冷たい風が体を打つ。レース直前、否応なく高鳴る鼓動と溢れそうになる闘志を冷ます様に。
冷静に、そう冷静に。自分に何度も言い聞かせる。競りかけられると周りが見えなくなるわたしの悪癖。矯正不可能な性分、気質だとトレーナーさんには早々に手を尽くすことを諦められた。
そして代わりに周りからウマ娘が居なくなる術を叩き込まれることになった。視線や脚の送り、体の捌きで相手の進路を限定し、管制下に置く。そのためには自らの技量もあるが、相手のことを熟知していなければならない。
かつては相手などお構いなく威圧し、強制的にコントロールを奪い取り自分中心の盤面を構築出来るターフの暴君なども居たらしいが、それに比べればせいぜいわたしは村長か町長と言ったレベルだろう。
「さて、と…」
ゲートに入る様に促され足を進めながら、今一度今日の走者の特徴を順に諳んじ今日の方針を確認していく。
逃げ2人、先行8人、差し5人、追い込み不在。仮想同級生として1人は追い込み脚質の娘が居て欲しかったが、そこは差しの娘たちに代替して貰おうかな。
自分は先行集団の真後ろに付く形で機を伺う形をとる予定だ。どちらかといえばスローペースの展開だろうから、スパートは早めにかけて勢いで急坂に備えた方がいいかもしれない。
前走、オープン戦1着で復帰を果たしたわたし。その時に持久力が故障前よりも数段上がっていることに気がついた。距離を詰めた上に、脚に負担をかけないようにとプールでの練習が増えていたせいなのだろうか、心肺能力が著しく向上していてレース後も息の乱れが目立って減っていた。一方で脚はやはり関節が熱を持ち、筋肉も丸1週間は鈍痛が引かなかった。
「もう1回、それが本番、なんだから」
ゲートに入り身を屈めて意識を研ぎ澄ます。レース場内のざわめきが収斂し静寂が生み出された刹那、鈍い金属音が響き視界が開ける。
一斉に緩い上り坂の直線を駆けていく。互いに好位置を緩く奪い合うこと暫し、最初のカーブに差し掛かるころには縦長の隊列になっていく。
まだもうちょっと、乱れてくれないかな?曲線に流れながら、前を走る娘の後ろに付けて足音を立てて煽る。と同時にペースをほんの少しだけ上げて被さる様に追い上げる。
背後を嫌ったその娘はこちら以上に脚を早め一つ前の先行バ3人をつつく形になる。連鎖する様に前が少しづつ詰まる様に逃げ2人へと寄っていく。寄られれば逃げも加速を選ぶ。ほんの僅かの差異だがここは上り坂、ボディーブローの様にスタミナに響くはずだ。
一方で背後の差し娘たちにも並ばれないようにフェイントを挟みながらコース内側を駆けていく。内柵から半歩分だけ隙間を空けて時折もう少しだけ外に寄る様な動きを見せる。
背後の足音が変わる度に機先を制する様に相手の進路上に引っ掛かるような位置に付く。更に強引に外から狙えなくはない。ただ、距離のロスと横並びに近い他の娘の進路妨害を気にしなければ、だ。そして並ばれた方も隣で仕掛ける素振りを感じる度に進路とわたしの背中を確認して結局自分から動き出すタイミングを見失う。
前をかからせ、後ろを停滞させて空白地帯の中で駆けていく。これがトレーナーさんと完成させたわたしの戦い方。
自分の走り方、を封殺されたウマ娘は脆い。
もちろんそれを超える者も多々居るのだけれど。GI常連の綺羅星一等星たちは言うまでもないが、とんでも走りしかしない出来ない我らが小柄葦毛の先輩なんかもその部類だ。
幸いどちらの系統も今回の走者には居ない。皆素直で優秀な、だけど重賞戦線で食い止まるような駿メたちだ。
折り返しを過ぎて残り半分、向正面から下り坂に入りレースは加速していく。緩やかなカーブに身を任せながら脚の回転を上げていく。
そして、耳を澄ます。徐々に聴こえてくる幻聴。どんな対策を打とうとわたしが必ずかかってしまう足音。
十分な速度に達した同級生が更に駆け始めた響き。決して聴こえないはずのそれを耳にしたまま、追い抜かんと機を伺い続けていた差しの娘たちの真ん中に一度沈む。
