ヴィルガスト界の空は、人間界のそれとは異なり、常に何処か不気味な色彩を帯びている。赤紫色の夕刻が大地を飲み込もうとする中、三池瞬は、その足元に横たわる巨大な魔獣の死骸から聖剣を引き抜いた。
ドロリとした青黒い血が剣身から滴り落ちる。かつて日本で普通の高校生として過ごしていた頃の瞬であれば、この光景だけで腰を抜かし、吐き気に襲われていたに違いない。だが、この異界に召喚されてから二ヶ月という月日は、彼の肉体と精神を否応なしに変質させていた。
瞬は、この2か月の旅の途中で得た資金で、装備を「鋼の装備」へと更新していた。また、身体は引き締まり、剣を振るう腕には確かな筋力が宿っていた。先ほど倒した魔獣も、この近辺では恐れられていた上位種であったが、今の瞬にとっては、息を切らすほどの手練(てだれ)ですらなくなっていた。
「……また、少しだけ……強くなったのかな」
瞬は自らの掌を見つめ、小さく呟いた。女神の言う通り、自分の中には「勇者としての素質」が眠っており、戦いを重ねるごとにそれが開花していくのを実感している。並の戦士では太刀打ちできないモンスターを一人で討伐できるようになったことは、本来なら喜ぶべき成長であるはずだった。
しかし、瞬の心に宿っているのは、達成感などでは到底なかった。 胸の奥を絶えず掻き乱すのは、鋭い刃物で削られるような「焦燥感」と、底なしの「無力感」である。
「三智子……。どこにいるんだ、三智子……」
彼が強さを求めた理由は、ただ一つ。自分と一緒にこの世界へ引きずり込まれ、転送の最中に邪神の手によって奪われた幼なじみ、中島三智子を救い出すためだ。 二ヶ月間、彼は文字通り死に物狂いでヴィルガスト界を駆け抜けてきた。いくつもの街を訪れ、いくつもの村を救い、出会うすべての人々に彼女の行方を尋ねて回った。明るく、誰に対しても優しい微笑みを絶やさない、あの少女の姿を。
だが、返ってくる言葉はいつも同じだった。 「そんな娘は見かけていない」「邪神に攫われたのなら、もう生きてはいまい」――。
そんな絶望的な言葉を投げつけられるたびに、瞬の心は砕けそうになった。それでも彼は立ち止まるわけにはいかなかった。彼女がどこかで自分を待っていると信じなければ、この2か月間、正気を保つことなどできなかったからだ。
瞬は、新しく到着したこの大陸でも有数の大都市「フェルゼン」の石畳を、重い足取りで歩いていた。この街なら何らかの情報が得られるはずだと期待を込めてやってきたが、今日もまた、成果は皆無だった。
街の衛兵、ギルドの冒険者、広場の商人。誰一人として三智子の手がかりを知る者はいなかった。 日は完全に沈み、街には魔除けの灯火が灯り始めている。疲れ果てた彼は、休息を求め路地裏にある一軒の酒場へと足を踏み入れた。
酒場の中は、戦士たちの粗野な笑い声と、安酒の匂い、そして肉を焼く煙に満ちていた。瞬は隅のテーブルに腰を下ろし、注文した果実水を一口啜る。さわやかな味が広がり、疲れが少し癒されるのを感じた。
(三智子……。暗いところに閉じ込められて、怖い思いをしていないか? お腹は空いていないか? 泣いていないか……?)
目を閉じれば、あの日、放課後の教室で笑い合っていた彼女の顔が鮮明に浮かんでくる。 「瞬ちゃん、またボーッとしてる!」 そう言って自分を覗き込んできた三智子の、温かな茶色の瞳。
瞬は、握り締めた拳が震えるのを止められなかった。女神ウンディーネは言った。「勇者の素質を持つお前がいれば、世界は救われる」と。だが、世界なんてどうでもよかった。自分にとっての世界とは、三智子そのものだったのだ。彼女一人がいないだけで、どれほど強い力を手にしようとも、この掌には何も残っていないように感じられた。
(頼む、無事でいてくれ。俺が……俺が絶対に助けに行くから。たとえ神に逆らってでも、お前だけは……)
祈るような思いで顔を伏せていた、その時だった。
「――おい、聞いたか? 北の街が全滅したらしいぜ」
隣の騒がしい円卓から、一人の傭兵らしき男の低い声が漏れ聞こえてきた。普段なら気にも留めない酔客の世間話だが、続く言葉が瞬の鼓動を跳ね上がらせた。
「ああ、生き残りの商人が震えながら言ってたよ。モンスターの軍勢を率いているのは、死神のような女戦士だってな。……漆黒の鎧を纏った、黒髪の女戦士が……」
瞬の身体が、弾かれたように硬直した。 黒髪の、女戦士。 三智子とは結びつかない言葉のはずだった。彼女は剣など持ったこともない、心優しい少女だ。だが、この二ヶ月間、どんな些細な「黒髪の女」というワードも見逃さずに追ってきた瞬の直感が、かつてない激しさで警鐘を鳴らしていた。
「……その女戦士、名前は何て言うんだ?」 「さあな。だが、立ち向かった騎士団をたった一人で皆殺しにしたらしい。冷たい顔をして、笑いながら、紫色の雷を放つ剣を振り回してたって話だ」
瞬は立ち上がり、椅子が床を叩く大きな音を立てた。酒場の視線が集まるのも構わず、彼はその傭兵たちのテーブルへと詰め寄った。その瞳には、焦燥と、かすかな、しかし狂おしいほどの希望が混じった炎が宿っていた。
「その話、詳しく聞かせてくれ……! その女戦士は、今どこにいるんだ!?」
瞬の胸中で、不安と期待が荒れ狂う。 もし、それが彼女だとしたら。もし、邪神の手によって彼女が変えられてしまっていたとしたら・・・。