イマドキ魔王は苦悩する 作:だいふく。
『北見くん急いで! 分かってると思うけど、現場到着後は直ぐに──』
耳の奥で管制の声が跳ねた。
雑音混じりの通信越しでも分かる。切羽詰まった状況であることを隠そうともしない声色だ。
「市民の安全確保及び『ゲート』の開門、だろ」
俺は歩きながら、片手でイヤピースを押さえる。
背中のホルスターが揺れ、装備の金具が小さく鳴った。薄い雨が降り始めていて、アスファルトは鈍く濡れている。普段の渋谷ならただの街の音に紛れるその金属音が、今日はやけに耳についた。
「座標は……渋谷ね。ちょっと集中するから通信切る」
『了解! ただ、現場状況が想定より悪い! 複数の通報が重なってる。単独行動は禁止、必ず——』
「分かってる」
返事をするより先に、俺は通信を切った。
異能防衛機関はモンスター対処の専門組織——であると同時に、異能者が関わる事件の実働機関でもある。
国から権限を与えられ、訓練を受け、装備を支給され、部隊運用の体系を持つ。モンスター出現への出動、避難誘導、救助、封鎖。さらに、異能を悪用した犯罪や、異能者同士の衝突——そういう「人間が起こす災厄」にも対処する。
モンスターの出現が“当たり前”になったこの国で、それでも社会が崩壊していないのは、俺たちが矢面に立っているからだ。
——なんて、綺麗ごとはいくらでも言える。
実態はもっと泥臭い。通報が入れば駆ける。遅れれば人が死ぬ。到着すれば暴れる獣がいる。判断を間違えれば人が死ぬ。結局、現場にいるのは人間だ。怖くても、手が震えても、やるしかない。
俺は北見。
異能防衛機関、対モンスター実働部隊のB級隊員。
……「最年少B級」なんて肩書きで、周りは俺を持ち上げる。だがその実感はない。運が良かっただけだ。
俺の異能は魔法系。
戦闘向きではない。殺すより、生かすための力。あくまで補助向き。
──『空間魔法』
俺は異能を発動し、精神を研ぎ澄ませる。
異能を使うとき、いつも妙な記憶やら感情やらが流れ込んできて、自分がぶれるような感覚に陥る。知らない景色、知らない匂い、知らない誰かの焦り。慣れたと言えば嘘になる。でも、慣れないとやっていけない。
視界に映る以上の距離の転移は膨大な情報が必要だ。その場所の詳細な情報、現時点からの具体的距離、そして、空間の“余白”。
渋谷ならまず問題ない。
何度も出動で踏んでいる。何度も救助で走った。
——発動。
空気が一瞬、薄紙みたいに剥がれる感覚。
景色が切り替わる。
──成功。
鼻先に焦げと埃の匂いが飛び込んできた。
喉の奥が反射で咳きそうになる。人の汗、血の気、破壊されたコンクリの粉。耳には悲鳴と怒号と、遠くの警報が重なって鳴り続けている。
「グルガアアアアアアアアアアアッ!!!」
視線を上げた瞬間、巨大な影が横切った。
巨大な蜥蜴——しかも、情報通り複数。石みたいな体表、背中の棘、重い四肢。走るたび地面が震える。
それが三体、四体……さらに奥に群れ。街の建物が破壊され、人の逃げ道が潰されている。
──スタンピードだと判断。
加えて、Cランク以上だと推察される。
俺一人で対処することは不可能。管制の指示が脳内で再生される。現場到着後は直ぐに——。
「『ゲート』を開門し隊員を現場へ誘導。その後、俺は市民の安全確保に専──」
声に出したのは、自分への確認でもあった。
ゲート。機関が展開する転送用の空間固定装置だ。俺の異能で空間座標を“錨”にして、後続部隊の移動経路を一本にまとめる。複数の隊員を一気に送るには、俺のような空間魔法の使い手が必要となる。
すぐにゲートを開門しようとして——おれは止まった。
「フフフ……フハハハハハッ!! この時を待ち侘びたぞッ!! ──頭が高いな、ひれ伏せ人間共!!」
刹那、戦慄が体を突き抜けた。
空気が凍ったような気がした。心臓が一度遅れて跳ねる。息ができない。呼吸の回数が何倍にも増える。
肺がうまく膨らまない。胸の内側を冷たい手で掴まれたみたいに、身体が言うことを聞かない。
「なん……だ……」
ガクガクと手足が震える。自分の震えを止められない。異能を使った反動でも、モンスターの威圧でもない。そんな生易しいものじゃない。
——“格”が違う。
