放課後の教室には、西日に照らされた埃が静かに舞っていた。
遠くから聞こえる吹奏楽部の練習の音と、運動部の掛け声。
それは、三池瞬にとって、そして隣にいる中島三智子にとって、
昨日までと変わらない、そして明日からも続くはずの「日常」の音だった。
「ねえ、瞬ちゃん。今日の数学の宿題、ちょっと難しすぎない?」
三智子が、自身の黒髪ショートヘアを軽く揺らしながら、困ったような
笑顔を向けてくる。
大きな茶色の瞳には、穏やかな夕暮れの光が反射していた。
瞬はカバンを肩にかけ直し、幼なじみのその表情を見て、わずかに
口角を上げた。
「まあ、確かにね。後で図書室に寄ろう。 少しなら教えられると思う
けど」
「本当? やった、さすが瞬ちゃん! じゃあ、帰りにコンビニでアイス買ってあげるね」
三智子は無邪気に笑い、瞬の少し前を歩き出した。
二人の距離は、近すぎず遠すぎない、お互いが一番安心する距離感だ。
瞬にとって、この平穏な時間が何よりも大切だった。
三智子の明るい声、何気ない会話、そして彼女の存在そのものが、自分の
精神的な拠り所であることを、この時の瞬はまだ自覚していなかった。
校門を抜け、住宅街へと続く坂道に差し掛かった時だった。
突然、世界から音が消えた。
「……え?」
瞬が足を止めるより早く、三智子が振り返る。
彼女の背後の空間が、ガラスが割れるような音と共に歪み始めていた。 空の色が、夕焼けのオレンジから、見たこともない不気味な青紫色へと変色していく。
足元の地面が、まるで水面のように波打ち始め、二人の周囲に幾何学的な
紋様が浮かび上がった。
「瞬ちゃん、これ……何……っ!?」
三智子の顔から血の気が引いていく。彼女が伸ばした手は、震えていた。
瞬は反射的にその手を掴もうと一歩踏み出した。
「三智子、こっちへ!」
だが、その指先が触れ合う直前、凄まじい光の奔流が二人を飲み込んだ。
重力という概念が消失し、天地の区別がつかない混沌とした空間へと
放り出される。
『……適合者よ。均衡を乱す影に対抗し得る、勇者の魂よ』
頭の中に直接響く、透き通っているがゆえに冷徹な、女性の声。
それはヴィルガスト界を司る女神ウンディーネの宣告だった。
「誰だ! 俺たちをどうする気だ!」
瞬は叫ぶが、自分の声さえも光の中に溶けていく。
視界の端で、三智子の体が別の方向へと引きずられていくのが見えた。
彼女の周囲には、黒くドロドロとした、悪意の塊のような影が
まとわりついている。
何か良くない力が、彼女を引きずり込んでいく。
「瞬ちゃん! 助けて、瞬ちゃん!!」
三智子の絶叫が、空間を切り裂く。彼女の茶色の瞳が恐怖に染まり、
涙が溢れ出すのがスローモーションのように見えた。
だが、瞬の体はまるで見えない鎖に縛られたかのように、彼女の方へ
づくことができない。
それどころか、不可視の力が瞬を正反対の方向へと押し流していく。
『……案ずるな、勇者よ。其方は選ばれた。世界を維持するための礎として』
女神の声には、2人を強制的に転移させることへの気遣いも何も無い。
彼女にとって、この召喚は単なる「必要なチェスの配置」に過ぎなかった
のだ。
「ふざけるな! 三智子! 三智子ーーッ!」
瞬の叫びも虚しく、三智子の姿は深い闇の渦の中へと消えていった。
最後に見た彼女の顔は、絶望に歪んでいた。
直後、瞬の意識は強烈な衝撃と共に暗転した。
――どれほどの時間が経過しただろうか。
頬を撫でる風の感触と、草の匂いで、瞬は意識を取り戻した。
重い瞼を開けると、そこには見たこともないほど澄み切った青空が広がっていた。
だが、その空には、地球ではありえない巨大な天体が二つ浮かんでいる。
「……ここは……」
瞬は体を起こそうとしたが、全身に走る激痛に顔をしかめた。
周囲を見渡すと、そこは見渡す限りの草原だった。
遠くには切り立った山脈が見え、巨大な鳥のような生物が空を横切って
いく。
制服は土埃で汚れ、カバンはどこかへ消えていた。
何より、隣にいるはずの少女がいない。
「三智子? 三智子、どこだ!」
立ち上がり、声を限りに叫ぶ。だが、返ってくるのは風の音だけだった。 瞬の脳裏には、最後に見た三智子の恐怖に満ちた顔が焼き付いて離れない。彼女だけが、あの不気味な黒い影に飲み込まれた。
一人きりで、あんな得体の知れないモノで連れ去られたのだ。
「三智子……くそっ、何なんだよ、ここは……!」
拳を地面に叩きつける。
彼は知らない。
そう、中島三智子が邪神の冷たい宮殿へと引きずり込まれ、
そこで彼女の心を、記憶を奪い、邪神の忠実な戦士へと作り変えられる
運命が待ち構えていることを、この時の瞬は知る由もなかった。
剣と魔法の世界、神々が人間を駒として扱う世界、ヴィルガスト。
たった一人の幼なじみを奪われた少年の、過酷な旅がここから始まる。