グランゼリア王国の誇り、白亜の王城「ルミナス・パレス」は、今や断末魔の叫びが木霊する屠殺場と化していた。
王城の深部へと続く大回廊。
そこには、王国の精鋭である「金剛騎士団」の無惨な骸が、折り重なるように転がっている。
彼らは命を賭して城門を死守しようとしたが、その覚悟を嘲笑うかのように、一人の少女――ルシーズによって蹂躙されたのである。
「捕われの胸アーマー」を鮮血に濡らし、ルシーズは無表情に剣を振るった。
「な……ぜだ……。貴様のような、人間が……なぜ……っ!」
最期の一人となった騎士団長が、血反吐を吐きながら彼女を糾弾する。
人間でありながら邪神の尖兵となり、同胞を無慈悲に切り裂くその姿は、彼らにとって怪物以上に冒涜的な存在に映った。
しかし、ルシーズは何も答えない。
返り血で汚れた頬を拭うことさえせず、ただ冷たく、虚ろな緑色の瞳で騎士団長を見下ろすと、流れるような動作でその首を跳ね飛ばした。
無言の殺戮。そこには怒りも愉悦もなく、ただ「排除」という目的だけが遂行されていた。
その光景を後方で見守っていた邪神軍の魔物たちは、あまりの凄惨さに言葉を失っていた。
先ほどまで彼女を「操り人形」と侮っていた屍竜将ザルガスも、今はその全身をガタガタと震わせている。
「……あ、あり得ん。これほどまでの、圧倒的な力……。我ら魔族の魔力をも超越している……」
ザルガスは這いつくばるようにしてルシーズの元へ近づき、その「嘆きの足アーマー」が踏み締める石畳に額を擦り付けた。
「ル、ルシーズ様……! 先ほどまでの非礼、何卒お許しを! 貴方様の強さ、このザルガス……完全に見誤っておりました! 王城の攻略、これにて完了でございます! あとは……」
ルシーズは、足元で平伏する高位魔族を視界に入れることさえしなかった。彼女はただ、返り血で濡れた「暗黒の剣」を鞘に収めると、重厚な玉座の間の扉へと視線を向けた。
「……どきなさい。私の邪魔をしないで」
その一言に込められた密度のある魔力に、ザルガスは息を詰まらせ、弾かれたように道を空けた。
もはや彼女に意見できる者など、この軍勢には一人もいなかった。
彼女が一人で玉座の間への大扉に手をかけた、その瞬間だった。
『……そうだ、ルシーズ。もっと憎め。もっと呪え』
脳内に、邪神の低く悍ましい声が直接響き渡る。
それと同時に、次元の割れ目からどろりとした漆黒の魔力の奔流が溢れ出し、彼女の肉体へと強引に流し込まれた。
「くっ……あ、あああああああッ!」
ルシーズは頭を抱え、その場に膝をついた。
頭部を覆う「忘却の兜」に嵌め込まれたエメラルドの宝玉が、これまでとは比較にならないほどの激しい光を放ち、脈動する。
邪神から注ぎ込まれた魔力は、彼女の精神の防壁を無理やりこじ開け、その深層にある「憎悪」の種火に油を注いだ。
瞬への憎しみ。 裏切られたことへの絶望。 魔物たちの醜悪さへの嫌悪。
すべての感情がドス黒い炎となって彼女を焼き尽くし、彼女の瞳はもはや意志を持つ者のそれではなく、すべてを滅ぼすための破壊兵器のそれへと変質していく。
「……そうよ。……人間も、魔物も……すべてが、私の敵……。殺して、壊して……何もかも消えてしまえばいい……」
立ち上がったルシーズの周囲では、溢れ出した魔力が黒い稲妻となって走り、周囲の柱を粉々に砕いていた。
ルシーズは玉座の間の重い扉を、魔力の波動だけで吹き飛ばした。 爆風と共に入室した彼女の前に、一人の老人が立っていた。グランゼリア王国の王である。 彼は剣を抜くこともなく、ただ毅然とした態度で、玉座の前で少女を待ち構えていた。
「……来たか、邪神の操り人形よ」
王の声は、死を目前にしながらも王としての威厳を失っていなかった。彼は、返り血に汚れ、禍々しい装備に身を包んだルシーズを、悲しげな眼差しで見つめた。
「なぜ、お前のような美しく、清らかな魂を持つはずの少女が……あのような邪悪な神の手駒に成り果てているのだ。お前が纏うその鎧は、お前の魂を蝕んでいる。……目を覚ますのだ」
