降り続く雨は止む様子がない。激しくは無いが延々と屋根を打つ雨音が響き続けている。トレセン学園、走ると言う本能に導かれた可能性に賭けるウマ娘たちの学び舎。
その巨大な学園の一角にして片隅に等間隔で建てられている無数のプレハブ小屋。部室棟と称されている名門、強豪の一等星の名を冠したチームが占める生徒棟と直結したコンクリートの建物からあぶれた、中堅あるいは小規模のチームが宛てがわれる居場所、そこが彼の居城だ。
「昨夜からの雨は日中続き、夜更けには強まるでしょう。降水確率は100パーセント、本日の天気は雨でしょう」
屋内の壁に掛けられた大型のテレビから、気象予報ウマ娘による天気予報が流れている。ウマ娘によるウマ娘の為のチャンネルと銘打っているだけあって、ニュースキャスターも現場リポートもほぼほぼウマ娘が占めている。そして流れる番組の大半はトゥインクルシリーズの生放送や録画だ。
予報通りに止む気配が微塵もない様子を窓から眺め、軽く溜息をついた後、チームのミーティング、そして来客時には応接にも用いられるローテーブルに残された揃いのティーセットを流しへと下げる。
机の上に残された菓子をひとつ摘み上げて咀嚼する。手土産にと持ち込まれたレモンと蜂蜜で仕立てた小ぶりのパンケーキ。いかにも若い娘たちの好きそうな甘味に、僅かむせそうになりながら、壁の時計へと視線を移す。
午後3時まであと少し、ウチの娘たちのトレーニングの時間だな、軽く伸びをして気分を入れ替える。と、同時にプレハブ小屋の扉の前で傘が畳まれる音がして、2度、3度とノックされる。
◇
「おはようございます、トレーナー」
扉が開いて姿を見せたのは黒鹿毛にサイドテールのウマ娘。5月の惨敗の後、暫くして彼女は皆より少しだけ早く来るようになっていた。「狭い更衣室で着替えるのが嫌」と対外的に理由づけして、誰よりも早くトレーナーの居る部室にやってくる。
「あれ、お客さん、だった?」
部屋に入り込むと、当たり前のように備え付けの流し台へと向かう。トレーナーにはブラック、自分にはミルクたっぷりのカフェオレ、インスタントではあるけれど、勝手に決めたルーチンをこなそうとして、ふと流しに下げられている、ペアのティーセットに目を止める。
「ああ、『現役』の皆さんに、って」
「ふぅん…」
テーブルの上の菓子箱を指差しながら、資料か何かを読み耽っているトレーナーに半目になりつた、いつものカップにコーヒーを入れ、自分のは冷蔵庫から専用のミルクを足してローテーブルへと足を向ける。
シンクのペアカップ、無造作に放り込まれたアールグレイのティーバッグ、最後に広げられてる有名店の菓子を見て予想は確信に変わる。栗毛の先輩か…レースで痛めた脚を理由にトレーナーにベッタリだった先輩を思い出し小さくため息をつく。
「今日の予定は?」
ソファーに腰掛け、差し入れという名目の示威行為の産物であるところの洋菓子をつまみ、カフェオレに合わせ味わいながらトレーナーの言葉を待つ。
今日は室内練習場は一等星に既に押さえられているとは聞いていた。その代わりでは無いのだろうけれども温水プールは空きがあったらしい事も知っている。要はスケジュールは把握済み、ただどう組み分けをしたのかの確認でしかない。
「リハビリ組と基礎体力不足の1年はプールかな、レースが近いお前は座学、本当はもう少し身体を動かしておきたい所ではあるんだが…」
予想通りの言葉に、小さく頷きながら、心の中ではガッツポーズをほんの少しだけ決める。今日はどうやらトレーナーのことを占有できるらしい。
「ん、帰りにトレジム寄るよ。いつも通りメッセで報告で」
練習終わりから寮の門限までの時間、夕食を軽めにとってからの自主練を進言する。学園外の施設、自主トレ、この辺りはトレーナー付きのウマ娘は殆ど利用することがない。
園内の設備が、許可制、抽選制とはいえ使う機会がしっかりあるし、何よりトレーナーという人種は自分たちの見ていない所でのトレーニングを嫌う。オーバーワーク、あるいはサボりによってそれぞれにカスタマイズされた計画が狂いやすいからだ。
しかし彼は自主トレへの忌避感は少ないのか、鷹揚に頷いたトレーナーは、それ用のメニューを即席で作ろうとして手を止める。
「まだ、時間じゃなかったな、それにそろそろ他の連中も来る頃合だ」
時計を見遣りながら、カップのコーヒーを啜る。トレーニングの件はトレーニング時間内にと、くだらない拘りだが、オンとオフの使い分けの一環としてそうしている。
独立して直ぐ、専属で1人を見ていた時はそれこそ四六時中、お互いのプライベートもないくらいに関わりあったが、2人、3人とチームの体をなし始めた時にそのやり方は簡単に瓦解した。誰だって駆けるという夢の実現に直結するトレーナーからの指導に1番多く時間を掛けて貰いたい。それが複数となれば余程がなければ待っているのは闘争だ。
◇
「トレーナー、おはよぉーございます」
ノックと同時に小屋の扉が開く。そして間延びした声が到来を告げる。それはノックの意味はあるのだろうか、と小首を傾げながら扉へと視線を向けると道すがら合流したと思われる1年生3人を引き連れて小柄芦毛の先輩が姿を見せる。うん、後ろの栗毛の君、いつもの癖毛が湿気でひどいね、わざと先輩から目を逸らしてみたけど、どうやらそうもいかないらしい。
「ふーん、へー、んー…へぇー…」
入ってくるなりに、スンスンと鼻腔に空気を取り込んで高く低く声を上げて、ゆっくり耳が後ろに反っていく。あぁ、無駄に鼻よかったっけ先輩。なんかフローラル系の匂いしてるなぁ、なんて気が付かないふりしてたのに、気づいちゃうか。うん、これ、どうしよう。
「『現役の皆さんに』だそうですよ?」
テーブルの上のお菓子を指差しての援護射撃。なってるよね、ならないかな?とりあえず気を逸らせればなんとかなる、ならないか。
「あー、先輩、来てたんだぁ、んー…」
あっさりと、誰と特定してジトっとした目でトレーナーを見ている。なにそれ、密会してたのに気づいた正妻みたいな雰囲気出して。多分向こうは向こうで泥棒猫くらいに思ってると思うよ?