目線の先には学生と思われる青年が一人いた。学ラン姿。背が高いわけでもない。筋骨隆々でもない。一見すると至って普通の青年。
なのに、そいつがそこに立っているだけで、世界のルールが変わったみたいだった。
『──ん! 北見くん応答して! 未だ『ゲート』の開門を確認できず! 早急に現状報告を!』
耳から聞こえる音の全てがただうるさいだけだった。通信の声も、悲鳴も、警報も、モンスターの咆哮すら、遠くで鳴っているみたいに感じる。
青年は笑っていた。
泣き、叫び、誰もがモンスターから逃げ惑うこの状況で、心底楽しそうに笑っている。
本能がうるさいほどの警鐘を鳴らす。
すぐに理解した。──絶望の元凶が、あの青年であると。
そんな馬鹿な、と理性は叫ぶ。
現場の脅威はモンスターだ。人間じゃない。
なのに、身体はあの一人の青年を“捕食者”として認識してしまっている。
「……ひっ」
その時、目が合った。
頭の中が白く染まり、気づいた時には俺は跪いていた。
膝がアスファルトに当たり、鈍い痛みが走る。痛いのに、痛みを気にする余裕すらない。
動いたら殺されると思った。視線を逸らしただけで機嫌を損ねる気がして、瞬きすら怖い。
……実らない努力などなかった。
子供の頃から少し努力すれば人の何倍もの成果を出すことができた。そして異能の覚醒。それも希少な能力だという。
異能防衛機関からスカウトされ、最年少でB級隊員となった。
そうだ……無意識に俺は『選ばれた人間』なのだと思っていたんだ……。
──それら一切を否定するかの如き底なしの絶望。
(死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない──)
危険とされる異能防衛機関の隊員となってからも、自分が死ぬなんて考えたこともなかった。
なんとなく、今日も上手くいく。心地の良い疲労感と共に床に就ける。そう思いこんでいた。
なのに、今俺は一人の学生に震えている。
巨大なモンスターがすぐそこまで迫っているというのに、そんなことはどうでもよかった。願いはたった一つ。この青年が機嫌を損ねないこと。ただそれのみ。
——人間は、自分より上位の存在の前では、ここまで無力になるのか。
「──っ」
その時、青年が左手を突き出した。
同時に、絶望とは異なる種類の、肌を引き裂くような重圧を感じた。
これは自分と同じ……魔法系の異能者が力を使う時の独特な気配。空間がわずかに歪む。温度が変わる。空気の密度が増す。
だが、質が違う。量が違う。
同じ「魔法」などという言葉で括っていい代物じゃない。
能力の格が違う。今まさに、何かとんでもないことをしようとしている。
荒い息で呼吸を繰り返す。噴き出した汗が全身を流れ、吐き気に襲われ、視界がぐらりと揺れ──
「──『ヘルフレイム』」
膨大なエネルギーが黒い炎へと姿を変え、放たれた。
その炎は“燃える”というより“侵食する”に近かった。黒いのに眩しい。眩しいのに冷たい。
火が走った軌跡の空気が、遅れて破裂する。熱風が皮膚を殴り、髪が揺れ、耳がキーンと鳴る。
何が起こったのか。瞬時に理解できた者は俺を含め誰一人としていないだろう。
黒い炎が、全てのモンスターを一瞬で消し炭に変えた。巨体が崩れ落ちる前に、骨格ごと灰になる。
断末魔すら、音にならない。ただ、焼け落ちる音だけが残った。
だが、不思議と驚きはなかった。
あまりに当然の出来事のように思えたんだ。
——そうだろう。あの青年が魔法をつかったのなら、こうなる。
本能が、そう理解してしまっている。
「……ふむ。この程度の魔法で僅かばりの疲労感がある。ユウ、これは鍛えなくて──何だと!? 最後だと!? ふざけるな!! 時々でいいから我を──ええい、分かった!! 話は後だ!!」
青年は一人で、何やら一人で話し始めた。
言葉だけ聞けば滑稽で、状況に合っていない。だが、笑えるはずがなかった。俺は周りの人間と同じように、跪いた姿勢を変えない。
確かにモンスターは消え去った。
が、この青年がいる以上、何一つとして危機を脱していない。
この場には俺が隊員だと気づいている者もいるだろう。——関係ない。
物音一つ立てるな。視線を集めるな。意識を向けられるようなことは何があっても避けろ。
管制へ報告? ゲート? 避難誘導?
