習慣とは恐ろしいものだ。殺風景なワンルームの部屋に押し込められて早1週間。それでも毎日決まった時間に目が覚める。
外はまだ暗く、乾いた風の音が聞こえて来る。寝る前に数えていた数を思い出す。300幾つだったか、それだけ寝つきが悪ければ寝過ごしそうなものなのにな。誰に向けるでも無い苦笑いを浮かべつつ、壁の時計を見上げる。学園の門まで向かえば朝練に向かうウマ娘たちと顔を合わせる時間帯だ。
起き上がらずにもう一度、と布団を被り直す。なにか大事な夢を見ていたような、だが何も思い出せそうに無い。脳裏にだけ残る黄金色の残像を消そうと目を閉じる。
今日の正午まではトレーナーの身分が停められている。あてがわれた部屋からの外出も禁止。レース後の騒動の結果、学園から通達された謹慎処分。
騒動と言ってもちょっとしたこと、言葉のボタンの掛け違えの様なものだと彼は思っていた。そもそも初の重賞勝利についてのインタビューと声をかけてきながらチームメイトとはいえ競争中止となった娘の事ばかり尋ねてくる方がどうかしている。それが彼の言い分だった。
『勝者は敗者について語る事は何も無い』
あまりのしつこさに、それまで躱していたのが、その一言を溢したことで大騒ぎとなった。
曰く『勝利至上主義』だの競争ウマ娘としての先が危ぶまれる故障とみられるのにひとつも言及しないのは『冷血』『鉄面皮』などなど、単なる悪口に近いものがあったにせよ、その場ではまだ主義主張のすれ違いと言えなくもなかった。
しかし明けた翌日、ウェブ媒体を中心としたメディアの一部が事を荒立てて報じた。そこでは同チームの3年生が常に怪我に見舞われていた事。あるいは2年前に同じような『事故』を起こしている事。
挙句はどこから嗅ぎつけたか師匠たるトレーナーのウマ娘を拐かし専属トレーナーに成り上がった事までが面白おかしく、そして大いに人格を否定して声高に主張されていた。
『我欲の為にウマ娘を使い潰す底辺トレーナー』だと。『識者は国民的エンターテイメントであるウマ娘レースにこのような指導者が居る事は憂慮に値する』と。
対する学園の措置は素早かった。怪我や故障は避けうるべき事ではあるが、競技によるものはやむを得ない事象であるという見解を表明した。
過去の移籍の件も学園了承済みの特別移籍である事を改めて述べ、過去も含めた故障の件と移籍に関して物申すことは、即ち学園の見解に異を唱える事だと示した。
一方でトレーナーへの譴責処分と一週間の資格停止、および謹慎。
理由は『不適当なメディア対応』とされた。勝利と同時にチームメイトの競争中止。そのような精神的動揺のある中での不適当な発言が見られた、トレーナーの稚拙な対応が咎められる事だとしたのだ。
この沙汰と前後して騒ぎは急速に鎮火した。そもそもニュースバリューのある有名チームでも有力ウマ娘でもなく、騒ぎ立てた者たちも普段から粗探しをしては有る事無い事を声高に喧伝する事で有名だったため、人々の耳目を捉え続けることはなかったのだ。
競争ウマ娘界における有象無象のトレーナーが生意気な台詞を吐いた事が悪意のある連中の癇に触った、というのが事の真相だろう。その割には大騒ぎをし過ぎだが。
◇
「やらかしたな、トレーナー」
4度寝の後で身支度を整えてスーツに身を包み部屋を出ると、短髪赤毛の大柄なウマ娘が腕組みをしながら廊下に佇んでいた。学園の制服とはまるで違うカットソーにパンツルック。肩に運送会社のロゴの入ったジャンパーを掛けている。
謹慎が解けるのを見計らって出待ちをしてくれていたらしい。
「俺は真っ当な事しか言ってないが」
「言い方だよ、い、い、か、た。ホントにトレーナーは変わらないよなぁ」
