白銀の静寂に満ちた、温かな精神世界。
三池瞬がようやく中島三智子の本当の心に触れ、彼女の震える肩を抱き寄せようとした、その刹那だった。
「――っ!?」
突如として、視界がガラス細工のように粉々に砕け散った。
温かな光は瞬時に凍てつく闇へと反転し、瞬の意識は暴力的な衝撃と共に、現実の「玉座の間」へと弾き飛ばされた。
激しい目まいに襲われながら、瞬は膝を突き、激しく咳き込んだ。
視界が平衡感覚を失い、ぐにゃりと歪む。
現実に戻った彼の目に飛び込んできたのは、粉砕された「忘却の兜」の宝玉の破片が床に散らばり、その横で力なく横たわる三智子――ルシーズの姿だった。
「三智子……! 今、助ける……」
瞬が震える手を伸ばそうとした、その時。
空を覆い尽くすほどの巨大な、そして悍ましい魔力が周囲に満ちる。
『……くはははは! 実に見事だ、勇者瞬よ!
我が魔力の核を、まさかその手で粉砕してみせるとはな!』
空間そのものが震え、大気が腐敗したような臭いを発し始める。
邪神の声だ。 一年前、三智子を奪い、世界を混沌に陥れた絶対的な悪意の根源。
『お前の愛の力か、それとも竜共の入れ知恵か……。
だが、素晴らしい。お前は今、「私の人形」を一時的に壊してみせた。
……ならば、礼をせねばなるまいな』
「……黙れ。三智子を、これ以上もてあそぶな!」
瞬は歯を食いしばり、立ち上がろうとした。
だが、邪神の言葉は止まらない。
床に転がっていた、宝玉を失い虚ろな穴が開いた「忘却の兜」が、見えない力によって宙に浮いた。
『緑のエメラルドは「忘却」と「憎悪」を司る石だった。
……だが、これはどうかな?
お前が彼女の魂を揺さぶったおかげで、彼女の「罪悪感」は最高潮に達している。……この絶望の極致にこそ、相応しい石があるのだよ』
空間の亀裂から、血のように赤い、禍々しいルビーの宝玉が現れた。
それは心臓のように不気味に脈動し、触れるものすべてを狂わせるような「狂気」の波動を放っている。
ルビーは吸い込まれるように、兜の額の空洞へと埋め込まれた。
「やめろ……。やめろぉぉぉぉッ!!」
瞬の叫びも虚しく、その兜は再び、倒れていた三智子の頭部へと強制的に装着された。
「あ、……あ、ああ……、あああああああああああああああああああああああああああッ!!!」
王城を、いや、王都全体を震わせるような、三智子の絶叫が響き渡った。 それは人間が発せられる限界を超えた、魂そのものが削り取られる悲鳴。
「忘却の兜」に埋め込まれた紅蓮のルビーが激しく明滅し、彼女の全身に張り巡らされた「捕われの胸アーマー」や「捕われの腰アーマー」を通じて、真っ赤な魔力の触手を送り込んでいく。
「三智子! 三智子ッ!!」
瞬が駆け寄ろうとしたが、三智子の全身から噴き出した血の色のオーラが、瞬を力任せに弾き飛ばした。
ゆっくりと立ち上がる三智子。
だが、その姿はもはや先ほどまでの憎悪に支配され戦う彼女の姿よりも凄惨なものだった。
兜の隙間から覗く彼女の瞳は、白目までが真っ赤に染まり、焦点はどこにも合っていない。
それだけではない。 彼女の目からは、涙のようにドロリとした鮮血が溢れ出し、頬を伝って彼女の白い肌を汚していく。
口元からも血が漏れ出し、彼女が荒い呼吸を繰り返すたびに、血の飛沫が周囲に飛び散った。
「……あ、……ぁ……、しゅん……ちゃ……」
一瞬だけ、彼女の唇が瞬の名を形作ったように見えた。
だが、その意識は次の瞬間、ルビーの魔力によって完全に断絶された。
「――アアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!」
獣のような咆哮。 三智子は「暗黒の剣」を狂ったように振り回し、地を這うような低い姿勢で瞬へと突撃した。
ガギィィィィィィィンッ!!
瞬は咄嗟に「甲竜の剣」で受け止めたが、その衝撃は先ほどまでの比ではなかった。
先ほどまでの恐ろしいほどの剣の技術は失われている。
ただの力任せな一撃。
だが、己の肉体が崩壊することさえ厭わない、剥き出しの暴力。
三智子の腕の筋肉は、過剰な魔力によって限界まで膨れ上がり、皮膚が裂けてそこからも血が滲んでいる。
「三智子、正気に戻れ! 俺だ、瞬だ! 分かるだろ!?」
「アアアアッ! コロス……! ユウシャ……コロスッ……ッ!!」
三智子は瞬の呼びかけに答えることなく、狂乱の連撃を繰り出した。
彼女の剣筋はデタラメだったが、その一振り一振りに「甲竜の装備」をも凹ませるほどの破壊力が宿っている。
瞬は防戦に回るしかなかった。
三智子を傷つけるわけにはいかない。
今の彼女は、防御を行うことへの意識が完全に失われている。
瞬の剣がわずかでも触れれば、彼女はそれを避けるどころか、自ら突き刺さりに来るほどの狂気に囚われていた。
「ハァッ、ハァッ……、ゴホッ……!」
三智子は戦いながら血を吐き、それでも止まらない。
彼女の肉体は、邪神の魔力という名の燃料で燃え上がる、壊れかけのエンジンのようだった。
動くたびに彼女の骨が軋む音が聞こえ、関節からは不自然な音が漏れる。 それは、救済を求めたはずの少女が、最も愛する人の手で「死」を与えられるまで終わらない、地獄の円舞曲だった。
その惨状を、空から見下ろす邪神の声が、再び瞬の脳裏に響き渡る。
『くっくっく……。どうだ、勇者瞬よ。
これこそが、我からのお前への最高の贈り物だ!
彼女の心は今、お前への愛と、我からのお前を殺せという命令がぶつかり合っている』
邪神の笑い声が、王城の崩落した壁に反響する。
『ルシーズはもう止まらんよ。
お前を殺すか、自らの肉体が魔力に耐えきれず弾け飛ぶまで、その剣を振り続けるだろう。
目も、耳も、心も……すべてが赤く塗り潰され、お前の声など二度と届くことはない』
瞬は、血を流しながら襲いくる三智子を必死に抑え込みながら、天を仰いで叫んだ。
「貴様ぁぁぁ……ッ!! どこまで、どこまで三智子を……ッ!!」
『さあ、選択の時だ。勇者。……このままルシーズに殺され、世界を闇に沈めるか。
それとも、その聖なる剣で、苦しむ彼女の心臓を貫いて「救って」やるか……。
どちらを選んでも、待っているのは我にとって最高の結末だ』
邪神の言葉の間にも、突撃してきた三智子の「暗黒の剣」が、瞬の脇腹部分の装甲を砕き、肉を掠める。
痛みに顔を歪める瞬の視界に映ったのは、血涙を流しながら、それでも泣いているように見える三智子の、歪んだ真っ赤な瞳だった。
『さあ、どうする? 勇者。……お前に選ばせてやる!
はやくその結末を、我に見せてみろ!!』
邪神の嘲笑が、空を支配する。
燃え盛る王城の炎の中で、瞬は絶叫する三智子の剣を食い止めながら、かつてない究極の選択を突きつけられていた。