そんな“正しい行動”が、今は全部どうでもいい。
正しいより、生き残るほうが優先だ。
『北見くん! 応答して! 状況——!』
耳の奥で通信が鳴り続ける。
俺はイヤピースを握り潰しそうになる。
“応答しろ”と命令されるたび、俺の身体は硬直する。応答して目立ったら、あの青年がこちらを向くかもしれない。……冗談じゃない。
「お、おい……お前、ほんとに悠かよ……?」
目を疑った。とてもではないが信じられなかった。
話しかける女の子がいたのだ。
——死ぬぞ。
その子が、いま死ぬぞ。
そう思った瞬間、俺は息を止めた。
青年はゆっくり振り返った。
殺すのか? 俺の喉が鳴る。
「カレンか。息災のようで何よ──分かった分かった。移動するぞ」
「……は?」
会話が成立している。
“悠”と呼ばれた青年が、普通に返している。さっきまで神話の怪物のようだったのに、急に日常の端っこに戻っていく。
次の瞬間、忽然と二人の姿が掻き消えた。
空間が折り畳まれたような感覚。視界の端が揺れ、風が吸い込まれ、残るのは静寂だけ。
この場に残ったのは、不気味なほどの静寂。
はっきり言って、俺と同じ空間移動能力を使ったであろうこととか、女の子が攫われたかもしれないこととか、そんなことはどうでもよかった。
俺の頭には微塵もありはしなかった。
ただ、今の俺の心を満たすのは——
(………………最低だな、俺)
膝が抜けるみたいに、体中の力が抜けていく。
安心感が、どろりと全身に広がる。
モンスターは消えた。助かった。
なのに俺は、隊員として何もしていない。
市民を守るために来たのに、跪いていただけだ。
それでも——生きている。
その現実が、胸を締め付ける。
俺は震える手でイヤピースを拾い直し、呼吸を整えようとした。喉が痛い。唇が乾いている。
ようやく、声が出る。
「……管制。北見だ」
『北見くん! 無事!? ゲートは!? 現場のモンスター反応は——』
質問が洪水みたいに押し寄せる。
俺は、短く答えるしかなかった。
「……スタンピードは、終息した。原因は……未確認の異能者。高校生くらいの青年だ。——危険度不明」
自分で言って、唾が詰まる。
危険度不明なんて、報告書に書く言葉じゃない。だが、他に表現がない。
『異能者……? 特徴は!? 位置は!?』
「……消えた。空間移動の痕跡あり」
俺はそう言って、口の中が苦くなるのを感じた。
逃げたのか。撤退したのか。
——いや、そんなのは分からない。
分かるのは一つだけだ。
今日、渋谷の現場に現れた“あの青年”は、俺の知っている異能者の枠に収まらない。背筋が凍るような確信があった。
——放置できるはずがない。
今日の俺は知ってしまった。
モンスターよりも恐ろしい青年が、確かにこの街にいたことを。その名を、俺はまだ知らない。
だが、次に会うとき——俺はまた跪くのだろうか。
そんな未来が、ありありと想像できてしまうのが、何より怖かった。