本来、漫画版では エルレイス が担っていた役割です。
ヴィルガスト界の大地が、かつてない絶望に塗り潰されてから一年の月日が流れた。
かつて「中島三智子」と呼ばれた少女は、今や邪神の尖兵「ルシーズ」として大陸全土を震え上がらせていた。
彼女の歩む道には常に鮮血の花が咲き乱れ、彼女の背後には焼き尽くされた文明の灰が降り積もる。
この一年、ルシーズは一度として戦場を離れることはなかった。
彼女は大陸最大規模を誇る聖騎士の国「グランゼリア王国」への侵攻軍を率い、その圧倒的な武力をもって、数多の堅牢な城塞を紙細工のように粉砕してきた。
そして今、彼女の眼下には、王国の最後の砦である王都「ルミナス」が、紅蓮の炎に包まれながら崩壊の時を待っていた。
「――無駄よ。すべてを焼き尽くし、無に帰しなさい」
王都の正門前。崩れ落ちた石壁の上に立ち、ルシーズは冷酷に言い放った。 「暗黒の剣」から放たれる紫色の雷光が、彼女の漆黒の装備――「捕われの胸アーマー」や「捕われの腰アーマー」を禍々しく照らし出す。
その姿は、戦場に降り立った死神そのものであった。
彼女は常に軍の先頭に立ち、自ら剣を振るう。 王国の聖騎士たちが決死の覚悟で放つ神聖魔法も、彼女が纏う邪神の加護の前で霧散する。
ルシーズが跳躍し、剣を横一文字に薙ぐたびに、鎧を纏った兵士たちが紙切れのように切り裂かれ四散していく。
彼女の瞳は濁った緑色のまま、一切の慈悲を排し、ただ機械的に「敵」を排除し続ける。
王都の中央広場まで侵攻が進んだその日の夕刻。
燃え盛る民家を背景に、邪神軍の野営陣地にて軍議が行われていた。
ルシーズの前に、配下の高位魔族の一人が進み出る。その魔族は、山羊のような角を持ち、口元からは常に不快な粘液を滴らせている「屍竜将ザルガス」であった。
「ルシーズ様、名案がございます。この王都の最深部、王城の結界は想定以上に強固。これを正面から破るには少々時間がかかります。……そこで、これまでに捕らえた街の女子供、そして下級の貴族共を城門の前に並べ、生きた盾として進軍しましょう」
ザルガスは、ひび割れた声で卑屈に笑いながら続けた。
「誇り高い王族共のことだ。同胞が目の前でなぶり殺しにされるのを見れば、必ずや結界を解いて打って出てくるはず。そこを我らで一網打尽に……。これこそが、最も効率的かつ愉悦に満ちた『蹂躙』かと」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、周囲の空気が凍りついた。 ルシーズがゆっくりと顔を上げ、ザルガスを射抜くような視線で見据えたからだ。彼女の纏う魔力が激しく波打ち、周囲の地面に亀裂が入る。
「……却下よ。その汚らわしい口を閉じなさい」
「な……。しかし、ルシーズ様、これは確実に勝利を掴むための……」
「二度は言わないわ」
ルシーズは「暗黒の剣」の柄に手をかけた。その動作一つで、周囲にいた中位魔族たちが恐怖に震え、後ずさる。
「人間は一人残らず殺す。それは邪神様との契約であり、私の望みでもある。だが……人質だの、生きた盾だの、そんな姑息で卑怯な真似は断じて許さない。私の戦場を、あなたの腐った思考で汚さないで。……次、その言葉を口にしたら、敵よりも先にあなたの首を、その胴体から引きちぎってあげる」
ルシーズの放つ殺気は、高位魔族であるザルガスですら身の危険を感じるほどに鋭かった。 「ち……っ、失礼いたしました……」 ザルガスは顔を引きつらせ、逃げるようにその場を去っていった。
軍議が解散した後、ルシーズは一人、夜の陣地を歩いていた。 その途中、物陰から先ほどの魔族たちの密談が漏れ聞こえてきた。
