女神ウンディーネの分身が放つ、冷徹な言葉。それが引き金となり、瞬の中に澱のように溜まっていた激情が、ついに限界を超えて噴き出した。
「勝手なことばかり言うなッ!!」
瞬の怒号が、周囲に木霊した。彼は拳を血が滲むほど固く握り締め、自分を見下ろす女神の幻影に詰め寄った。
「誰が……誰が勇者になんてなりたいと言った!? 誰がこの世界を救わせてくれと頼んだ!? お前たちが勝手に、俺と三智子を平穏な日常から引きずり出したんだろッ! なのに、三智子が邪神に連れ去られた時、お前は何もしなかった……。それどころか、あいつを救うどころか、今度は殺せだと!? お前の言う『世界の均衡』っていうのは、一人の女の子を見捨てて、その幼なじみに人殺しをさせることなのかよ!!」
瞬は喉が裂けるほどの勢いで、ありったけの怒りをぶつけた。女神の非道、自分の無力さ、理不尽な運命への呪い。言葉は涙と共に溢れ出し、言葉にならない叫びとなって夜空へ消えていく。
しかし、ウンディーネは眉ひとつ動かさなかった。その瞳には、荒れ狂う嵐を見つめるような静寂すら宿っていない。ただ、世界の秩序を守る女神としての、冷たい瞳がそこにあるだけだった。
「……言いたいことは、それだけですか」
女神のあまりにも平坦な反応に、瞬の力がふっと抜けた。 どれだけ叫んでも、どれだけ拳を振るっても、この存在には届かない。自分たち人間を「駒」としてしか見ていない神に対して、感情をぶつけることの虚しさが、冷たい泥のように瞬の心に染み渡っていく。
瞬はその場に膝をつき、力なく項垂れた。先ほどまでの激昂は消え失せ、残ったのは絞り出すような悲痛な願いだけだった。
「……頼む。教えてくれ。……どうすれば、三智子を助けられるんだ」
瞬は、石畳に額を擦り付けるようにして、深く、深く頭を下げた。自分の誇りも、女神への怒りも、すべてを投げ打ってでも、彼は一筋の希望を求めた。
「俺はどうなってもいい。どんな試練でも受ける。だから……三智子を、あの子を元に戻す方法を教えてくれ。あの子を……あんなひどい姿にされてしまった三智子を、救い出してやりたいんだ……!」
その屈辱的なまでに必死な姿を見下ろしながら、女神ウンディーネの瞳の奥で、満足げな光が走った。
(――やはり、この少年を動かす動力源は、あの娘を救いたいという想い。ふふ、計画通りですね)
女神は、瞬が絶望の淵で最も欲している言葉を、あらかじめ用意していた完璧な台本通りに口にした。
「……いいでしょう、勇者瞬。そこまで言うのであれば、唯一の救済策を教えましょう。ですが、それはあなたにとって、非常に酷な道となりますよ」
瞬は弾かれたように顔を上げた。その瞳には、泥沼で見つけた蜘蛛の糸にすがるような、危うい光が宿っている。
「彼女の魂はすでに邪神が植え付けた偽りの記憶での支配により、ルシーズという人格が形成され、内側から汚され尽くされています。今のままでは、彼女の自我が戻ることは万に一つもありません。彼女を呪縛から解き放つ唯一の方法……それは、今の彼女の肉体を、一度完全に『殺す』ことです」
「殺す……!? そんなの、助けることにならないじゃないか!」
「いいえ、最後まで聞きなさい」
ウンディーネは、慈悲深い母のような、それでいて背筋が凍るほど美しい微笑を浮かべた。
「邪神を討ち倒し、世界の秩序を取り戻したその時……私の全権能を以て、中島三智子の魂を浄化し、彼女を再び現世へと『生き返らせる』ことを約束しましょう。そうすれば、彼女を元の『姿』であなたの元へ戻して差し上げます」
その言葉は、瞬の心に甘い毒となって染み込んでいった。
「生き返らせる……本当に、三智子を元に戻してくれるのか?」
「ええ。女神である私が誓います。そのためには、あなたが邪神を倒し、ルシーズという名の呪縛をその手で終わらせる必要がある。それが、彼女を真の意味で救うための、唯一無二の手段なのです。安心なさい、瞬。すべてが終われば、あなたは望み通りの結末を手に入れられるのですから」
女神の言葉を、瞬は震えながら聞き届けた。 「ルシーズを殺し、邪神を討てば、三智子が戻ってくる」。その言葉の裏にある、女神の冷徹な計算――三智子への瞬の想いを、「餌」として利用し、確実に邪神を討伐させようとする意図――に、今の瞬が気づく術はなかった。
瞬は、拳を強く握りしめた。 その掌に走る鋭い痛みさえも、今は三智子を取り戻すための力に感じられた。
「……わかった。俺が……俺の手で、邪神を倒す。そして、三智子を……三智子を必ず取り戻す」
少年の瞳から、迷いが消えた。 だがそれは、女神の手の平の上で踊らされる「勇者」としての、狂気にも似た決意だった。