「ああ、近況報告と、あとお前のあの無茶苦茶な走り、随分と心配してたぞ?」
トレーナーはトレーナーでなんでもない様にあっさりと暴露する。分かっててわざとやってる様にしか思えない。でも、そう言われたら、言い返すことも出来ない先輩。なんだかんだで頭上がらない相手なのも事実だし。
「そーですか…ん、甘っ」
パクパクっと2個ほどお菓子を口に放り込むと、感想を述べ、それ以上何か言うでもなく気分を落ち着かせるように深呼吸をする先輩。と、同時に部屋の時計が3時を告げる鳩の声を鳴らす。
時間切れだね。というか、今日は、あたしとトレーナーだけの時間になる予定なんだから、さっさとプールに行って下さい。
「さて、と、時間だな?1年とリハビリ組は今日はプールで、体力測定も兼ねてだから気を抜かないように。後で見に行くからな? 」
トレーナーがパンっと手を叩いて空気を入れ替える。成り行きに固まっていた1年たちも久々のプールに、その場で腕のストレッチをしてみせるなど気合十分の様子。
確かに人払いした廊下で走ってフォーム確認とか小雨の中で交互に走って雨天重馬場の練習とか、あんまり面白くないし。あぁ、こら、お菓子は練習後だって。しれっと黒髪おさげがパクついてるのを1個だけと制しながら、若干遅刻の最後の一人を待つ。
「あ、遅れ、ましたっ」
レインコート、両手に鞄の眼鏡ウマ娘が少し息を切らせて現れる。相変わらずの荷物の多さに呆れながら、トレーナーに代わって今日の予定を伝える。内容にピコンと耳が立ち、ふわりふわりと尾が揺れる。
「はい、測定はバッチリです」
「あたしは座学らしいから、後でトレーナーと一緒に行くよ。それに自分も計測しないと、そろそろ、走れるんでしょ」
鞄の中にいつも通りに鎮座している大きなカメラを構える姿勢になるのを宥めつつ、チラリと脚へと視線向ける。
軽い痛みから始まった同級生の療養は思いの外に長く、そろそろ半年になる。何でも複数箇所不安要素があったらしい。詳しい事は本人も言うつもりが無さそうだし、また走れるならそれで十分。距離適性は違うけど同級生だし、心配しないはずなんてない。
「ええ、秋はしっかり回れるかと…1度くらい、レース出来たらいいね?」
「だったら、あたしスタミナつけなきゃ」
模擬レース以来の勝負の申し込みに、冗談めかして返しながら、2人被るようなレースあったかな?とか思い返す。うん、後でトレーナーに聞こう。
そんな話をしている間にも1年組はロッカーからそれぞれの支度をしていて早く行きたそうな目をしている。
あ、1人は違うな、お菓子見てるか…うん、1個、内緒だぞ?しれっと手に取るとプールに向かう面々を部室から見送る際に手渡しておく。
「へー…ふーん…ほーん…」
手を振って見送った、と思ったら左斜め前から声がした。う、わ、先輩、死角からいきなり声を出すのはやめて欲しい。
どうやらあたしの尻尾がご機嫌に左右に揺れている事に気づいたらしい。これは変な言い訳したら火がつきそうかな、よし、見習って押し切ろう。
「先輩、次8月後半でしたよね、今月あたしがしっかり走るから、見ててくださいね」
うん、これでよし。多分よし。引くよね、よし引いてくれた。盛大な溜息をついた後、先輩もプールの方へと足を向ける。
くるりと振り返ると、奥のデスクで書き物をしているトレーナーの姿が目に入る。それじゃ、座学、しましょっか。できれば終わり時間のギリギリまで。