「……黙りなさい」
ルシーズは、低く、冷え切った声で遮った。 「捕われの腰アーマー」をしならせ、彼女は一歩ずつ王へと近づく。
「裏切ったのは……あいつの方よ。
私を、何一つ罪のない私を……あいつが……勇者が、笑いながら殺したの。私はただ、あいつが……この世界が、私に与えた絶望を返しているだけ」
「……勇者が、お前を殺しただと?」
王は驚きに目を見開いた後、静かに首を振った。
「そんなはずはない。私は伝え聞いているぞ。
異界より召喚された若き勇者、三池瞬の噂を。
彼は、自分と離れ離れになってしまった同郷の少女をを探していると……。
そして、召喚されてから一日たりとも欠かさず、必死に、狂おしいほどに彼女を探し続けていたと」
「……何を、言って……」
ルシーズの歩みが止まった。 脳裏に、強烈な割れるような頭痛が走る。 (……そんなはずはない。……瞬ちゃんは、私を……) 忘却の兜の宝玉が、王の言葉を拒絶するように激しく明滅し、彼女の神経を焼き焦がすような激痛を与える。
「彼はきっと今もお前を探している。討つためではない。
……お前という、かけがえのない者を取り戻すためにだ。
彼は今も、お前を愛しているはずだ!」
「それ以上……口を開くなああああああああッ!!」
ルシーズは絶叫した。 その声は、もはや人間の悲鳴ではなかった。 彼女は「暗黒の剣」を抜き放つと、一瞬で王の間合いを詰め、その胸を一突きに貫いた。
「……っ……、……かわい……そうな……少女よ……」
王は最期に、ルシーズの頬をなでようと手を伸ばしたが、その指先が彼女に触れる前に力尽き、玉座の前で崩れ落ちた。
静寂が戻った玉座の間。 ルシーズは、王の骸を冷たく見下ろした。 だが、その肩は激しく上下し、荒い息が漏れている。王の言葉が、邪神が植え付けた偽りの記憶と衝突し、彼女の精神を内側からズタズタに引き裂いていた。
彼女は、持ち主のいなくなった玉座に、疲れ切った様子で腰を下ろした。 「嘆きの足アーマー」を投げ出し、石の背もたれに頭を預ける。
『……くくく。見事だ、ルシーズ』
再び、邪神の声が響く。今度はその声に、隠しきれない愉悦が混じっていた。
『王の言ったことはすべて世迷い言よ。……だが、一つだけ真実がある。……勇者が今、この王都に向かっている。お前を「救う」という甘い幻想を抱きながら、女神の導きのままに、ここへとな』
ルシーズの口角が、不自然な角度で吊り上がった。
「……あは、……あはははは! 来るのね……。三池瞬が、また私を……殺しに来るのね」
彼女は狂ったように笑い始めた。 その瞳からは、一筋の涙も流れない。兜の魔力が、彼女に「悲しみ」を感じることを許さないからだ。
「いいわ……。ここで待ってる。この玉座で……あいつが来るのを。……今度こそ、あいつの絶望する顔を……見せて……もらうんだから……」
笑い声はやがて、神殿の天井へと吸い込まれ、邪神の気配は満足げに消えていった。
邪神の介入が消え、玉座の間に再び完全な静寂が訪れた。 燃え盛る王都の炎だけが、窓の外でパチパチと不吉な音を立てている。
ルシーズは、玉座に座ったまま、力なく項垂れた。 兜の宝玉は依然として不気味に輝いているが、その強制的な覚醒状態の中で、彼女の魂の最深部から、誰にも聞こえない、自分でも意識していない言葉が零れ落ちた。
「……早く、……来て……」
それは、先ほどまでの狂気とは無縁の、消え入りそうな震える声。
「……苦しい、よ……。……もう、嫌なの……。……誰でもいいから……私を……。……瞬ちゃん……私を……終わらせて……」
孤独な玉座に座る「黒い死神」の姿をした、ただの一人の傷ついた少女。 彼女の無意識の叫びは、救いを求めてのものなのか、それとも完全なる破滅への願望なのか。
王都を焼き尽くす炎は、今まさに近づきつつある「勇者」の到来を告げるかのように、ひときわ大きく燃え上がった。