それを好機と見たか、左右の差しウマ娘が先行組に向かい一気に速度を上げる。それは彼女たちが本来のスパートをかける位置より少しだけ手前。まるで巡航弾のように放たれた2人に突かれ乱れて前方の綻びが大きくなる。
「それじゃ、いこっか」
並びかけてくる幻覚の足音に声をかける。見えもしないそれに対して自分のスイッチが入る。踏みしめる脚に力が入る。骨が関節が軋み筋肉が引き縛られては放たれるのを繰り返す。
第4コーナーを抜け直線に入れば下りは終わり急坂が待ち受ける。一気に前方との距離が詰まる。ここが勝負所だ。
蓄えた末脚を放ちほぼ減速無しで駆け上がる。脳内にだけ響く足音も同じく、いやむしろ加速しながら抜き去ろうとしてくる。
全く厄介な脚、好きにさせたら手がつけられない。だったら叩き伏せるしかない。
「いつもの、あの情けない顔におなりなさいな」
最近は見なくなった自信なさげに尻尾を垂らし耳をさげて俯いたサイドテールの同級生の顔を思い出し脳裏に浮かべる。隣で競る幻覚はひらひら揺れる勝負服に獰猛な顔でチラリとこちらを一瞥すると更に加速していく。
惨敗したレースの最後の最後に見せた顔だ。そう、そんな顔も出来るようになったんだね。待ってた、そんな貴女を。
僅かばかりの片鱗を見せていた模擬レース。同じチームになってから併走する度にやりにくさを感じるその走り。トレーナーさんから特別目をかけられてたことにもまるで気が付かないヘタレっぷり。
これは指摘したら脳内ピンクのお花畑になりそうだから絶対に言ってやらないけど。
坂を越えれば残りは200メートル、半身前を行くわたしだけに見える姿はもう振り返ることも無く力を振り絞りゴール板まで駆け抜けようとしている。
体が前に傾いてターフを削る脚の間隔が広がる。一歩ごとに足首に膝に今まで以上の衝撃が加わる。推進力を増して加速していく体。
だけどそれ以上に隣の幻覚は前に前に抜けていく。それに負けじともう一段速度を上げる。
「まだ、足りない、のっ?」
徐々に離れていた背中が一定になる。離されはしていない、だけども詰めれてもいない。終盤に後方から飛んできてブチ抜く同級生の走り。オープン1着や重賞入賞は運や偶然の産物じゃない。この娘の力だ。だからこそ、負けられない、勝たなきゃいけない。
限界のその先に足を踏み入れながらジリジリと背中に迫る。捕まえられそうな、手の届きそうな距離になった時、ふわりと幻は霧散する。それがゴール板を駆け抜けた瞬間だった。
◇
割れんばかりの歓声がレース場を包む。電光掲示板のローマ数字の横に各自が纏っているゼッケンの番号が入っていく。
駆け終えたあとは膝に手を当て息を整える者、ターフに倒れ込むようにして大の字になる者とそれぞれだが、1着を獲ったウマ娘はただ茫洋と佇んでいた。それをスタンドから見ている一組の男女。
「これで年明けは決まりだな。どうだ、感想は」
「すごい、ね。これが本気、かぁ…」
男の言葉に制服姿のサイドテールのウマ娘が口に手をあてた格好で呟くように返す。
耳は少し後ろに引かれ尻尾の動きもピタリと止まっている。目の前で堂々とレースを制御し、最後に大きく抜け出していった姿はとてつもなく強大に見えた。
普段は厚めのレンズのメガネをかけて肌身離さずカメラとタブレットを持参しているデーター収集癖のある同級生。それがどうだ、周りを圧倒して駆け抜けた。それでも何かが足りないと言った表情で動きを止め、そしてようやく今、掲示板を見上げている。
「とんでもない、ね」
「ああ…」
すごい、とんでもない、とふわふわした感想を言ってる割に、全くそんな顔つきをしていない隣を見てトレーナーはなんと言ったものかと生返事を返す。
GⅠでの惨敗はこの娘の何かを変えたらしい。真っ直ぐに同級生を見据え、手を振り笑顔を向けているが、それはもう明確なライバルへの視線だ。どこか残っていた仲良しこよしの甘さは抜け始めている。
手を振っていた今日のレースの勝者がふわりと視線をスタンドに向ける。それは真っ直ぐに見遣る同級生を射抜く。
「「負けないよ」」
互いに唇だけを動かして告げる。それは初めて2人が駆けた入学直後の模擬レースと同じ言葉だった。