暗黒の神殿の最奥。そこには光を拒絶し、虚無さえも飲み込むような濃密な闇が凝固していた。 邪神の謁見の間は、柱の一つひとつが苦悶する魂を模した彫刻で覆われ、天井からは常に名もなき亡者たちの啜り泣きに似た風の音が降り注いでいる。その中央、巨大な影として鎮座する邪神の前に、一人の少女が膝をついていた。
漆黒の「捕われの胸アーマー」から覗く白い肌は、神殿の妖しい燐光を反射して青白く輝いている。彼女を縛り付ける「裏切りのこて」と「嘆きの足アーマー」が、わずかに身じろぎするたびに金属的な軋み声を上げ、この静寂の中に不吉な旋律を奏でていた。
「ほう、やっと会えたか・・・。どうだった?愛しの「勇者様」は?」
邪神の、地の底から響くような声が空間を揺らす。ルシーズは、憎悪に濁った緑の瞳を輝かせ、まるで最愛の人に出会えたように純粋に、しかし狂った笑みを浮かべて顔を上げた。
「はい、我が主様! 報告申し上げます。三池瞬……あの男は、あまりにも期待外れでした。私が受けた絶望、私が味わったあの熱い刃の痛み。それらを何万倍にもして返してあげようと意気込んでいたのですが……あまりにも、あまりにも弱すぎました」
ルシーズは、可笑しくて堪らないといった様子で肩を震わせた。彼女の脳内では、「瞬に惨殺された」という偽りの記憶が、彼女を突き動かす絶対的な燃料となっている。
「私が放った一撃だけで、あいつの鎧は粉々に砕け散り、地面を這いずり回ることしかできなかったのです。その姿はまるで、踏み潰されるのを待つだけの虫けらそのものでした。あはは! 主様、あいつ、あんなに情けない姿で私に命乞いをするような目を向けてきたんですよ? 殺す価値さえ感じられないほどに、滑稽で、惨めな姿でしたわ」
その報告を聞き、邪神は満足げに暗い哄笑を上げた。その振動が神殿の壁を伝い、重々しく響き渡る。
「くくく……はははは! さすがは女神ウンディーネが選んだ『勇者様』よ。見る目がないにも程がある。あの女、よほど人選に困っていたと見える。そのような脆弱な人間を勇者に据えるとは、この世界を我が手におさめる日も近いな」
「本当に、おっしゃる通りですわ」
ルシーズは邪神の言葉に深く同意するように首を垂れた。
「女神の力など、主様の足元にも及びません。あのような軟弱な男を『勇者』と呼ぶことさえ、この世界の全ての戦士への侮辱に他なりませんわ」
しかし、ルシーズの表情は急激に曇り、その瞳に宿る緑色の光が憎悪によって激しく波打った。彼女は拳を握り締め、自分を辱めた男への、別の意味での怒りを爆発させる。
「ですが主様、一つだけ許せないことがございます。あの男……あいつは、最期まで見苦しい嘘を吐き続けたのです!」
「ほう、何と言った?」
「あいつは……主様が私を洗脳しているだの、主様が私に嘘をついているだの、根も葉もないでたらめばかりを並べ立てたのです! 私をこの地獄から救い出したのは主様であり、私に新しい命をくれたのも主様なのに……。さらには、自分は私を殺してなどいない、ずっと探していたんだと……。あんなに笑いながら私を斬り殺した、あの時の熱い感触まで覚えているというのに、白々しくも記憶にないと言い張ったのです!」
ルシーズの呼吸が荒くなる。彼女にとって、邪神から与えられた「偽りの記憶」こそが自分のアイデンティティであり、それを否定する瞬の言葉は、自分の存在そのものへの攻撃に感じられたのだ。
「私を殺したことも、私を弄んだこともなかったことにしようとする、あの汚らわしい欺瞞……! 私は、あの男の魂が絶望で真っ黒に染まるまで、決して許しません。次に会う時は、あの舌を引き抜き、二度と嘘を吐けないようにして差し上げますわ」
邪神はその様子を、玉座の陰から冷徹に見守っていた。 内心では、自らが施した洗脳の完璧さに深い満足を覚えていた。中島三智子という少女の優しさを逆手に取り、最も深い愛情を、最も純度の高い憎悪へと反転させる。これこそが邪神の愉悦であり、勇者を打ち倒すための最高の手駒の作り方であった。
「……よかろう。ルシーズよ、その憎悪を絶やすな。お前の怒りこそが、我が軍勢の矛となる。……下がって休むが良い。次の侵攻に備え、力を整えておくのだ」
「はっ……。ありがたき幸せにございます、我が主様」
ルシーズは再び深く礼をし、流れるような動作で謁見の間を後にした。
暗く、ひび割れた石造りの廊下を歩き、彼女は自らの部屋へと戻った。 扉が閉まり、静寂が彼女を包み込む。 部屋には、何もない。 ベッドも、テーブルも、生活を感じさせるものは一切ない。 ただ、部屋の中央に置かれた一脚の、硬い石の椅子があるだけだ。
ルシーズは、慣れた動作でその椅子に腰を下ろした。 カツン、と「嘆きの足アーマー」の踵が音を立てる。 彼女は眠ることができない。 頭部を覆う「忘却の兜」が、彼女の脳細胞を休ませることを許さず、常に憎悪と偽りの記憶を維持させているからだ。 疲労は、循環される魔力によって癒される。彼女は目を閉じ、全身に流れる邪悪なエネルギーを感じながら、先ほどの瞬との戦いを反芻し始めた。
(……思い出しただけで虫唾が走るわ。あの、情けない顔。あいつの必死な目……)
ルシーズは、不快そうに唇を噛んだ。 本来なら、あのまま殺してしまえばよかった。主様の言う通り、あんな弱い男に構っている時間は無駄なはずだ。 だが。 彼女の思考の片隅に、邪神の魔力さえも完全に消し去ることができない「異物」のような感情が、一粒の砂のように残っていた。
(……あいつ、どうしてあんなに……)
彼女の意識が、戦闘中のある光景に焦点を合わせる。 瞬は、自分に殴られ、吹き飛ばされ、鎧を砕かれながらも、一度として剣をこちらに振るってこなかった。 それどころか、彼はその場に崩れ落ちる間際まで、必死に自分に呼びかけ続けていた。
「あは、本当にお馬鹿さん……。あんな無防備な隙だらけの姿で……」
ルシーズは冷笑しようとした。 だが、その笑みはどこか引き攣り、言葉にならなかった。 脳内にある「冷酷な三池瞬」と、目の前でボロボロになりながら自分を救いたいと訴え続けていた「三池瞬」の像が、ほんの一瞬だけ重なり、歪みを生じさせる。
洗脳によって「憎悪」に塗り替えられたはずの心。 だが、その最下層に沈められた「三智子」の魂が、主人の知らないところで微かに震えていた。
「……でも、瞬ちゃん、必死だったな……」
暗い、何もない部屋。 一人きりの静寂の中で、ルシーズは自分でも気づかないほど小さな、消え入りそうな声でそう呟いた。 その言葉は、誰に届くこともなく、冷たい石壁に吸い込まれて消えた。
「……私は、なにを……」
なぜそのような言葉が出たのか、自分でも理解できない様子の彼女は、再び感情を氷のように凍りつかせると、次の殺戮の瞬間に向けて、ただ静かに、魔力を研ぎ澄ませていった。
絶望は終わらない。 愛が深ければ深いほど、それが反転した時の闇は深く、底知れない。 二人は、残酷な再会へと向かって、着実に時計の針を進めていた。