「……ケッ、何が『戦場を汚すな』だ。偉そうに。所詮は元人間か。根っこの部分に、甘っちょろい同族意識が残っていやがるんだ」
ザルガスの不満げな声だった。
「邪神様に少しばかり力を与えられたからと、調子に乗って……。あんな『操り人形』、いつか足元を掬ってやる。人間特有のプライドなんぞを戦場に持ち込むなど、魔族としては三流以下だ」
それを聞いたルシーズは、歩みを止めることも、怒りを露わにすることもなかった。 彼女はただ、感情の消えた瞳で夜空を見上げ、独りごちた。
「……魔物は、しょせん魔物ね。死にゆく者の尊厳すら理解できない、ただの獣」
彼女はそのまま、自分に与えられた専用の天幕――あるいは、移動用の自室へと向かった。
彼女の自室。 そこには、一般的な少女が好むような装飾品も、柔らかなベッドも、姿見の鏡さえない。 ただ、部屋の中央に、黒い石を削り出して作られた無機質な「椅子」が一つ、鎮座しているだけだった。
ルシーズはその椅子に、深く腰を下ろした。 カツン、と「嘆きの足アーマー」の踵が音を立てる。
彼女が纏う「邪神の装備」は、一度装着されれば、死ぬまで外れることはない。 肌を締め付ける「捕われの胸アーマー」も、腕を拘束するように包む「裏切りのこて」も、彼女の肉体の一部のように固定されている。
彼女は椅子に座ったまま、自分の掌を見つめた。
戦場で浴びた返り血は、魔力による「浄化」によって分子レベルで消し去られている。
彼女の白い肌は常に不自然なほど清潔に保たれているが、それがかえって彼女の非人間性を際立たせていた。
ルシーズには「睡眠」という概念も失われていた。
頭部を覆う「忘却の兜」。その額で妖しく光るエメラルドの宝玉が、絶えず彼女の脳内に魔力を流し込み、精神を覚醒状態に固定している。
脳が休まることを許されず、意識を強制されているのだ。
彼女は目を閉じ、椅子に身を委ねた。 眠ることのない長い夜。彼女が考えることは、常に一つだけだった。
(……三池瞬。あの日、私を殺した男)
兜の魔力が、彼女の脳細胞を刺激し、偽りの記憶を再生させる。 瞬が自分を蔑み、高笑いしながら剣を突き立てる光景。それを思い出すたびに、彼女の胸の奥でどす黒い憎悪が渦巻き、それが彼女を動かす唯一のエネルギーとなっていた。
(あんなに弱くて、情けなかったあいつ。……今頃、どこで怯えているのかしら。それとも、私の知らないところで野垂れ死んだ? ……いいえ、それだけは許さない。あいつは、私のこの手で、もっと残酷な絶望を与えてから殺してあげなきゃいけないんだから……)
彼女は、自分を「ルシーズ」として繋ぎ止めている憎悪を確認するように、何度も瞬への復讐を誓う。
しかし。 兜による強固な精神拘束の隙間から、ルシーズ自身さえも気づかない「中島三智子」の魂の欠片が、音もなく零れ落ちる。
(……ねえ、瞬ちゃん。……苦しいよ)
一年前の再会。瞬が必死に自分に呼びかけ、一度も剣を向けなかったあの姿。 魔力が「嘘だ」と叫ぶ一方で、彼女の心の深淵に沈んだ本能が、あの時の瞬の瞳に宿っていた真実を感じ取っていた。 孤独。暗闇。眠れない夜。 誰も自分を「三智子」と呼ばない世界で、彼女は無意識のうちに、最も憎んでいるはずの相手に手を伸ばしていた。
(……助けて……。早く、私を……)
ルシーズは、自分でも驚くほど小さな、消え入りそうな声で呟いた。 その呟きは、彼女を支配する邪神への忠誠でもなく、勇者への憎悪でもない、ただの寂しい一人の少女としての、魂の漏れ出た声だった。
彼女はそのまま、再び感情を氷のように凍りつかせると、明けぬ夜の闇の中で、ただ静かに次の殺戮の刻を待ち続けるのだった。