ヴィルガスト最大の版図を誇るグランゼリア王国の王都「ルミナス」は、今やこの世の終わりを体現したような地獄絵図と化していた。
空は噴煙に覆われてどす黒く濁り、かつて壮麗を極めた白亜の街並みは、邪神軍が放つ魔火によって赤黒く焼け爛れている。
だが、王都の中枢を護る聖騎士団の抵抗は、邪神軍の予想を遥かに超えて強靭であった。
「退くな! ここが我ら人類最後の砦だ!」 騎士団長の声が響き渡る。
彼らは神聖結界を展開し、押し寄せる魔物の軍勢を瀬戸際で食い止めていた。
数で勝る魔物たちも、聖騎士たちの決死の団結力の前に、一歩も城門へ近づくことができない。
戦況は膠着していた。 そして、その膠着は略奪と破壊を本能とする魔物たちの苛立ちを、限界まで引き上げていた。
王都の北区、まだ火の手が回っていない住宅街の一角。
そこには、ルシーズの直属の部下でありながら、彼女の「騎士道精神」にも似た潔癖さを疎ましく思っていた高位魔族、屍竜将ザルガスとその配下たちが集まっていた。
「……いつまであの『人形』ご機嫌取りのために従わねばならんのだ」
ザルガスは、ひび割れた声で吐き捨てる。
彼の足元には、恐怖に震え、泣き叫ぶことさえ忘れた十数人の子供たちが転がされていた。
「ルシーズは手ぬるい。人間の血がそうさせるのか、正面突破にばかり拘りおって。
我ら魔族の戦いとは、絶望を与え、心を砕くことにある。……者ども、そのガキ共を引きずり出せ。王城の正面、奴らの神聖結界の目の前で、一人ずつゆっくりと肉を削いでやるのだ」
「くくく……。あの方に知れたら面倒ですが、勝てばよいのですからな」 配下の魔物たちが、禍々しい爪を子供たちの細い首筋に這わせる。 子供たちは小さな身体を震わせ、声にならない悲鳴を上げていた。彼らにとって、目の前の化け物たちは死そのものであった。
「いいか。騎士どもに見せつけるのだ。自分たちの誇りが、この無力な命一つ救えないという現実をな。……さあ、連れて行け!」
魔物たちが子供たちの髪を掴み、乱暴に引きずり始めた、その時だった。
「――何をしているのかしら、あなたたちは」
凍りつくような冷気が、その場を支配した。
カツン、カツン、と石畳を叩く金属音。 漆黒の鎧を月の光に湿らせ、ルシーズが路地の影から姿を現した。彼女の背後には紫色の魔力が炎のように揺らめき、その手には抜身の「暗黒の剣」が握られている。
「ル、ルシーズ様……!?」 ザルガスは一瞬だけ狼狽を見せたが、すぐに醜悪な顔を歪めて嘲笑を浮かべた。
「これはこれは。戦線のお掃除はもうお済みで? 我々は、膠着した戦況を打破するための『有効な策』を実行しようとしているところです」
「その子供たちは何? ……私の軍に、卑怯者は必要ないと言ったはずよ。憎き勇者のような真似はやめなさい」
ルシーズの瞳――「忘却の兜」から覗く緑色の光が、鋭く細められる。彼女から放たれる殺気は、周囲の建物の壁に亀裂を入れるほどに濃密だった。
「ふん。お前が手ぬるいから、我々がお前の代わりに動いてやっているのだ! 邪神様がお望みなのは勝利のみ。人間の騎士道ごっこに付き合っている暇はないのだよ、操り人形の小娘が!」
ザルガスが咆哮し、魔物たちが一斉にルシーズを威嚇する。
だが、ルシーズは動じない。彼女はただ、一歩、また一歩と子供たちの前へと歩みを進める。
「離しなさい。その子たちは私が預かる。
あなたたちのような雑魚が、勝手に扱うことは許さない」
「何を……! ならば力ずくで――」
ザルガスが爪を振り上げた、その瞬間だった。
