手元を照らす程度の薄暗い照明。ゆったりと流れるバックグラウンドミュージック。10年以上昔の海外のアーティストの声に耳を傾けながら、目の前のグラスに注がれた液体を嚥下する。
カウンター席に浅く腰掛けた彼女は僅かに喉を焼くそれにも慣れた様子で溜めた酒気を帯びた息を漏らす。華奢な手に握られたグラスの中で溶けた氷が擦れ硬い音が鳴る。ほんの僅かだけピクリと頭頂部から生える小ぶりな耳を動かし、何を見るでもなくカウンター内に並べられたボトル群に視線を向け、また、大きく息を吐く。
「結局、『持ってない』なぁ、わたし…」
間延びした声の後で憂いを帯びた蒼色の瞳がゆっくりと瞑られる。
学園を卒業してからの軌跡を思い出していた。
◇
年少のウマ娘に向けたスクールの講師をしながら専門学校に通うこと数年。
超難関と言われるウマ娘トレーナーの資格試験では何度も足踏みを強いられた。その一方でスクール講師としては何を認められたか担当する年齢層が徐々に引き上げられ、去る直前には学園を目指す直前期の中等部の年代まで担当する事になっていた。
ようやくの資格取得後、スクールの経営陣まで巻き込んだ大慰留大会を振り切って学園へと帰還を果たしたものの、望んでいた席は見たことのない年上の尾花栗毛のウマ娘に占有されていた。
聞けば直系の大先輩。過去になんやかんやあって存在そのものを眩ませていたらしいが、還ってきたそうだ。
苦労した自分に比べてあっさりと収まったのはどうしてか。
卒業後もチームやトレーナーに想いを残すウマ娘は多い。だが、学園は本来関係者以外立ち入り禁止の学府でもある。
気心の知れた、勝手のわかってる卒業生が指導の手助けを行うことはトレーナーにとってもまだ現役で駆けるウマ娘たちの恩恵は大きい。しかし野放図に出入りされてしまうのはチームの機密が外部に漏れる可能性があった。
あるいは現役ウマ娘たちの指導上もよろしくない。幾ら同じトレーナーの薫陶を受けた先達とはいえ、必ずしも後輩を導くに値するとは限らないからだ。
その為に設けられた元競技ウマ娘のサブトレーナー制度。
進路の定まらない卒業生の受け皿でもあり、公私に渡ってトレーナーをサポートしたい卒業したウマ娘の駆け込み寺。卒業生が無闇に学園に入り浸らない様にする為に作られた学園側からの網と言っても良い資格制度だ。
その性質からチームを率いるトレーナーへと至る道は無い。
それが、今物憂げに琥珀の液体の入ったグラスを傾けている彼女とサブトレーナーの枠に滑り込んだ尾花栗毛の先輩との違い。その差が帰還の時期を遅らせてしまったのだ。同じ景色を見たくて選んだ道は、どうやら並んで見ることは出来なくなってしまったようだ。
◇
潜り込み先を失った彼女は幾つものチームの門を叩いた。だが結果は芳しいものでは無かった。
大手、一等星のチームには既に複数の人員を抱えている所が多く、そうでなくともわざわざチーム出身で無いウマ娘を迎え入れることに難色を示すばかりだった。
圧倒的な実績、実力があったのならともかく、オープン1勝止まりの元ウマ娘では、いかに難関をくぐり抜けてきたと言っても、あえてサブトレーナーとしてチームに加える説得力がなかったのだ。
過去の実績が全てでは無い。出身チームならばそこまで目くじらも立てられないだろう。しかし、他門となれば違う。何かしらの一目を置く理由が無ければチームにとって異物でしかなく、それを溶け込ませるための努力をする余裕はトレーナーたち指導陣にも限られた時間を駆け抜けるウマ娘にも無いのだから。
ならば、と元チームと同じプレハブ組、いわゆる二等星はどうだったか。こちらは規模が小さすぎるものや、見かけ人数が多くともウマ娘の出入りが激しく名ばかりチームであったりと別の問題を抱えている事が多かった。
一方で安定しているチームは一等星に輪をかけて連帯感が強く、外部出身のウマ娘の指導者など受け入れる余地がまるで無かった。
そんな行く宛を失い途方に暮れた彼女が辿り着いた先は、駆ける寄る辺を失くしたウマ娘たちがそれでも走り続けるために門を叩く最後の砦。
黒髪にリムレスの眼鏡をかけた女性がトレーナーを勤める、まるで何かを罰するような十字架を印章に用いた曰く付きのチーム。
◇
「夜遅くにこんな所にいるのは、感心しない…な?」
高く月が輝く夜更け。この時間にはまだ上着が欲しくなる季節。
トレセン学園にそびえ立つ三女神の像、の前のベンチに独り腰掛けるウマ耳の主にリムレスの眼鏡をかけた黒髪の女性が声をかける。
「そろそろ警備員につまみ出されてしまうぞ?その年で迷子でもなかろうに」
