貞操観念逆転世界でオタクくんから愛される感じのTS転生Vtuber 作:たぶんあり
部屋の明かりを落とし、私は防音室代わりのクローゼットに身を滑り込ませた。
狭い空間に機材の発する微かな電子音だけが響いている。
ヘッドセットを装着し、マイクの位置を調整する。指先に伝わる冷たい金属の感触が、スイッチを入れるように意識を研ぎ澄ませた。
配信ソフトを立ち上げ、モニターに映る自分のアバターを確認する。
月夜ナノ。
薄紫のショートヘアに、どこか儚げな雰囲気を纏った少女の姿。
この姿を借りて、私は今夜も誰かの重荷を少しだけ軽くする。
深呼吸をひとつ。
配信開始ボタンをクリックした。
「──こんばんは」
モニターの端に表示される視聴者数が、じわじわと増えていく。
二百、三百、五百。
チャンネル登録者数は三千人を超えたばかりだが、確実に誰かが私の声を待っている。
チャット欄に、ぽつりぽつりとコメントが流れ始めた。
『ナノさん、待ってました』
『今日も仕事で疲れた……癒やされに来ました』
『声聞けただけでホッとする』
私は小さく笑みを浮かべた。
もちろん、視聴者には見えない。見えるのはアバターの穏やかな表情だけだ。
「お疲れ様。無理して起きてる人、多いんじゃないかな」
意識的に、声のトーンを落ち着かせる。
前世で培った、誰かと深夜まで語り合うときの、あの温度感。
この世界の「女らしい」配信者のように、元気よく鼓舞するのではなく。
この世界の「男らしい」配信者のように、甘えた声で庇護欲を煽るのでもなく。
ただ、隣にいる誰かに話しかけるように。
「今日はね、リクエストがあったから。少しだけ、私の話をしようかなって思ってる」
チャット欄が、わずかに活発になる。
『ナノさんの話!?』
『珍しい……いつも聞き役なのに』
『嬉しい、聞きたいです』
私は、マイクの前で少し姿勢を正した。
「私、配信を始める前は……正直、毎日が息苦しかったんだ」
言葉を選びながら、ゆっくりと紡ぐ。
もちろん、前世のことをそのまま話すわけにはいかない。
でも、この世界で「天城はるか」として生きてきた一年間の実感は、嘘ではなかった。
「周りからは『もっとしっかりしなきゃ』『女なんだから、リードしなきゃ』って言われて。でも、私はそういうの、あんまり得意じゃなくて」
画面の向こうで、誰かが息を呑む気配がした。
『分かる……』
『私も同じです』
『それ、すごく分かる』
コメントの数が増えていく。
私は、その一つ一つに目を通しながら、続けた。
「『女らしく』って言葉が、重かった。責任感を持って、決断力を持って、周りを引っ張って。それが当たり前だって、みんな言うけど……私には、その『当たり前』が、どうしても重くて」
クローゼットの中の、密閉された空気が肌に纏わりつく。
でも、不思議と息苦しさは感じなかった。
「だから、逃げるように配信を始めた。ここでなら、無理しなくていいかなって。『女らしく』しなくても、誰かの役に立てるかなって」
チャット欄に、長文のコメントが流れる。
『ナノさん、ありがとう。私も毎日『女なんだからもっと自信を持て』って言われて辛かった。でも、ナノさんの配信聞いてると、無理しなくていいんだって思える』
『私、就活で『女性らしいリーダーシップを発揮して』って何度も言われて、内定もらえなくて。でも、ナノさんみたいな在り方もあるんだって知れて、救われました』
画面を見つめながら、私は小さく息を吐いた。
「……ありがとう。そう言ってもらえると、私も救われる」
本心だった。
この世界に来て、天城はるかとして生きて、月夜ナノとして配信をして。
私自身も、誰かに救われている。
「でもね、別に『女らしさ』を否定したいわけじゃないんだ」
言葉を慎重に選ぶ。
この世界の価値観を真っ向から否定すれば、炎上は避けられない。
それに私がやりたいのは革命ではなく、ただ少しの「余白」を作ることだけだ。
「リーダーシップを持って、周りを引っ張れる女性は、本当にカッコいいと思う。尊敬する」
チャット欄が少しざわついた。
『それはそう』
『無理してやってるから、自然にやってる人は素直に凄いと思う』
『でも』
でも、と続ける。
