にお断りしつつも、最低限その背中を追い越せる位には気合いを入れないといけない。
「と、言うわけで1600で走ってもらうぞ」
大声でトレーナーさんがチーム全員に呼びかける。途中から地面に大の字だったゆるふわおさげの同級生もようやく立ち上がって屈伸を始め駆ける事に備える。
練習を終えたらしい他チームのウマ娘達が塊になって移動した後で、ようやくグラウンド全面が使える様になり、本格的な併走が始まる。今日は故障明けらしい眼鏡の2年生も交えるらしく、スタート役は3年の小柄芦毛の先輩、ゴールはトレーナーさんの組み合わせだ。
「はーい、それじゃ張り切ってー、スタート」
割と雑な掛け声に一斉に走り始めるわたし達。初のGⅠ挑戦になる2年のサイドテールの先輩はいつも通りのマイペースから徐々に加速をしていく。
併走と言うより1人模擬レース的な目線で調整をしてるようで、その前方を駆けていくわたし達の相手は眼鏡の先輩の方だ。
脚部不安がある筈だけれど、当然のようにわたし達のペースを引き上げてくる。暫し4人並ぶように駆けて、コースの約半分を過ぎた辺りでサイドテールの先輩が追いつき、そして追い越していく。それに合わせて眼鏡先輩はわたし達を切り離し、同級生の背中を追いかけ並びかける。
ペースが上がり続けても変わらず競り合い、やがてトレーナーさんの前を駆け抜ける。それから遅れる事10バ身はあっただろうか、わたし達1年が纏まってゴールにたどり着く。
「はいはい、おつかれ、おつかれー」
小柄芦毛の先輩が走り終えた私たちにタオルとドリンクを配ってくる。レースを終えて1週間と少し経ってもまるでサポート役の振る舞いに違和感しか感じない。
両手はまだ包帯巻きだけれど、検査結果も異常なしで走る分には問題ない筈だ。だけれどもそんな素振りも見せないのは、ひょっとして引退してしまうのだろうか、3年の秋だから有り得なくはないけれど、何も言われてないのはなんだか寂しい。とは言え直接聞くのも憚られるまま何日か経っていた。経っていたのだが。
「あっ、と、先輩は、走らない、のですか?」
ゴールに辿り着いたと同時に芝へとダイブして、仰向けに転がった黒髪ゆるふわおさげの同級生が聞き難い事をナチュラルに訊いた。そして周りのわたし達1年だけでなく、少し離れて話し込んでいた2年生のウマ耳もピクっとこちらを向いて聞き耳を立てている。
「わたし?んー、そーねー、走って欲しい?」
一瞬の沈黙の後、ニコニコと笑いながら小柄芦毛の先輩は、ゆるふわの頭を撫でている。レース直前の張り詰めた感じは全く無くなって、今まで通りかそれ以上に緩い感じで質問に質問を投げ返す。
関西遠征の際に何があったのか、戻ってきた時は上機嫌で見慣れない服を着てトレーナーさんの周りをくるくる回っていたそうだけれど。
「え、勿論、走って欲しいですっ」
「そっかー。ありがと。考えとく」
地面に大の字のままで答える同級生に対して、先輩は笑顔のままで保留の答えを告げる。その言葉に聞き耳を立てていたサイドテールの先輩は明らかにしょんぼりした様にウマ耳が垂れる。
ホント好きよねぇ、例えば主人公がピンチになると絶対助けにくるけど普段はツンツンしているライバル的な?数日来読めていない小説に準えて、2人の様子を眺める。トレーナーさんが絡まなければ世界平和が保たれるのに。
「最後は2000、2年2人は本気な。それと…」
トレーナーさんが、いまだ地面にひっくり返ってる黒髪おさげの1年生に手を貸して引き起こすと、ゴール係に任命し、スタートの位置に向かい歩いていく。
途中、小柄芦毛の先輩とすれ違う時になにか一言二言言葉を交わしている。『そろそろ走れ』、『18人』、『恐らく辞退』、遠くトレーナーさんの声だけが僅かに聞こえ、先輩は頷きながら、ゆらゆら尻尾を揺らしている。
初めの言葉以外はいまいちなんの事か判然としない。そんな言葉を受け取った先輩は不意にコースに入ると、その道中でトントンと軽く跳んで中途からのスタートを切るらしく構えている。
「それじゃ、位置に着いてもらうかな」
トレーナーさんは多くを言わないが、先輩の走るであろう仕草に、2年生のお二人の目付きが変わる。なんだかんだ言っても3年の先輩の走りは、わたし達を魅了しているのだ。
最後の競り合いの時の星降るような煌めきの走り。
それを目指して一斉にスタートを切る。およそ800メートル先に待ち受ける先輩の背中を目指して。