貞操観念逆転世界でオタクくんから愛される感じのTS転生Vtuber 作:たぶんあり
深夜一時。
遮光カーテンの隙間から、街灯の冷たい光が差し込んでいる。
その女性はデスクに肘をつき、苦いエナジードリンクを喉に流し込んだ。
ディスプレイから放たれる青白い光が、疲弊した瞳の奥を刺す。
(……明日までに、この企画書をまとめなきゃ)
「女なら、これくらいの仕事量はスマートにこなすべきだ」。
そんな上司の言葉が脳裏をよぎる。
この社会において女性は強く、有能で、常に周囲をリードする存在でなければならない。
画面をスクロールすれば、SNSには「部下の男性をさりげなくエスコートする、理想の女上司」の画像や、「一歩引いて女性を立てる、慎み深くて男らしいモデル」のグラビアが溢れている。
息苦しかった。
弱音を吐けば「女のくせに頼りない」と笑われ、甘えれば「責任感がない」と見なされる。
この世界は、女性にとってあまりにも戦場だった。
仕事が終わり、逃げるように動画配信サイトを開くと目に留まったサムネイルをクリックする。
それは、ごく最近話題になり始めた、一人の女性配信者のチャンネルだった。
『──あ、こんばんは』
スピーカーから流れてきたのは、耳に心地よく響く、静かなやや低めの中性的な音色。
他の女性Vtuberのように、自信満々に視聴者を鼓舞するわけでもない。
男性Vtuberのように、庇護欲をそそるような甘い声を出すわけでもない。
ただ、旧知の友人が隣の席に座ったときのような、不思議な温度感があった。
『無理して起きてるんでしょう? 少しだけ、肩の力を抜いたらどうですか……うん、今、深呼吸して。吸って、吐いて』
言われるがままに、女性は肺の中の重い空気を吐き出した。
画面の中の「ナノ」は、こちらを評価しようとも、導こうともしない。
ただ、彼女の「女性としての重圧」を、当たり前のこととして受け止め、そして「休んでもいい」と許容してくれた。
『一人の時間は、女だとか男だとか、そういう看板は降ろしていいんですよ。ここでは、ただの「あなた」でいてください』
女性の指先が、わずかに震える。
女らしく、凛々しく、強くあれ。
そんな呪縛を、彼女の静かな言葉が解いていく。
チャット欄には、同じように「救われた」と感じているであろう女性たちの、飾らない言葉が静かに流れていく。
それは、既存のどのエンターテインメントにもなかった、奇跡のような「空白地帯」だった。
配信終了を告げる画面を見届け、私は大きく息を吐いた。
ヘッドセットを外すと、防音室代わりのクローゼットに、夜の沈黙が戻ってくる。
「……ふぅ」
こぼれた吐息の高さに、いまだに心臓が小さく跳ねる。
椅子に深く沈み込み、自分の手元を見つめた。白く、細く、柔らかな指。
前世の自分が持っていた、ペンだこや節くれだった骨感はどこにもない。
(……一年前、か)
それは『俺』が私になった日。
あるいは世界がまるまる変わってしまった日。
私はクローゼットの扉を開け、熱気のこもった小部屋から這い出した。
自室の姿見に映るのはゆるく波打つ黒髪と、意志の強さを感じさせる涼やかな目元をした一人の少女だ。
(……やっぱり、まだ慣れないな)
鏡の中の自分に向け、「女らしい」笑みを浮かべてみる。
この世界で言うところの「女らしさ」──すなわち、自信に満ち溢れ、他者を導くような力強い微笑みだ。
だが、鏡に映ったのは、どこか居心地が悪そうに頬を引きつらせた、ちぐはぐな少女の姿だった。
一年前、前世でしがない会社員だった「俺」は、気がつくとこの世界で「天城はるか」になっていた。
最初は単なる夢か、あるいは悪質なドッキリだと思った。
だが、街に出れば「女性専用車両」ならぬ「男性専用車両」が走り、テレビをつければ「凛々しく経済力のある女性」が「慎み深く可憐な男性」をエスコートする結婚式場のアドトラックが走っている。
ここが自分の知る常識を裏返した世界だと理解するのに、そう時間はかからなかった。
(あんな配信、前世の感覚からすれば普通なんだけどな……)
スマホを手に取り、先ほどの配信の余韻を確認する。
エゴサーチの結果は、戸惑いと熱狂が入り混じっていた。
『ナノさんの声、落ち着く。女の人なのに、無理にグイグイ引っ張ろうとしないのが逆にカッコいい……』
『他の女性ライバーみたいに「私についてこい!」って感じじゃないのに、包容力がすごい。これが新しい時代の「凛々しさ」なのかな』
この世界において、女性Vtuberは「頼れるリーダー」であることが正義とされる。視聴者を叱咤激励し、時には強引にリードする。
それがこの世界の「女らしさ」のテンプレートだ。
一方で、男性Vtuberは徹底して「守ってあげたくなる可愛さ」を演じる。配信中に少しでも粗暴な面を見せれば「男らしくない」と炎上しかねないほど、彼らの「純潔さ」は厳しく管理されていた。
「逆転、か」
だからまあ、私も最初は「それっぽく」しようとはしていたのだ。
Vtuber、月夜ナノ。
ただ、多分この世界基準で言うならば私は「女らしく」ないのかもしれなかった。