肝心なトコで言葉足らずでさぁ、と続く呆れ声に苦笑いを返しながら廊下を歩く。職員寮の最上階、他に住人はおらず、今回の謹慎処分には都合のいい環境だった。
それにしてもよくお前たちここに入れたな、とウマ娘禁足のはずの建物のエレベーターに乗りながら言葉を続ける。
「まぁ、卒業生だしな?掛け合うツテくらいはあるってもんよ」
「そのツテはわたしのなんだけど、ね」
エレベーターが着いて扉が開くとロビーで待っていたロングヘアの栗毛が言葉を引き継ぐ。片手をソファーの背に預け、体を支えるようしながら出迎える。こちらもロングスカートにブラウスの出立ちで学生でない事は一目瞭然だ。
「悪いが直ぐに向かうぞ?」
足を止める事なく声をかける。が、僅かにだけ速度を落とす。トレーナーの左側に栗毛のウマ娘が付いて、さらにその左に赤毛短髪が並ぶ。
「そのつもりで。…ん、なんだかちょっと懐かしい?」
「だな。アタシが真ん中じゃないのがやっぱり納得いかないけどな?」
ほんの一年と少し前は当たり前だった隊列に栗毛が笑う。歩幅を合わせながら赤毛が答える。少しだけゆっくりとした歩調で職員寮を抜け、舗装された幅広い通路を進んでいく。
「…わたしの事で、迷惑を」
「いや、あれは俺の不注意だ。それに今更書き立てられて嫌な思いをさせたな」
「アタシの事は一切無かったけどな?」
俯く栗毛に謝罪の言葉を掛けるトレーナー。それを豪快に笑いながら雰囲気を変えさせる短髪の赤毛。そうやって会話を続けながらやがてプレハブが林立する場所まで辿り着く。
「で、これはどういう?」
割り当てられた小屋の前、閉鎖を示すテープを剥がそうとしただろう小柄芦毛のウマ娘がそのテープに絡め取られて地べたに転がり、付近には死んだ魚の目のサイドテールの黒鹿毛ウマ娘が佇んでいる。これは何か新しい遊びなのか、得体もしれない事を思いながら足元に転がってきた芦毛に目を向ける。
「あ、トレーナーぁ、時間になったら入れる様にしとこうと思ったんだけど、ぅぅ」
久々に聞く鼻にかかった甘え声。ただコロコロと地面を転がりながらでは何の効果ももたらさないが。卒業まであと1ヶ月ほどとなり授業やレースといった拘束の無い彼女なりに後輩を思ってのことだろう。バケツやモップ、雑巾といった掃除用具が扉前には立てかけられていた。
そんな小柄芦毛の介抱を短髪赤毛の卒業生に任せて扉の鍵を開ける。一週間ぶりの居城は少しだけ埃っぽく、冷んやりとした空気で閉鎖されていた事を物語っていた。
明かりを付けてとりあえず茶でも淹れるかと備え付けの流し台に向かい蛇口を捻り少し水を流す。
◇
聞き慣れた生活音に弾かれた様に制服姿のサイドテールのウマ娘が部室に足を踏み入れ、目立つホワイトボードの前に立つと、その瞳が見開かれる。
「なんで、無いの? ねぇ、なんで?」
震えた高い声が室内に響く。目線の先にはチームメイトの名前と出走予定のレース、そして目標などが書かれていた。その3段目、自分の名前の下が綺麗に消されている。まるで初めから記載など無かったかの様な空白にボードに近寄り痕跡を確かめる。が、何度見たところで自分の名前と先週のレース名の下は一段開けて一年娘たちになっている。
「え、どういう、ねぇ、ちょと、ねぇ」
徐々に声量が上がり、ぐるぐるとその場で旋回をした後で並ぶロッカーの前に足を向け、そこでは声も上げられずに立ちすくむ。馴染んだ自分の隣、名前の欄は空白で小さな鍵が挿さり空きである事を示していた。
「どうして…」
有った筈、居た筈の同級生の痕跡があからさまな具合に消されている。よくよく見れば部室のあちこちに点在していた細かい私物さえも無くなっていて、何もかも初めから無かったかの様になっている。
誰の仕業か、考えるまでもなくトレーナーはクロだ。だけどこの徹底ぶりはむしろ本人の仕業としか考えられなかった。
