草木も眠る丑三つ時、眠らなければならないと思えば思う程に睡魔が遠のく。慣れない部屋の慣れないシングルベッド。騒動の責任を問われての、1週間に渡る謹慎。明日からはようやくいつもの日々が始まると思えば備えて睡眠は取るべきだというのに。
誰かが言っていた眠くなるまで数を数えるという小技。実践してみれば300を越えたあたりで意識が茫洋となり微睡が訪れる。
◇
「本人の希望と周りが期待している事の乖離…現状の力を考えれば答えは出ているはず、なんだが…な」
寝返りを打ちながら就寝直前まで見ていたデータの類を脳内で組み立てて、レースのシミュレーションを繰り返してみる。
が、ことごとくに後塵を拝する結果ばかりで寝覚めが悪くなりそうだ。
セミダブルのベッドの中、天井を見上げて独りごちる。本人から明確に言葉としては聞いていないが準担当として引き受けているウマ娘の志望は知っている。それはかつて姉と慕った者が走ることが叶わなかったレースに出場すること。
「勝てるレースを勝つ…か」
当たり前の事だ、レースなのだから。1人の勝者と残りの敗者。実力と運を手にした者だけが栄光に浴し、レース後のライブでも中央に陣取り賞賛を受ける。どこまでいっても敗者はその引き立て役だ。
「でも、輝いていないウマ娘なんて居ない…」
レースの時の彼女達を脳裏に浮かべる。勝負という世界で争い合う獰猛な笑みを、あるいは他に楽しい事など無いと言わんばかりの笑顔を、あるいは苦境に顔を歪め、涙を流しながら、走る。絶対の無いその瞬間にそれまでの血と汗と、想いの全てを叩きつけて栄光に挑む姿を。
◇
そんなウマ娘たちの姿に魅入られたのはいつの頃だっただろうか。幼少の頃、ほぼ毎週末テレビでウマ娘のレースを見ていた。
両親は共に人ではあるが、巨大娯楽産業と化したウマ娘レース業界のどこかに属しているらしく、我が家の大型テレビでは土日祝は必ずレースが流れていた。
初めは流れている映像を何となく見ていた。物心がつく頃になれば、それが競走だと気づいて事前の人気に基づいて1着になるだろうウマ娘を予想しながら応援していた。
家事や読書をしている両親に、誰それは速かった、誰それは惜しかった、そんなことを言いながら眩いウイニングライブを眺める。それが週末の日常だった。
それが変わったのはいつものように1着を予想しながら漫然と大画面を見ていた時だった。またこのウマ娘か…。最初はそんな感想だった。特定のウマ娘が出走するレースに必ずその名前を見ることに気がついた。半年ほど、出るレース出るレースで1着を掴み取って名前を覚えてしまった娘と共に、必ず居る、必ず2着のウマ娘。
『支えてくれているトレーナーやチームメイトの為にも、わたしの目標は打倒親友、です』
何かの時のインタビュー。シルバーコレクターと揶揄されはじめていた彼女の真っ直ぐにカメラを見つめる瞳はとても綺麗で、事前人気から1着を予想して、的中させて独り悦に浸る自分にどこか刺さった。
1着と2着のウマ娘が親友だったとか、そもそも初耳であったし、それ以上に名前以外に個体認識をまともにしていたのかも定かではなかった。大きなレースでは個性的で煌びやかな衣装を着るので記憶に残りやすいが、それ以外のレースではゼッケンに書かれた番号をただ応援して一喜一憂していただけ。
ウマ娘はウマ娘という個人であって、彼女たちはそれぞれの想いを込めてそれをターフで表現しようと走っている。
それを知りたいと思い立ってからは書籍とインターネットを利用して情報を漁りまくった。どうやら母親の仕事は出版関係らしく、有名どころのウマ娘のグラビア写真集は手元にあった。
目当ては見目麗しい図画の数々ではなく巻末に付されたおまけ扱いのインタビュー記事やプロフィール。
玉石混交のネット上での記事は過激な物も目を引いたが、それは世間一般のウマ娘に対する目線を知る助けとなった。
しかし今思えば小学生が齧り付くように写真集を見て、パソコンの検索履歴はウマ娘で塗りつぶされているなど、よくも両親が見逃したものだと思う。一歩間違えれば年上の美麗なウマ娘に懸想するマセガキだ。
中、高と年齢が上がれば仲間内でレースを見に行く事も増えた。初めは保護者同伴で、後には1人でさえ足を運んだ。
ちょうどこの頃から今にも残る傾向が出始めていた。事前の人気が低く、それでいてレースに懸ける想いの強いウマ娘を探す。そして勝手に応援し、勝手に喜び、落胆する。悪癖とでも言えそうなそれは人の少ない午前、幾度となく未勝利戦や一勝、二勝クラスのレースを見ているうちに身についたものだった。
やがて高校を卒業し、専門学校を経て挑んだ試験。学科ではギリギリの自覚はあったが、なんとか面接で好感触を経て、トレセン学園の片隅に身分を得る事となった。