『……ルシーズよ』
王都の全域、いや、ルシーズの脳内に直接、地響きのような声が轟いた。 邪神の、底知れぬ悪意に満ちた声である。
『お前の憎しみは……そんなものか。
自分を殺し、弄んだ勇者への復讐。
その子供らもまた、お前を裏切った三池瞬と同じ人間。情けは不要。
ザルガスの言う通り、その命を使い、騎士どもの心を砕け。
……さあ、私に示せ。お前の魂が、完全に我が闇に染まっていることを』
「忘却の兜」に嵌め込まれたエメラルドの宝玉が、かつてないほど激しく明滅する。 ルシーズの脳内に、激しい頭痛が走る。
(殺せ……壊せ……絶望させろ……) 邪神の支配力が、彼女の精神を内側から食い荒らすように強まる。彼女の頬に汗が伝い、歯を食いしばる音が静寂に響く。
だが、ルシーズはその苦痛に顔を歪めながらも、ザルガスの前に立ちはだかり、彼がつかんでいた子供を強引に引き離した。
「……いいえ、我が主様。それは、私の美学に反します」
彼女の声は、低く、しかし断固とした響きを持っていた。 彼女は子供たちを自分の背後に突き放すと、邪神の声が響く空を見上げた。
「騎士団は、私がこの手ですべて殺します。一人残らず、跡形もなく。
……だから、この子供たちは私が預かります。人質などというあの勇者のような卑怯な手段に頼らずとも、私一人の力で、あの城を血の海に変えてみせる。……主様、それで文句はないはずですよね?」
彼女の全身から、これまでとは比較にならないほどの莫大な魔力が噴き出した。 漆黒の魔力は天を衝くほどの奔流となって彼女を包み込む。 その圧倒的な力――それは、「勇者のような卑怯な手段」を行うことへの憎悪だけではない、何か別の強い意志が混ざり合ったゆえの暴走に近い高まりだった。
「さあ、どきなさい。……城門を破るのは私よ。邪魔をするなら、お前たちごと切り刻んであげるわ」
ルシーズは振り返ることもなく、一人で王城へと向かって歩き出した。 その歩みは速く、重い。 背後に残された子供たちは、自分たちを「預かる」と言ったその少女が、助けてくれたのか、それとももっと恐ろしい運命へと誘っているのか、判断できぬまま元の牢屋へ連れていかれた。
王都の惨状を、次元の狭間から見守っていた邪神は、暗い哄笑を止めた。 ルシーズが放った魔力の高まりは、確かに彼にとって望ましいものだった。彼女は「勇者」を倒すための最強の矛として、確実に完成へと近づいている。
だが。
「……フン、面白い。力を増せば増すほど、その本質が尖っていくということか。……だが、ルシーズよ。お前のその拒絶……それは本当に『勇者のような卑怯な行為への憎悪』だけか? それとも……」
邪神は、ルシーズの精神の深層を覗き込んだ。 「忘却の兜」による絶対的な洗脳。 瞬への憎悪、人間への嫌悪。 それらに塗り潰されたはずの彼女の魂の、さらに奥底。 そこには、邪神ですら容易に触れることのできない、小さな、しかし消えることのない心の揺らぎが存在していた。
「……精神面に、ゆらぎが見えるな。一年前、あの勇者と接触した時からの変質か。……まあ良い。力が上がるのであれば、少々の自我の抵抗など、憎悪で塗り潰せば済む話だ。……ゆけ、ルシーズ。お前のその手が、人間の血で汚れるほど、魂はより一層深い闇へと堕ちていくのだからな」
邪神は再び、満足げに目を閉じた。 一方、ルシーズは王城の正門前に立ち、迫りくる聖騎士たちの軍勢を、ただ一人で迎え撃とうとしていた。 彼女の心の中に、一年前、自分に必死に呼びかけた瞬の顔が、火花のようにはじけては消えた。