思い返せばレースの前々日、関西圏のレースだからと前日夕方に駅前集合と決まった辺りから怪しかった。だとしたら、彼女はレースの結果が分かっていたのだろうか。それなのにどうして走ったのか。あの時のさした指先、聴こえた声。そんなもの、背負えないよ。
「なんで…」
呆然と抜け殻となったロッカーの前で呟く。その様子に、トレーナーが口を開く。
「あいつの望みだ。走った事も、ここの状況も、な」
定位置の椅子に座り、何事でも無い様にカップの紅茶を啜る様子に、ドンっと脚を踏み鳴らしサイドテールの娘が振り返る。
「ふざけてるの?ちゃんと答えてよ、一体なんで、どうしてっ」
「大真面目、だが?ひとりのウマ娘が終着点を定め、目指して、全身全霊で駆けたい相手がいる、とできる限りを果たそうとしたんだ。トレーナーの俺がそれを手助けするのは当たり前の事だろう?」
事務机に詰め寄って大声で喚き立てる様子に、ピクリと眉を動かすだけで淡々と言葉を返す。
そのトレーナーの様子にさすがに見かねたのか、短髪赤毛のウマ娘がサイドテールの両肩を捕まえ前のめりを少し引き戻す。同時に栗毛の卒業生はトレーナーの傍らに付いてジトっとした目で見遣る。
「それ言っちゃいますか?ホント時々教育者だと思えなくなりますね?」
「他所からどう見られてたか、今更ながらに思い知らせてくれるな、トレーナーは」
落ち着きなよ、とサイドテールを宥めながら赤毛も栗毛に同意してため息混じりに苦笑いをこぼす。
かつて自分たちを後押ししてくれていた熱量は、一歩離れた身からすれば独りよがりが過ぎるとも思えた。そしてその熱情を浴びれるのは走る現役だけ。それを感じとるから卒業生も最初の一年二年を過ぎれば顔を見せる事も無くなるのかもしれない。
自分たちはそうなりたくない、とは思うもののかつての名残を懐かしむのは日々の生活に追われる身となればそうそう振り返ってもいられなくなるかもしれない。ましてや自分たちが慕ったトレーナーの寵愛が駆ける現役生に向けられているのを見せつけられるのだから。
「望んだからって、そんなのって」
震えながら黒鹿毛サイドテールのウマ娘が名札の取られたロッカーに手をかける。まるで存在していた事自体を忘れてくれと言わんばかりの所業に、何一つ伝えられていない事に怒りの次に寂しさが襲ってくる。トレーナーも、それに親友だと思ってた青鹿毛メガネの娘も。
「なにが終着点、よ。もっと走ろうって、一緒にって、レース前にも言ってたじゃん…」
抉る行為と分かっていてもロッカーの扉を引く。乾いた音を立てて開いたその中は当然のようにがらんどうで埃一つ無いのが逆に直近で空になった事を示していた。大きなため息と共に痕跡を消し去った青鹿毛は何を思っていたのだろうと何も入っていない薄暗く狭い空間を見つめる。
「んー…それは?」
不意に、我関せずの風で床に箒をかけていた小柄芦毛が声を発する。皆の視線が集まったその指差した先は開かれたロッカー扉の裏側。林檎柄のマスキングテープで貼られた写真が一枚。
それは夜空を背景にしたツーショット。手持ちで撮ったため頬を寄せ合い笑顔の2人。
「これ、あの時の…?」
GIII入着のお祝い代わりに、約束していた流星群を見ようと寮の屋上に行った事を思い出す。寒空の中、保温マグを手に何時間も話したっけ。
子供のころの話。学園に来たばかりの頃。模擬レースに選抜レース。それからスカウトされた時の事。メイクデビューやその後の未勝利戦。苦戦続きのオープンや重賞。惨敗だったあたしのGI。
向こうはやはり幼少期から入学まで。それに学園での事、故障の事に、復帰してからのオープン勝利や先日の重賞入着。
…そう、お互いの昔のことはたくさん話した。だけど、先のことは一切話題に無かった。その時は言いたいことや言えなかったことをたくさん話せてよかったと思っていたけど、まさかその時にはもう…。
