見渡す限りの緑が広がる草原のただ中で、三池瞬は立ち尽くしていた。 先ほどまで感じていたアスファルトの熱気も、教室の喧騒も、すべてが遠い夢のようだ。
ただ一つ、掌に残る三智子の指先の熱い感触と、
それを掴みきれなかったという絶望的な喪失感だけが、
今この場所に立っているのが紛れもない現実であることを物語っていた。
「三智子……三智子!」
声を枯らして叫んでも、吹き抜ける風が草の波を揺らすだけだ。
異世界の太陽が冷酷なまでに輝いている。
あまりの非現実感に眩暈を覚えたその時、瞬の頭上から、
すべてを圧服するような神聖な光が降り注いだ。
「――目覚めよ、勇者の魂を持つ者よ」
大気を震わせ、魂に直接響くような荘厳な声。
瞬が顔を上げると、空中の一点が激しく発光し、
そこから一人の女性が姿を現した。
透き通るような青い髪をなびかせ、この世のものとは思えない美貌を
備えたその存在は、慈悲深い笑みを浮かべて宙に浮いている。
だが、その瞳の奥には、どこか生物としての体温を感じさせない冷徹な
までの静謐さが宿っていた。
「……あなたは、さっきの声の……」
「我が名はウンディーネ。このヴィルガスト界を司り、世界の調和を護る
女神である」
女神と名乗った存在は、ゆっくりと瞬の目の前に着地した。
彼女が歩くたびに、足元の草花が祝福するように輝きを増す。
「ウンディーネ……! 頼む、教えてくれ、
三智子はどこへ行ったんだ!? 一緒にここへ飛ばされたはずなんだ。
彼女を、三智子を探さなきゃいけないんだ!」
瞬はすがるような思いで女神に詰め寄った。
しかし、ウンディーネは瞬の必死な訴えを聞き流し、淡々と、
そして優雅に言葉を続けた。
「三池瞬よ。其方は選ばれたのだ。
この世界を蝕む邪悪なる存在――邪神を討ち倒し、
ヴィルガストに永遠の秩序をもたらす『勇者』として。
其方の魂には、その資格がある」
瞬は叫んだ。
「そんなことはどうでもいい! 俺が聞いているのは三智子のことだ!
あいつはどこにいるんだ、無事なのか!?」
瞬の叫びに、ウンディーネはようやくその視線を彼に向けた。
その視線には何の感情も無い。
「世界は今、邪神の混沌に飲み込まれようとしている。
其方が勇者として覚醒し、邪神を討伐すること。
それこそが今、この世界で最も優先されるべき事象である。
其方はそのために、私の手によってこの地へ召喚されたのだ」
「……ふざけるな。勝手に呼び出しておいて、使命だなんて……
三智子はどうなったって言うんだよ!
彼女もあなたが呼んだんだろう!?
不気味な黒い影に連れて行かれるのを見たんだ!」
瞬の瞳に怒りの涙が溜まる。
だが、女神は何も反応を示さない。
彼女にとって、三智子が邪神に攫われたことは、瞬を勇者として
完成させるための「生贄」に過ぎない。もし三智子が犠牲になろうとも、
世界が維持されるならばそれは許容される範囲内なのだ。
「すべては邪神を討伐すれば解決する」
ウンディーネは冷たく言い放った。
「邪神が消滅すれば、其方の望む結果も自ずとついてくるであろう。
今はただ、前を見よ。其方に、勇者としての戦う力を与える」
女神が軽く杖を振ると、瞬の周囲を眩い光の粒子が取り囲んだ。
瞬が驚きに目を見開く間もなく、彼の学生服の上に、鈍く光る鋼の装備が次々と具現化していく。
胸当て、籠手、兜・・・。
それは初心者用とはいえ、この世界の魔物に対抗するための力を
備えたものだった。
そして、彼の目の前の地面には、一振りの剣が突き刺さった。
「これは……」
「其方の使命を助けるための装備である。
その剣を手に取り、進むが良い。
邪神の居城はこの地より遥か遠き場所にあり、その道のりは険しい。
だが、其方が真の勇者として目覚めれば、道は開かれるであろう」
「待ってくれ! まだ答えを聞いてない!
邪神を倒せば、本当に三智子に会えるのか!?
あいつは無事なんだな!?」
必死に問いかける瞬。
だが、ウンディーネの体は既に薄い光の膜に包まれ、
透き通り始めていた。
彼女はこの世界を「維持」するために必要な情報だけを与え、
個人の感情に寄り添うつもりなど毛頭なかったのだ。
「信じるが良い。すべての答えは、邪神との戦いの果てにある……」
その言葉を最後に、女神の姿は消えた。
静寂が戻った草原に、鋼の鎧に身を包んだ少年だけが取り残される。
装備の重みが、自分が戦士として仕立て上げられた事実を無慈悲に
突きつけていた。
「邪神を倒せば……解決する……」
瞬は目の前の剣を握り、ゆっくりと引き抜いた。
ずっしりとした金属の重みが、手のひらに伝わる。
人を斬るための道具。自分がそんなものを手にする日が来るとは、
数時間前までは想像もしていなかった。
三智子は今、どこにいるのか。あの黒い影は何だったのか。
女神の言葉を信じるしかないのか。 不安と焦燥、そして
自分勝手な理屈で自分たちを巻き込んだことへの憤りが渦巻く
「……待っててくれ、三智子。必ず、助けに行くから…」
瞬は震える足に力を込め、一歩を踏み出した。
向かう先は、女神が指し示した邪神の領域。
そこでは今まさに、愛する少女が邪神の手で魂を塗りつぶされ苦しみ
続けていることを、彼はまだ知らない。
広大なヴィルガストの空の下、たった一人の少年の、
あてどない冒険が幕を開けた。