ヴィルガスト界の東方に位置する「焦熱の火山帯」。そこは、常に噴煙が空を覆い、大地からは絶えず熱波と硫黄の臭いが立ち昇る、人間が立ち入ることすら拒絶された神域である。
三池瞬は、一歩進むごとに足の裏を焼くような岩場を、喘ぎながら登り続けていた。女神ウンディーネから授けられた守護魔法も、この極限の熱気の前では気休めにしかならない。喉は焼け付くように乾き、視界は熱に揺れている。だが、彼の瞳に宿る炎は、周囲の溶岩よりも遥かに激しく燃え盛っていた。
(強く……強くならなきゃいけないんだ。三智子を、救うために……!)
その歪んだ強迫観念だけが、崩れ落ちようとする彼の膝を支えていた。
ついに辿り着いた火口付近の巨大な洞窟。その奥、赤く沸き立つ溶岩の池を見下ろす玉座のような巨岩の上に、その存在はいた。 四竜の一柱、紅蓮竜イグニール。 山を切り出したかのような巨大な体躯に、溶岩そのもののような深紅の鱗。黄金の瞳には数千年の叡智と、生命を焼き尽くす圧倒的な暴力が宿っている。
「……何処の馬の骨かと思えば。女神の使いか、それとも死に場所を求める狂人か」
地響きのような声が洞窟内に反響する。イグニールがわずかに身じろぎするだけで、周囲の温度が跳ね上がった。
「……俺は……」
瞬は剣を杖代わりに立ち上がり、震える声で、しかし叫ぶように言葉を絞り出した。
「俺は、三池瞬だ! 女神ウンディーネから、お前の試練を受けろと言われて来た! 三智子を……邪神に奪われた幼なじみを救い、邪神を倒すための力が欲しい! 今すぐ、今すぐに試練を始めてくれッ!!」
瞬の表情には、全く余裕がなかった。あるのは、限界を超えて磨り減った精神が引き起こす、病的なまでの焦燥感と狂気的なまでの決意。血走った瞳、ひび割れた唇、そして小刻みに震え続ける身体。
イグニールは、その余りにも異常な剣幕に、黄金の瞳を見開いた。これまで数多の勇者候補や戦士を見てきた古の竜にとって、瞬の姿は「勇気」に満ちた者ではなく、今にも爆発して泣き出しそうな少年に見えた。
「落ち着け、人の子よ。その足並みでは試練を始める前に魂が燃え尽きるぞ。お前の内側は、外の溶岩よりも酷く焼け爛れている」
「うるさい! 落ち着いてなんていられるか! 三智子は……あの子は今も、ルシーズとして苦しんでいるんだ! 俺が弱かったから……俺が強ければ……ッ! だから今すぐに力を、甲竜の装備を寄越せ!!」
瞬は半ば錯乱状態で叫び、イグニールに詰め寄ろうとしたが足がもつれてこけてしまう。激しい肉体の疲労と、それ以上に過酷な精神の摩耗が、ついに彼の意識を暗転させようとしていた。
イグニールは、嘆息するように鼻孔から炎を吐いた。そして、その巨大な鉤爪を、震える瞬の頭上にかざした。
「哀れな……。何がこれほどまでにお前を追い詰めるのだ」
イグニールが詠唱を口にすると、洞窟内の熱気が一変し、清涼で柔らかな光の渦へと変わった。それは、女神ウンディーネが瞬の傷を治した時に使った「癒しの術」とは、根本から異なるものだった。
その光には、まるで生命の根源を包み込むような温かさと、他者の痛みを分かち合おうとする慈しみがあった。 瞬の体内の損傷が繋ぎ合わされ、熱に焼かれた喉が潤い、何よりも――狂ったように焦りに支配されていた彼の思考が、静かな水面のように落ち着きを取り戻していく。
「……あ、……あ……」
瞬は、自分の身体から強張りが解けていくのを感じた。 頬を撫でる光の温もりに、目から自然と涙が溢れ出した。女神ウンディーネに接していた時に感じていた、あの冷たい「道具として扱われる感覚」が、この竜の魔法には微塵もなかった。
「……ありがとう、ございます……。助かりました」
瞬は深く息を吐き出し、ようやくまともな会話ができる状態になった。彼は自分を癒やしてくれた古の竜に対し、心からの感謝を込めて頭を下げた。
「ふむ、ようやくまともな目になったな。……さて、何があった。お前をこれほどまでにボロボロにしたのは、邪神か? それとも……」
落ち着きを取り戻した瞬は、イグニールに全てを打ち明けた。 日本からの召喚。三智子との別れ。邪神による洗脳と、偽りの記憶を植え付けられた彼女――ルシーズとの、あの凄惨な再会。そして、ルシーズから受けた屈辱的な敗北と、女神ウンディーネから提示された「彼女を一度殺して救う」という残酷な唯一の手段。
瞬の話を聞いている間、イグニールの黄金の瞳は、静かな、しかしマグマのような激しい憤りを湛えて沈んでいった。
瞬が話を終えた後、火山の深層が鳴動するかのような重い沈黙が流れた。 イグニールは、その巨大な首をもたげ、天井の向こう側にいるであろう「天上の神殿」を見据えるように睨みつけた。
「……何という、何という非道か」
イグニールの声は、怒りに震えていた。その体表から放たれる熱気が、先ほどまでの癒やしの温もりから、全てを焼き尽くす「激昂」の熱へと変わる。
「女神ウンディーネめ……。秩序という名の都合の良い言葉で、一人の少女の魂を弄び、一人の少年の心を修羅へと叩き落とすとは。それも、あろうことか『殺すことで救う』などという、救いようのない欺瞞を吹き込むとはな……!」
イグニールは知っていた。女神が世界の秩序を守るためとはいえ、どれほど冷徹にこの世界の住人も、召喚した人間も、秩序維持の駒としか見ていないことを。だが、目の前の純粋な少年に対し、最愛の女性を自らの手で殺させようとするその歪んだ誘導は、竜の誇りに懸けて見過ごせるものではなかった。
「瞬よ。お前が女神から聞いた『救済』は、真っ赤な嘘だ」
イグニールは、絶望で崩れ落ちる瞬を、哀れみと決意の混じった眼差しで見つめた。
「あの神は、お前を単なる『邪神を討つための矛』に仕立て上げたいだけだ。そのために、お前の愛を憎悪へと繋ぎ替え、最も効率的な破壊衝動を植え付けようとしている」
瞬は目を見開き、愕然とした。
「嘘……? ウンディーネが言ったことは、全部嘘なのか!? 三智子を殺しても、あいつは救われないのか!?」
「そうだ。私は女神に、激しい怒りを覚えている。……勇者よ。お前は女神の道具ではない。そして、その娘もまた、お前の成長のための生贄などではないのだ……!」
紅蓮竜イグニールの咆哮が、火山の最深部に木霊し、溶岩の池が激しく波打った。 女神の思惑、竜の怒り、そして少年の運命。 四竜の試練は、女神が描いた「勇者の育成」という筋書きから、竜の意志によって大きく書き換えられようとしていた。