「でも、それが『全員に求められるもの』かって言われたら……それは、ちょっと違うんじゃないかなって」
チャット欄が、一瞬静まり返る。
数秒の沈黙の後、コメントが堰を切ったように溢れ出した。
『そうなんですよね……』
『それ、ずっと思ってた』
『言葉にしてくれてありがとう』
『ナノさん、本当に分かってくれる』
私は、モニターに映るコメントの波を眺めながら、小さく笑った。
「人には、向き不向きがある。得意不得意がある。それは、性別とは関係ない。ただ、その人が『その人』だから、ってだけで」
一呼吸置き、続ける。
「だから、ここでは無理しなくていい。『女らしく』なくても、『男らしく』なくても、ただの『あなた』でいてほしい」
その言葉を口にした瞬間、チャット欄に一つのコメントが流れた。
『ナノさん、質問いいですか? ナノさんは、恋愛とかしたことあります?』
私の指先が、一瞬だけ止まる。
恋愛。
この世界において、女性がリードし、男性が従う。
それが「当たり前」の恋愛。
「……恋愛、か」
私は少し考えるように間を置いた。
「正直に言うと、私はあんまり恋愛に積極的じゃないかな。この世界だと、女性が『リードする』のが普通だけど……私には、それがどうもピンと来なくて」
チャット欄にコメントが並ぶ。
『分かります』
『正直、どうやってリードするのが正解か分からない』
『怖がられたらどうしようって、怖い』
『デートのプラン考えるの、いつも疲れる』
私は、小さく笑った。
「みんな、大変なんだね。私も、もしかしたら将来そういう場面が来るのかもしれないけど……その時は、お互いが無理しない関係がいいなって思う」
言葉を紡ぎながら、私は自分でも驚いていた。
この世界の価値観に、完全に染まっていないからこそ言える言葉。
でも、それが誰かの心に届いている。
「恋愛も、仕事も、人間関係も。全部、『こうあるべき』って型にはめられると、苦しくなる。だから、少しくらいはみ出してもいいんじゃないかな」
チャット欄に、長文のコメントが流れる。
『ナノさん、本当にありがとう。私、ずっと『女なんだから、もっと積極的に男性をリードしなきゃ』って思ってて。でも、それが辛くて恋愛できなかった。でも、ナノさんの言葉聞いて、少し楽になりました』
私は、そのコメントを声に出して読み上げた。
「……うん。楽になってくれたなら、嬉しい」
微笑みながら、少し戯けた口調で言う。
「あ、でも好きな人が出来たら多少は頑張った方が良い、かも? 男女関係なしに、好きな人を幸せにしたい、してあげたいって気持ちは大切だと思うから」
『それはそう』
『笑』
ふと、時計を見れば、配信開始から一時間が経過していた。
視聴者数は、七百人を超えている。
「さて。そろそろ、時間かな」
私は、ゆっくりと配信を終える準備を始めた。
「今日も、来てくれてありがとう。無理しないで、ゆっくり休んでね」
チャット欄に、別れを惜しむコメントが流れる。
『ナノさん、また明日』
『おやすみなさい』
『ありがとう、ナノさん』
私は、小さく微笑んだ。
「うん。おやすみ」
配信終了ボタンをクリックする。
画面が暗転し、クローゼットの中に静寂が戻ってきた。
ヘッドセットを外し、私は大きく息を吐いた。
汗が、首筋を伝う。
狭い空間に熱気がこもり、Tシャツが肌に張り付いている。
「……ふぅ」
椅子に深く沈み込み、天井を見上げた。
この世界で、月夜ナノとして配信をする意味。
それは、前世の「俺」が持っていた感覚を、誰かに届けることだ。
(……でも、これって正しいのかな)
ふと、疑問が頭をよぎる。
この世界の価値観を、少しずつ揺るがしているのかもしれない。
それは、傲慢なのかもしれない。
でも、画面の向こうで「救われた」と言ってくれる誰かがいる。
それだけは、確かだった。
クローゼットの扉を開け、私は外の空気を吸い込んだ。
部屋の窓からは、夜の街が見える。
この世界の「当たり前」が動き続けている街。
「……よし」
小さく呟き、私はベッドへ向かった。
明日も、大学がある。
天城はるかとして、この世界を生きる日常が、また始まる。
でも今夜は、月夜ナノとして、誰かの夜を少しだけ温められた。
それだけで、十分だった。