あの娘は、親友だと思っていた青鹿毛メガネのウマ娘はこうなる事を予想していた。違う、こうする事を決めていたんだ。
「一言、言ってくれたって…」
視界がぼやけながら笑い顔の写真を持った指が震える。復帰なんてまやかしで脚が限界を迎えてる、なんて聞いていたらあたしは走れただろうか。あんな無邪気に、疑いもなく。きっとそれは無理だっただろう。
あたし以上にあたしのことを解ってる。クルッと何気なく写真を裏返すと、そこには走り書きで日付とアルファベット二文字に数字が四桁記されていた。
「今日…で、何…?」
戸惑い動きを止める。頬を水気が伝ってるのを感じるが、それ以上に彼女が残したこの書き置きの意味が分からない。何かの型番とか品番だろうか?にしては日付をわざわざ入れた理由が見えない。
「ん、どーしたの?んー…」
涙を流しながら固まって写真の裏を見つめていることに小柄芦毛の先輩が不審そうに覗き込んでくる。当然、彼女にもそれが何かは分かるわけがなく、疑問符の浮かんだ顔をしていた。
「そんな時は…んー。むー?先輩ぃ?」
スマホを取り出して文字列を検索する。直ぐに出たであろう答えに首を傾げながら側の大柄短髪赤毛の卒業生に声をかける。
結果を見た彼女も目を瞬かせ、次いで全ての仕掛けを知ってるであろうトレーナーに振り向く。2人の気づいたらしい振る舞いにもトレーナーはあくまで知らぬ素ぶりを決め込むらしい。
「全く手の込んだ、だな。行くぞ、泣きべそ後輩。メガネの奴に一言言ってやりたいんだろ?」
呆れた様に短髪赤毛のウマ娘が、後輩のサイドテールの肩を叩く。未だ訳が分からず狼狽える様子に小柄芦毛がアシストする様に言葉を足す。
「んっと、多分、飛行機、乗るってことだと思うんだ。国際線は3時間前集合、だったっけ?」
「へ?」
飛行機、国際線、言ってる意味が分からない。海外に行くってこと?誰が、って書いたのは親友か。気づけばよし、気づかなくてもそれはそれ、と薄く笑う顔が脳裏に浮かぶ。
大バ鹿、メガネの奥の目はそんな事思っちゃ無いくせに。
「飛ばして2時間、結構ギリだな?そら、行くんだろ?」
壁の時計で時間を確認して鍵を取り出しクルクルと指で回す赤毛の先輩。足はもう扉へと半分向かっている。それを慌てて追いかける。
うん、そうだ。直接言わなきゃ。一方的に重荷なんて残されてたまるか。
「いってらっしゃい。帰って来るまで留守番しておくしかないし」
紅茶を淹れていた栗毛が小走りに小屋を出て行く2人に手を振り見送る。送迎を任せている同級生が後輩と出かけるとなれば、必然的な話といえた。とはいえ動けないわけでは全くないので、その気になれば一人で帰宅する事は出来なくはない。過保護気味に気遣ってくれる事に甘えているだけだ。が、顛末を知らずに立ち去るわけにもいかなかった。
「あとそれに、少しお話したいですし、トレーナーさんと」
カップを手にしてソファーに腰掛け、仕事机から顔を上げる素振りを見せない男の方へと視線を向ける。今回の騒動の発端となった悪意ある記事。だがその事実関係は否定されていない。
トレーナーの言葉もほぼそのままであったし、自分が怪我をした事も。後輩が生傷が絶えないのも。だからこそ気になる、この小屋の中に写真の1枚も残されず、あるはずのレイやトロフィーの類いも飾られていないウマ娘の事。
「そーですね。わたしも聞きたいこと、あるなぁ」
箒を片付けた芦毛の3年生もちょこんとソファーの隅に落ち着いて同調してくる。1年生たちが1週間ぶりの練習だと意気込んでやって来るまで、2時間弱。それだけあれば多少なりとも聞き出せるだろうか。5年目まで競争ウマ娘を続けた尾花栗毛の顔も知らない先輩の事を。