紅蓮竜イグニールの住まう火山の最深部では、今、新たな「運命」が産声を上げようとしていた。
「さて、勇者瞬。これより、お前を真の救世へと導くための試練の準備に入る。だが、忘れるな。私の試練を乗り越えたとしても、それはまだ始まりに過ぎぬということを」
イグニールは巨大な翼を広げ、洞窟の天井を睨み据えた。その黄金の瞳が、物理的な距離を超えた「意思」を放つ。
「案ずるな。他の三柱の竜――碧竜、白竜、地竜にも、私の念話(テレパシー)で事の次第を伝えておく。女神が何を企もうとも、我ら四竜はそなたが試練を達成すれば、その力を貸す。お前が私の試練を突破したならば、彼らもお前に試練を受けさせるはずだ」
「……ありがとうございます。イグニール様」
瞬は、折れかけていた心を繋ぎ止め、深く息を吐き出した。 彼は、この世界に来て初めて自分の意志で一歩を踏み出した実感を抱いていた。三智子を殺して救うのではない。彼女を縛り付けるあの醜悪な鎖――邪神の装備をすべて叩き壊し、彼女自身の心を取り戻す。
「見ててくれ、三智子。俺、今度こそ……本物の強さを手に入れてみせるから」
少年の瞳には、かつてのような迷いはなかった。激しい修行を前にして、彼の精神は鋼のように研ぎ澄まされ、気合を込めてその拳を強く握り締めた。
場面は変わり、ヴィルガスト界の最果て、邪神が統べる暗黒の神殿。 砦での殺戮と、三池瞬との「再会」を終えたルシーズは、今、自分の与えられた私室へと戻っていた。
神殿の廊下を歩くたび、彼女の脚を縛る「嘆きの足アーマー」が、石畳にカツン、カツンと硬い音を響かせる。彼女を包む空気は、冷たく、どこまでも孤独な闇に満ちていた。
ルシーズの自室。そこには、一般的な少女が好むような装飾品も、柔らかなベッドも、姿見の鏡さえない。 ただ、部屋の中央に、黒い石を削り出して作られた無機質な「椅子」が一つ、鎮座しているだけだった。
ルシーズはその椅子に、深く腰を下ろした。
「……はぁ……」
小さな吐息が漏れる。 彼女が纏う「邪神の装備」は、一度装着されれば、死ぬまで外れることはない。肌を締め付ける「捕われの胸アーマー」も、腕を拘束するように包む「裏切りのこて」も、彼女の肉体の一部として完全に同化している。
彼女は、自分の掌を見つめた。返り血を浴びた手は、一見すれば汚れているはずだった。 だが、ルシーズは水で身体を洗うことはない。 彼女は目を閉じ、全身に魔力を循環させ始めた。
「――『浄化)』」
彼女の呟きと共に、装備の隙間から淡い紫色の光が漏れ出す。 邪神から与えられた強大な魔力を、自らの身体と装備を正常に保つために行使する。魔力の波動が、皮膚に付着した汚れや戦場の垢を分子レベルで消し去り、彼女の白い肌は不自然なほど清潔に、瑞々しく浄化された。
これが、着替えることも入浴することも許されない、闇の戦士に与えられた唯一の「衛生」であった。
魔力の循環を終えたルシーズは、微動だにせず椅子に座り続けた。 彼女には「睡眠」という概念も失われていた。 頭部を覆う**「忘却の兜」**。その額で妖しく光るエメラルドの宝玉が、絶えず彼女の脳内に微弱な魔力を流し込み、精神を覚醒状態に固定しているからだ。
(……瞬ちゃん。あは、あんなにボロボロになって……)
暗闇の中で、彼女の思考は再び三池瞬へと向かう。 兜が与える精神抑制は、彼女の「悲しみ」や「迷い」を徹底的に排除し、代わりに「歪んだ愛情」と「憎悪」を増幅させていた。彼女にとって、眠る必要のない長い夜は、復讐の計画を練り、瞬をいかに苦しめるかを夢想するための至福の時間だった。
やがて魔力の回復を終えたルシーズは、無感情に椅子から立ち上がった。 彼女は自分の身体を点検するように、しなやかな腰を捻り、「捕われの腰アーマー」の具合を確かめる。異常はない。肉体は、いつになく活性化していた。
彼女は部屋を出て、邪神が待つ謁見の間へと向かった。 巨大な扉が開かれ、深淵の闇を体現したような邪神の影が、玉座から彼女を見下ろす。
「戻ったか、ルシーズよ。今回の侵攻について、報告を聞こう」
邪神の低く響く声に対し、ルシーズは片膝をつき、完璧な忠誠の礼を示した。そして、
「はい、我が主様。今回も人間たちは、一人残らず私の『暗黒の剣』の錆にしました。人間界への侵略の足掛かりは、完全に整っております」
彼女は、まるで洗脳前の三智子のように、学校での出来事を報告するかのように、明るく、快活に答えた。
「それに……主様! 今日は、とっても嬉しい報告があるんです!」
ルシーズは、頬を上気させ、満面の笑みを邪神に向けた。 その瞳の緑色は、純粋な狂気に彩られ、キラキラと輝いている。
「やっと会えたんです。……三池瞬に。……私の、大好きな、大好きな、復讐の相手に!」
邪神はその報告を聞き、満足げに暗い哄笑を上げた。 ルシーズは、まるで最愛の恋人と再会したかのような幸福感に浸りながら、瞬をいかにしてなぶり、絶望させたかを語り始めようとしていた。
本当の記憶を封じ込められた少女・ルシーズ。 彼女の語る「再会の喜び」は、瞬が抱いた「救済の決意」を無惨に踏みにじる、狂った愛憎の物語であった。