全ては遅かったのか、いやそんな事はないはずだ。
GIは勝ちこそ無いがトライアルでは好成績を叩いていた。そんな自分が、彼のためだけに走れば、どうなるか。外野からの心無い声を気にする風もなく淡々とリハビリのメニューを組んでくれる彼に応えなければいけない。
残された最後の1年は彼に捧げよう。名実ともに彼のウマ娘として、彼の愛バとして。
だから包帯が巻かれた太腿に触れながら決意表明をした。
『わたしは…勝ちたい、です』
彼のためにとは言えなかった。気恥しさもあったが、それ以上に拒否されるのが怖かった。彼の事だ、『俺のためなんて下らない理由より自分の想いで走れ』とかなんとか言うに決まっているのだから。
それは主義主張と言うよりは彼の嗜好の問題なのだが、わたしにとっての自分の想い、が彼のためなのだと、あの人がその辺に気づくのは随分と後のことだ。
彼のために走り、彼のために勝つ。誰にも負けられないその想いは本来の距離適性に立ち返る事から始まった。
距離延伸のためのトレーニングを全て得意な距離での勝負勘を取り戻すものに振り替え、年間片手で数える数のGIレースだけを目標にした。
勝負服さえも入学当初に憧れていたウマ娘のそれを模したものを止めた。
黒を基調に装飾過多な程の白のフリルやレース、リボンを贅沢にあしらった自分好みのものに。首元には二人で考えた印である十字の星を銀糸で刻んだチョーカータイを巻いて。足回りも編上げのロングブーツに走破性なんて無視した様な厚底で。
尾花栗毛を靡かせて、自由気ままに派手な衣装で疾駆する。勝つ時は常に大外一気。まくり上げてのごぼう抜き。
人気が出ないはずが無い。ましてや元々期待をされていた2000メートル未満の距離を荒らしまわれば、結果がついてこないわけが無い。
と、それはいい。彼の初めてのウマ娘として初めてのGIウマ娘に成れたのだから。それは良かった。だが何事にも終わりは来る。2度の延長を勝ち取り5年の月日を学園で過ごしたわたしも例外ではなかった。
秋戦線を睨んだ強化合宿。北の大地の少し荒れたターフの上でそれは遂に訪れた。
視線の先にはまだ駆け足程度の速さで周回する後輩ウマ娘の背中が見える。既に息があがり始め、脚の筋肉が軋みを訴える。
春先は微熱が続き、体調不良かと思いながらも目当てのレースに向けて整えていたが、梅雨の季節にはあからさまに駆ける力を喪い始めていた。
それでもと出場したGIIIレースでは8着と、再起を期したものの、さすがに最早これまでと思い知らされた。
この頃、トレーナーはわたし以外にも何人か有望そうなウマ娘を抱えていた。
これはつまり、わたしと専属契約になる時の借りを学園側に取り立てられたのだ。
今まで独占できていた『彼』が他のウマ娘たちを指導する。それ自体は喜ばしいことだ。新進気鋭、将来有望と目されて指導する枠を増やすことを望まれたのだから。そしてそれは彼と彼女が共に歩んできた4年と少しの歩みの成果でもあった。
だからと言って、手取り足取りと後輩たちを指導する彼を見ているのは、かれの「初めてのウマ娘」であるわたしには全く、全然喜ばしくなかった。
◇
月日は流れ、学内でのささやかな引退レースを終え、蹄鉄を置いたわたしはその足でトレーナーの住処を強襲した。以前のレース1着の景品に奪い取った合鍵を持っていたため、彼の帰宅を玄関で三つ指ついて待ち構えていただけだが。
そして夜通しの話し合いの末に、どうにか卒業後の住処を手にしたのだった。
駆け抜けた学生生活の後、少しだけゆっくりと過ぎていく日常。見送り、家事をして、やがて帰ってきた彼を迎え、食事を摂り、同じ布団で眠る。彼の隣は幸せだった。
だけれども、それは長くは続かなかった。偶の休日も一対一は避けてるとはいえ後輩のウマ娘たちを連れて出掛けるのは我慢ならなかった。