女神像を照らす人工の光と空からの月明かりが浮かび上がらせたウマ耳の主は、小柄ではあるものの明らかに生徒ではないスーツ姿だった。
そして彼女は声をかけてきた女性を見上げる。
「…迷子、なんですよ」
「そうか、それは困ったな。聞くだけなら聞こうか」
唐突な言葉にも眼鏡の女性は鷹揚に頷き隣に腰を下ろす。横目で俯いて頬に流れる芦毛で顔を隠してる自称『迷子』の言葉を待つ。
「隣に、行こうと思ったんですよ。…同じ景色が見たいなって。だけどもう、埋まっちゃってて…」
「他所を当たってみてもなかなか…資格よりも実績が必要って言われてしまうと、返す言葉もなくて」
ため息、そして不意に空を見上げて目を閉じる小柄芦毛、スーツ姿のウマ娘。
多分この娘は本当に知らないのだろう。実績も何も、秋の短距離で一等星たちを震え上がらせたウマ娘を知らないトレーナーなど、居ないと言うのに。
明らかな異物。下手すれば爆弾になりかねないと皆手を引いてるのだ。好き好んで『あの男』の薫陶を受けた彼女には不幸なことだが。
『『北極星』には近づくな』
界隈の最外縁に居る自分にまで聞こえてくる言葉。度々に番狂わせを発生させ大物喰らいをやってのけるあの男のチーム。
「…ああ、そう言えば帰って来たらしいな」
「はい。顔も名前…は見た事ありますけど、知らない『先輩』です、ね?」
初対面の筈が、続きを促す言葉を告げる女性に、小柄芦毛のウマ娘が訝しげな目を向ける。
「何、最近のちょっとした話題だったさ」
知りもしない界隈の噂話をでっちあげつつ、こちらを見てきた青い目をじっと覗き込んでやる。
「…なに、なんです、か?」
「諦めの悪いウマ娘の目をしてるな」
時折居城へと突撃してくる無作法な生徒たちと同じかそれ以上の何かを抱えた瞳が瞬く。
「まだ話すなら場所を変えようか、ここは冷えるからね」
立ち上がり顎で方向を示す。レンガで舗装された道の向こうには大きな白亜の建物、の先のプレハブ群。まだ幾つか明かりが点ったままのその方角へと返事を待たずに足を向ける。
◇
「ここは…」
目張りが張り巡らされたプレハブ小屋。付近の小屋は明らかに主を失い空いていて、学園の片隅によくある景色のはずが、異彩を放っている。
「十数年ぶりのウマ娘の来訪だ、歓迎するよ」
先行する女性が扉に近寄ると解錠音が響く。時計の針も天頂に向かう時刻。
「私の客だと言い張れば学園も目くじらを立てないさ。…それとも怖気付いたかな?」
扉を開いて屋内に半歩進み、チラリと背後のウマ娘を振り返る。
「…いえ、失礼、します…」
おずおずと脚を進める。先行した女性の気配に、ぼんやりと壁面の間接照明が灯りを照らし始める。
巨大な3面モニターとそれらが座すデスクは整頓されリモコンと幾つかの封筒が置かれているだけ。後ろのウマ娘が着いてくることを確認してから女性は更に小屋の深部へと向かう。
「これは重賞前に脚の故障が発覚した娘のもの。当時の担当はあっさり別の有望株に乗り換えたそうだ。彼女はそれでも走るのを諦められなかった」
壁面に設えられた棚に置かれた体操服を畳み直す。
「こっちはレースで故障した直後に契約解除になった娘。最後まで全力で駆ける事は叶わなかったがね」
古く錆びた蹄鉄に触れる。
「バ群恐怖症になってしまった娘のもの。それでも誰よりも早く駆け抜けようと足掻き続けていた」
煤けほつれた耳カバーの向きを揃える。
「ゲート入りを怖がる気性難の娘。それでも一度きりでも1着を獲ったんだよ」
古びたレイの向きを整える。
「競走ウマ娘には向いてない、優しい娘だったよ。何度も跳ね返されても、誰かの為に走ろうとする…ね」
編み込まれたドライフラワーの花冠がまるで墓標に捧げられた献花の様に置いてある。
やがて棚の上からその下にうず高く重ねられた書類群を示す。
「私は紙が好きでね。データーとしては残しているんだが、この方が『そこに確かに居た』気がするだろう?」
膨大なそれらは雪崩る事なく聳えて、過去の蓄積を物語っていた。
「どうだい、口の悪い学園の事務方どもは『墓場』とか言う眺めだが、私は気に入っているんだよ」
壁一面の様相に圧倒されたように青い目を見開き、唇を震わせるウマ娘に問いかける。
「想像した事はなかったかな?一等星にも二等星にもなれなかった、ウマ娘たちのことは」
「それでも駆けたいと願った彼女たちを愚かだと思うかい?」
棚の隅にあるボロボロになったシューズを撫でながら女性は言葉を続ける。
「折れた心を誤魔化して、誰かの為に走り続けて壊れた娘を…」
そこで止まり、まるで黙祷するように目を閉じる。