桜の季節が終盤を迎えてもまだ肌寒い午前7時。いつものように朝練の指導をこなした男は自らの居城であるプレハブ小屋に戻る。
「…?」
鍵を挿入し捻るその動きの後、小首を傾げる。いつもなら子気味よく鳴る解錠の音が聞こえない。
昨日うっかり閉め忘れたか?
昨夜も独り遅くまで籠っていた彼は習慣づいてるはずの行為が抜けたかと訝しむ。
不用心だな、と苦笑いを浮かべながら、学園内のセキュリティの高さからさほどの心配もせず、ただ今日は念押しで確認しようかと呟きながら扉を開く。
仄かに柑橘系の、匂いが鼻をつく。
馴染みのない、しかし記憶の奥底では最も馴染みのある匂い。
まだ薄暗い小屋の中、自らの場所である奥のデスクへと視線を向けるとちょうど背を向ける格好で誰かが椅子に座っている。
「さすがに片付けてますか…しかたないですけどね。…ああ、そんな隅に、まるで隠せてないのが…らしいですけど」
頭頂から生えた耳がこちらの来訪を感知してるに関わらず、わざと聞かせるような呟きがきこえる。
声の主はこちらに背を向けたまま、壁に飾られたレイやトロフィーのレプリカたちを眺め指さす事を止めない。
暫しの沈黙、そして漸く椅子に座ったままの彼女は声を掛ける。
「チーム
くるりと向きを変える。流れるような尾花栗毛の髪が冷えたプレハブ内で舞う。
「申し遅れました。この度サブトレーナーの職を学園から拝命しました…」
言葉が止まる。少しつり目気味の瞳が男を見遣り、そして潤む。
「アウロラブリンガー…です」
立ち尽くし言葉も出ない男の前で微笑む尾花栗毛のウマ娘。
「…ただいま、戻りました」
◇
盛り塩が扉の左右に目立つプレハブ小屋。
他と異なりウレタンでの窓への目張りがなされたその小屋の呼び鈴を押す栗毛のウマ娘。
かつて大手のチームに属し、既に重賞での勝ち星すらある彼女が訪れたその先。
「こんな時期に珍しい…ね」
呼び鈴に応じて顔を出した女性が固まる。騒音に近いレースの実況だけが周囲に響く。
「…さん、ですね? 貴女のチームに入れて貰えますか?」
栗毛のウマ娘は部屋から飛び出した喧騒に僅かに顔を顰めながら、顔を出した女性の、メガネ越しにも分かるほど見開かれた瞳を真っ直ぐに見てそう言う。
「あ、ああ…実質はもうわたしのチームじゃないが…」
「貴女のチーム、に」
名前を呼ばれ、漸く言葉を紡ぐ女性に被せる様にウマ娘は言う。
「貴女に…母が、と言えばわかりますか?」
絶句する女性に構わず、艶のある栗毛に触れて梳く仕草を見せる。
「盾を獲ります…いいですよね?」
ふわりと笑い、宣言するウマ娘。
言葉を返せずに立ち尽くす女性の目に、かつての教え子が重なる。
『貴女と盾を獲って…』
「約束…ですよね」
『貴女とわたしの証にしたら、いいと思わないですか、なんて』
「貴女が居た、その証に」
本編に収められなかったお話でした。
ここまでお付き合い本当にありがとうございました。
…と思ったのですが纏めてるうちにお話が産まれました。
もう1日2日だけお付き合い下さい。