それにしても10年も前の宝塚記念の2着バの話で盛り上がったのが功を奏したのか、面接官だった壮年の男性から直々にサブトレーナーに勧誘されるとは思わなかった。
聞けば面接官改めトレーナーの教え子の中でも格段思い入れのあるウマ娘だったらしい。こちらとしては『打倒親友』の言葉で蒙を啓くきっかけとなった娘だっただけに前後のレースを含めひたすら喋り続けただけなのだが。
◇
いい加減、眠らないといけない。振り返ったところで想いを乗せたウマ娘の走りは何物にも代え難い、それをただ思い知らされただけだ。姿勢を変え、瞼を閉じ直す。僅かの意識の揺らぎの後、朝のルーチンが脳内を過ぎる。
身支度を整えトレーナー寮から学園の正門に向かう。冬のこの時期、まだ日も昇らないというのにポツポツと人影が見える。
自分と同じ様な姿が半分、もう半分は頭頂部から2本の耳を生やしたウマ娘たち。学園指定の燕脂色のジャージ姿の彼女たちは各々のトレーナーと合流した後に、ある者は1人でまたある者はチームメイトと集団で、学園の外周へと駆け出していく。トレセン学園朝の風物詩である競争ウマ娘たちの朝練だ。
駆ける娘たちが多くを占めるが、一方で学内の広場などで念入りにストレッチやトレーナーの指導による体操、おそらく太極拳だろうか、に励む者もいる。
それ以外にも一部の学内施設を利用するために移動する小集団もいたりする。校舎内に居城を構える一等星の名を冠したチーム以外の、いわゆるプレハブ組、あるいは二等星や星屑と自虐を込めて自称しているチームたちは、この時間だけは優先的にトレーニング設備を利用出来るのだ。
トレーナーに引率されゾロゾロと移動していくウマ娘たちの姿をぼんやりと眺めていると不意に呼びかけられ振り向く。
「サブトレ、さん。ちょっと遅刻ですよ?…んん、あまり眠れてませんか?」
ようやく差し始めた朝日で金色に輝く長い尾花栗毛の髪を軽くかきあげながら、形の良い唇を尖らせて、そしてこちらの寝不足を見抜いたかのように常はツリ目気味の琥珀の瞳が少し垂れる。
「あ?ああ、いや、それより早く位置につきなよ、オーロラ」
目の下に隈でも浮かんでいただろうか?シャワーの際に髭を剃った時には自覚出来なかったが。ともあれストップウォッチを懐から取り出すとそれを振りながら校門へと追い立てる。
「…っ、折角心配してあげたの、にっ。それにわたしはア・ウ・ロ・ラです」
垂れてた眼をキッと普段以上に吊り上げ、サブトレーナーの言葉に一音づつ途切れさせながら言葉を繋ぐ。いつものじゃれ合い、トントンとその場で爪先の具合を確かめて門扉を抜けていつも通りの朝練に向かう姿についつい言葉が漏れる。
「いつも通り流すんだぞ? 知り合いと出くわしても途中で勝手に競争しないように」
「…しませんよ、そんなの」
普段はお上品な口調と仕草を見せるくせに元来は血の気が多いのか、走るという行為が絡むと豹変する事に一応釘を刺しておく。
が、当然の様に反駁だけがその場に残り、あとは風に背中が消える。前科何犯だよ、そう見送りながら口の中だけで言う。どうせ戻ってくる時には適当に何人かブチ抜いて全力疾走のくせに。
初めは気質だと思っていたその疾走は、計画的なものであり、ストレスの捌け口でもあった。
才能溢れる眩い宝石のような彼女。それを曇らせてるのは自分たちだ。
意にそぐわないレース選び、勿論こちらにも言い分はある。得意距離、スタミナや速度といった現状の能力と想定される伸びしろの幅、そして今後の事。勝てるレースを勝つ、可能性が高いものに賭けるのは、短期的にはその場の栄光があるが、むしろ長期的な視点でこそ必要なものだ。
ウマ娘が年間に走るレースは2桁に届かない。ローテーションにもよるが月一ペースまで引き上げたとしても12に過ぎない。
およそ30ヶ月に及ぶ学園生活を通じて20レースを超えれば鉄ウマ娘として顕彰されるくらいだ。
勿論何事も例外はあり、優秀な成績を収めたウマ娘には4年目以降もレースに出走する。だがそれはほんのひと握り、そしてその中から更に極々僅かのスターウマ娘だけがドリームトロフィーリーグで覇を競う。
が、それにしたって5年、10年と走る訳ではない。つまり競走バ人生は短くて3年未満、どれだけ長くても10年を超える事は稀だ。
その年数に届くまでに怪我なり衰えなりで蹄鉄を置くことになるのだから。それからのバ生の方が長い。何倍にも。
つまり、レースを卒業した後のことまで考えてレースに挑まなければならない。それは学生たるウマ娘自身が負う事でなく、大人である指導者が担うべき内容だ。
