周囲に立ち込める霧は、ルシーズが放つどす黒い魔力と同調し、凍るような冷気を帯びていた。彼女の瞳は、激しい憎悪と、それ以上に深い悲しみに濡れ、濁った緑色の光を瞬に突き刺している。
「最後よ、三池瞬。……お前が、この手で私を『生贄』にしたあの瞬間のことを、死ぬ前にもう一度だけ思い出させてあげる」
ルシーズの声は、もはや怒鳴り散らすようなものではなかった。それは、骨の髄まで冷え切った、決定的な断絶を告げる葬送の調べだった。
ルシーズの脳裏に、邪神が刻み込んだ「偽りの記憶」が、まるで昨日のことのように鮮明に蘇る。
それは、神々しい光が降り注ぐ、女神ウンディーネの神殿だった。召喚されたばかりの瞬は、いつの間にか白銀に輝く鎧を纏い、手には伝説の聖剣を握っていた。その傍らには女神が立ち、彼を「真の勇者」として祝福している。
三智子は、転移の衝撃でボロボロになった制服のまま、這いずるようにして瞬の足元に縋り付いた。腕や膝からは血が滲み、異世界の恐怖に震えながら、唯一の希望である幼なじみの名を呼んだ。
『瞬ちゃん……よかった、無事だったんだね……。怖いよ、早く、早く一緒に帰ろう……?』
だが、見上げた先にあったのは、本来の優しい幼なじみの顔ではなかった。 そこには、手に入れた強大な「勇者の力」に酔いしれ、傲慢な笑みを浮かべる一人の「怪物」が立っていた。
『……帰る? お前みたいな無能なゴミと一緒に、誰が元の世界に戻るなんて言ったんだ?』
瞬は、汚らわしい泥でも見るかのような冷酷な目で三智子を見下ろすと、あろうことか、鋼の具足で彼女の胸元を乱暴に踏みつけた。
『がはっ……!? 瞬……ちゃ……?』
『俺は選ばれたんだ。この世界の王になり、富も名声も、美しい女もすべて手に入れる資格を得た。それなのに、日本にいた頃から俺の足を引っ張り、まとわりついてきたお前が、隣にいるだけで不愉快なんだよ。女神様も仰っている。勇者がさらなる高みに登るためには、最も身近な不浄を断ち切る「生贄」が必要だとね』
瞬は、絶望に目を見開く三智子の喉元に、容赦なく聖剣の切っ先を突き立てた。
『お前には、最後のご奉仕をさせてやる。俺がこの世界で英雄として認められるための、生贄になれ。死んでくれよ、三智子。お前が消えてくれれば、俺の人生は最高に輝くんだ!』
三智子の視界が、涙で歪む。信じていた世界が、愛していた少年が、音を立てて崩れ去っていく。 『嫌……やめて、瞬ちゃん……! 私、まだ……!』
『死ねッ!!』
瞬が冷酷な高笑いと共に、聖剣を振り下ろした。 肉を裂き、骨を断つ凄まじい衝撃。三智子の胸元からは鮮血が噴き出し、視界は瞬く間に赤く染まっていく。彼女が死の淵で最後に見たのは――自分を斬り捨てた喜びで、顔を歪めて嘲笑する三池瞬の、あまりにも残酷な狂った笑顔だった。
「……あは、あはははははッ!!」
ルシーズは、自らの記憶の残酷さに耐えかねたように、狂ったような笑い声を上げた。その頬を、激しい憎悪の涙が伝い落ちる。
「痛かった……。熱かった……。信じていた人に、ゴミのように捨てられて、殺されるのが、どれだけ悲しいことだなんて……お前にはわからないでしょうね、三池瞬ッ!!」
瞬は、ルシーズが語るあまりにも具体的で、あまりにも非道な「自分」の姿に、言葉を失っていた。
「違う……そんなこと、俺はしていない! 三智子、それは邪神が見せた幻だ! 俺は君を殺してなんていない、ずっと探していたんだ! 信じてくれ、三智子ッ!!」
「誰が信じるもんですかッ!!」
ルシーズが「暗黒の剣」を振り下ろすと、地面から紫色の雷が奔り、瞬の足元の石畳を粉砕した。
「あの時、私を救ってくれたのは主様だけだった。主様は、お前に殺された私を憐れみ、新しい命と、復讐するための力をくれたのよ! 今の私を動かしているのは、お前への感謝でも、ましてや愛でもない……。お前の喉笛を掻き切り、その心臓をこの手で握り潰したいという、憎しみだけよ!!」
ルシーズの瞳から、悲しみや涙が消えた。 彼女の中に残っていた三智子の意識は、再び邪神の呪縛によって深淵へと押し込められ、表面には冷酷非道な戦士「ルシーズ」の人格が完全に定着していく。
「お前が私を殺したように……今度は、私が、お前を殺してあげる。……覚悟しなさい、三池瞬。いいえ――『勇者』!」
ルシーズが大地を蹴った。 その速さは、今の瞬の動体視力をもってしても、一瞬見失うほどの神速だった。 ルシーズのしなやかな脚が、爆発的な推進力を生み出し、彼女は一気に瞬の懐へと飛び込む。
「死ねええええええええッ!!」
紫色の雷光を纏った「暗黒の剣」が、瞬の首筋を狙って横一文字に薙ぎ払われる。 かつて愛し合い、信じ合っていた二人の少年少女は、今、血と憎悪に塗れた殺し合いの螺旋へと、取り返しのつかない一歩を踏み出した。
瞬は、咄嗟に剣を掲げ、かつての幼なじみの、しかし今は「自分を殺そうとする敵」となった少女の刃を受け止めるしかなかった。
激しい金属音が砦に響き渡り、火花が散る。 それは、悲劇という名の幕が完全に上がった合図であった。