そしてそれ以上に、走ることを終えたわたしには、今現役の後輩たちのことを語られるのが堪えた。それは相談だったり、賞賛だったり、愚痴だったり。日々の会話の何割かが占められるそれは、覚悟をしていたよりも遥かに苦しいものだった。
彼が悪い訳では無い。出勤、帰宅の時間も調整してくれているし、なんなら帰る間際にはメールもしてくれる。出掛ける際も誰とどこに行くのかを教えてくれる。
配慮はしてくれているのだ。ウマ娘が独占欲が強い生き物だと知っているから。だが、残念ながらあっさりと彼女の地雷を踏み抜くくらいに自他の境界線を越えた相手に対してのコミュニケーションが苦手な男だった。
『想いを、夢を賭けて駆けるウマ娘が何より一番だ』
『最低よ、あなた…結局それが、間近で見たいだけじゃない』
ちょっとした諍いの最中、僅かの澱みもなく述べる彼に、遂に言ってしまった一言。彼を強く、ウマ娘の力でもって抱きしめた後、わたしは決めた。
彼が仕事に出かけた不在の半日のうちに荷物を纏め、リビングに飾ってあったレプリカのトロフィーやレイも箱に詰める。
彼が個人的に収集していた写真やその他も、自分に関わりそうなものは一切合切を持ち去り痕跡を消す。
他方、学園の部室にあるだろう本物のトロフィーたちは諦めた。
卒業後も練習や合宿には何度か参加はしたものの、幸か不幸か、一度も部室には顔を出していないのでどう飾ってあるのかも分からない。
それは現役競争バの後輩たちとトレーナーの城となった部室に足を踏み入れて冷静でいられる自信がなかったからであったが。
◇
何年も連絡を絶っていた実家に頭を下げ、辛うじての職を得た後はレースには無関心を装い、距離を置いて過ごす。チームの名前がないかと土日はレースの一覧を見てしまうがそれだけだった。あのままでは自分が縛ってしまう。彼はきっとこれから綺羅星のGIウマ娘を何人と輩出するトレーナーのはずだから。そんな彼を、初めてのウマ娘だからと拘束していい筈が無い。無い筈だった。
だというのに、どういうことだろうか。彼の名前を、チームの名前を聞く時は大体ろくでもないゴシップ紛いの記事ばかり。
やれ重賞レースに無意味に同一チームから出走させてウマ娘の前途を奪っただの、脚部不安の娘を無理使いした上に、またチームメイトと同一のレースに出して壊しただの。
その度に師匠筋のウマ娘を奪い独立した厚顔無恥なトレーナー故にだと重ねて書き連ねられる。挙句、直近でGI勝利へと手が届くと思われたウマ娘をあっさりと海外路線に舵を切って放り出していた。
何をしているんだ、この人は。わたしが身を引いたのに。縛り付けてはいけないと、そう思ったのに。遠い将来に、わたしが彼の初めてのGIウマ娘だったんだよ、とささやかに自慢ができる夢を見ていたのに。
彼はウマ娘が走りたいと切望するレースへの道をただ舗装しているだけだ。最高の見送りをしたいと要望されて出走させた。自らが限界を迎えても伝えたい想いがあるからと説き伏せられて走らせた。ウマ娘レースの発祥の地であるヨーロッパへの想いが捨てきれないと言われて海外へと旅立たせた。ただ、それだけのことだった。
その度に流れる評判もおそらく気にもしていないのだろう。致命傷を負ったら市井に戻ればいい、それくらいのつもりなのかもしれない。
ふざけるな。バ生を捧げても良いと思ったわたしの覚悟を…。
それは怒りであり悔しさでもあり悲しさでもあった。綯い交ぜになったそれらの想いを解決するために彼女は舞い戻ったのだ。
◇
夕暮れ、閑散としだした学園を変わらず屋上から眺める。視線は校舎の陰に林立するプレハブ小屋、その一つに目を止める。風が吹いて、胸元のIDカードが揺れる。彼女の中で燻る想いを、夢を、叶えるためのそれは、チーム名とサブトレーナーとしての身分を証すものだ。
随分と苦労して、回り道をして辿り着いた、彼の隣という席。三度目の正直だ。今度は失敗しない。まだゲートに入っただけだ。ゴールまではまだ遠い。
勝算はある。夢のために駆けるウマ娘、それをあのトレーナーは手放せる筈はないのだから。