それ故に、勝てるレースを勝つ、なのだ。もっとも勝負に絶対は無いため、勝ち負けできるレースを走らせる、が言葉としては正しいかもしれない。力量差がどうであれ、適性距離がどうであれレースとなればウマ娘たちは勝つために全力で駆ける。
だからこそ、その本能に根ざした走りを意味あるものとして後のバ生に残せる様に導くのも指導者たるトレーナーの役割だ。それが時に、ウマ娘の意思意向と一致を見なくとも。
「戻り、ましたっ、はぁ、っ」
頭の中で理屈を捏ねくり回している途中で呼ぶ声が聞こえる。荒く息を吐きながら、全身からは発汗発熱による湯気を立ち昇らせている姿は言葉では形容できない程の眩さだ。
「早すぎるな、駆けただろ」
目線を向け、一瞬だけ見蕩れた後で切って捨てる様に手の中のストップウォッチが刻んだ数字を確認する。明らかに軽く流す、では届かない周回のタイムに呆れ声を出す。
周囲の期待に、絶不調で抵抗をしているこのウマ娘。その原因はオーバーワーク。見張っていてこれだ。朝練を止めろと放置すれば勝手に走り、メニューの強度を調整すればきっちりと調整前プラスアルファでこなしてくる。何度か繰り返せば意図的に調子の枠を整えている事にさすがに気づかざるを得ない。ただし普通とは逆方向に。
「いい加減、諦めたらどうだ?……それともこちらが諦めた方がいいのか?」
「…なんの、ことですか?」
冷たく突き放す様に言いながらも、寝不足の脳が本音を溢してしまう。いつもと違う付け足しの言葉に、目の前の琥珀の瞳が僅かにだけ細められる。
この辺りが潮時なのかもしれないな、と心の中で呟き、表づらではやれやれとため息を吐く仕草を見せて、目の前の不服そうな尾花栗毛の頭にぱさり、とタオルをかけてやる。それは今日の練習は終わり、の合図。
「風邪引く前に一度寮に戻って朝飯食ってこい。午後は…ミーティングだな、次のレース、いい加減決めるぞ?」
「…ぇ。…はい」
頭からタオルを被せられ、早々に朝練の終わりを告げられると見てわかるほどに耳を垂れさせて俯き小さく返事を返す。
いつもなら諦めを促す言葉だけで終わるはずが、それとも、と今までになく続けられ、朝練も打ち切り。これまでされたことのない対応だった。
甘え過ぎた?直接言ったことは無いけれど、きっと理解されていると思っていた。私のしたいこと、走りたいレース。ぐるぐると彼女の中で纏まらない思いが巡る。
だから今日のこの瞬間までは、勝手我儘を通していても苦言は呈されても否定まではされない、馴れ合いの様な関係が続いていた。それが断ち切られるのを感じ、寒さとは違う震えが走り終えたばかりの身体を襲う。
「…ぅ…」
物言いたげな顔で上目遣い、タオルの隙間から一対の瞳が覗く。その縋るような視線を二度の手拍子だけで応えて、今朝は終わりだと改めて告げる。それだけで踵を返すとトレーナー寮へと向かう。置き去りにされた尾花栗毛からの視線がどこまでも背中に刺さるのを感じながら、この後の算段をつけるために。
◇
「走りたいレースを走る時、ウマ娘は最も輝く、か…」
鬱金香よりも弥生、あるいは牡丹一華よりも若葉。月が変われば始まるトライアル戦のスケジュールを脳内で組み立ていく。
後は師であり上役であるチームトレーナーの裁可を得ること。最大の難問であるが、最早強行突破しかないだろう。土下座でも五体投地でもなんでも、いや違うな、後ろ足で砂をかけるんだから拳の一発二発は止むを得ないか。
寝不足でハイになった脳はこれまで採らなかった選択肢こそが正解だと告げてくる。結果、何も残らない馬鹿げた事だと一蹴してきたその道。
だが、輝くウマ娘の姿は見られるかもしれない。想いの全てを乗せ、生命の、才能の一滴までも燃やし尽くす様な煌めきで、ターフを駆ける眩い星が。
数時間後、安穏とした畢生が約束されていたかもしれない白亜の一室から追い出された彼は、三女神の像の立つ広場に尾花栗毛のウマ娘を呼び出していた。
約束の時間直前に集合場所を変えられて不審と怯えの入った上目遣いで見てくる彼女。
部室に呼ばれなかったということは、とうとう呆れられ見捨てられるのだ、少なくともサブトレーナーとしての役は降りるつもりだろう、と今朝の一件以来の悲壮な想いを抱きながら。だがそれは予想外に裏切られる。
「次のレースを決める、そう言ったな…だが、その前に…」
手にしていた書類を差し出す。そこには男とその恩師の名前が直筆で記されていた。
移籍元、先、ウマ娘の3者合意の元で行われるチーム移籍。更に学園にも可否の権限が与えられられる『特別移籍』は通常の移籍と異なり、事後のレース出走にペナルティが無い。
「俺の…ウマ娘になれ、アウロラブリンガー」
唐突に、尾花栗毛へと向けられた言葉。それが全ての始まりだった。
お気に入り、評価いただきありがとうございます。
何卒最後までお付き合いください。