王城の玉座の間を覆っていた、邪神の魔力は霧散した。
瞬の放った浄化の光は、三智子の肉体と魂を縛っていた邪神の呪縛をすべて光に還し、彼女を「ルシーズ」という名の悪夢から解き放った。
しかし……
崩落した天井から差し込む月光が、静まり返った広間を照らし出す。
そこには、黄金の輝きを失い、深い傷を負った「甲竜の装備」を纏う瞬と、彼の腕の中で、今にも命の火が消え入りそうな三智子の姿があった。
「……三智子。三智子! 目を開けてくれ、頼む……!」
瞬の声は震えていた。
指先を三智子の頬に添えるが、伝わってくる体温は驚くほどに低く、心臓の鼓動も弱弱しい。
先ほどまでの死闘が嘘のように、彼女の身体は小さく、頼りなげな一人の少女に戻っていた。
「あ……、……ごほっ……!」
三智子の胸が大きく波打ち、激しいせき込みと共に、その唇から鮮血が溢れ出した
。深紅の血は、瞬の腕を、そして彼女自身のボロボロになった服を汚していく。 死の淵。
彼女の肉体は、邪神が強引に注ぎ込んだ過剰な魔力と、それを浄化するために放たれた聖なる光に耐えきれず、内側から崩壊を始めていた。
「……あ……、……しゅん……、ちゃん……?」
三智子の瞼が、重々しく、震えながら持ち上がる。
そこに宿る茶色の瞳は、かつての濁った憎悪の色を完全に失っていた。焦点は定まらず、涙の膜がその瞳を覆っているが、彼女は確かに瞬を見つめていた。
「ああ、俺だ。瞬だよ。
三智子、よかった……。やっと、やっと助けることが出来た……」
「……ごめん、なさい……。私……、……ひどいこと、たくさん……。……瞬ちゃんの……心、……いっぱい、傷つけた……よね……」
三智子の声は、消え入りそうなほどに儚く、弱かった。
一言発するたびに、彼女の肺からは血が混じった苦しげな咳が漏れる。
だが、彼女は痛みを堪えるように眉を寄せ、必死に言葉を紡ごうとする。
「……邪神、の……、声が……。ずっと、私の頭の中に……。
瞬ちゃんが、私を見捨てて……、……私を……殺したんだって……。
……真っ暗な、闇の中で……、それだけが……、……真実だと……思わされて……」
彼女の頬を、一筋の涙が伝い落ちる。
「ルシーズ」としての憎悪、絶望。
それは邪神が植え付けた偽りの記憶だった。しかし、その嘘を信じ込み、愛する瞬に剣を向けたという事実は、今の彼女にとって何よりも鋭い刃となって彼女自身の心を切り裂いていた。
「……でも、……瞬ちゃんの……声が……聞こえたの。……ずっと、……呼んでくれていた……。……私の名前を……、……三智子って……」
「三智子……もういい、何も言わなくていいんだ。全部終わったんだよ。あの鎧も、あの邪悪な神の呪いも、全部俺が壊した。だから……」
瞬は彼女を抱きしめる腕に力を込めた。
彼女がどこか遠くへ消えてしまわないように。
「一緒に帰ろう。俺たちの場所に。
三智子のお父さんも、お母さんも待っている。
あの日、学校の帰り道に戻ろう。俺が、ずっとそばにいるから。
今度こそ、絶対に離さないから!」
瞬の必死の訴えに、三智子は一瞬だけ、幸せな夢を見ているかのような、淡く、儚い微笑みを浮かべた。
しかし、その笑顔はすぐに、耐え難いほどの悲しみと寂しさに上書きされてしまう。
「……家に……、帰る……。……うん、……帰りたいな……。……家族と、友達みんなと……、……家で……、放課後の教室で……、笑い合いたい……」
三智子は、血の気の引いた青白い自分の手を、震えながら見つめた。
邪神の装備が消えても、彼女の手には、そして彼女の記憶には、ルシーズとして奪ってきた無数の命の感触が、こびりついて離れない。
「……でも、……ダメなの。……瞬ちゃん。……見て、……私の……この手……」
彼女の視界には、無辜の民を切り捨てた時の剣の重みが、騎士たちの絶叫が、そして自分が破壊した街の情景が、鮮明な映像として焼き付いていた。
「……ルシーズだった時の……記憶が……、……全て……覚えてる……。
……私が、……この手で……、……どれだけの人の……幸せを……奪ったか……。
……どれだけの……命を、……消してしまったか……。
……全部、……私が……やったこと……なんだよ……」
「それは違う! あれは三智子じゃない、操られていたんだ!」
「……いいえ、……瞬ちゃん。……操られていたとしても……、……私の身体が……、私のこの手が……、………それを……選んでしまった……。
……こんなに……汚れちゃった身体で……、……お父さんや……お母さんに……、……抱きしめてもらう……資格なんて……、……もう……私には……ないの……」
三智子の声は、深い絶望に満ちていた。
彼女の心は、ルシーズとしての罪を「他人のせい」にすることを許さなかった。
共に日本へ帰る。
その甘美な誘惑に身を委ねるには、彼女の背負った業はあまりにも重すぎたのだ。
「……一緒に……、……行けないよ……。……瞬ちゃんは……、……真っ直ぐな、……光の中に……いなきゃ……ダメだもん……」
「三智子……! 何を言ってるんだ! 頼む、そんな悲しいこと言わないでくれ……!」
「……あ、……っ……」
突如、三智子の瞳が大きく見開かれた。
彼女の瞳から光が失われ、その視線が瞬の顔から外れ、空を彷徨い始める。
「……瞬……、ちゃん……? ……どこ……? ……急に……、……真っ暗に……なっちゃった……」
「三智子!? 俺はここだ! ここにいるよ!」
瞬は彼女の手を強く握りしめた。
だが、三智子はその温もりさえ感じ取れていないようだった。
「……暗いよ……。……何も……、見えないよ……。
……瞬ちゃん……? ……お願い、……返事をして……。
……私を……、……一人にしないで……。
……一人は……、……もう……嫌だよっ……」
死の訪れが、彼女の感覚を一つずつ奪っていく。
視覚を失い、恐怖に震える三智子の姿に、瞬の心は千々に乱れた。
勇者としての世界を救う力など、今の彼には一欠片の価値もなかった。
「三智子、ここだ! 手を握っているよ!
俺が、ずっとここにいる! 三智子ぉ!」
瞬の声は、もはや叫びに近かった。
その声に導かれるように、三智子は最期の力を振り絞り、瞬の気配がある方へと顔を向けた。
彼女は震える手で瞬の顔を、手探りで探し当てる。
頬に触れたその指先は、悲しいほどに冷たい。
三智子は、目が見えない暗闇の中で、愛おしそうに瞬の輪郭をなぞった。
「……あ、……いた……。……瞬、ちゃん……」
彼女は、自分を必死に呼ぶ瞬に、今までで最も美しい、儚い笑顔を見せた。 そして、彼女は力を振り絞り、その身体を少しだけ持ち上げ、瞬の唇に……自らの唇を重ねた。
それは、優しく触れ合うような、あまりにも短く、あまりにも切ない接吻。 血の味が混じった、悲劇の接吻だった。
「……ふふ、……キス……、……しちゃった……」
唇を離した三智子は、羞恥と愛おしさが混ざり合ったような、あの頃と同じ少女の顔をしていた
。
「……私のこと、……忘れないで……。
……瞬ちゃんの中に……、……少しだけ……でいいから……私を……、……残して……おいて……」
「忘れないよ……忘れるもんか!! そんなことを言うなよっ!!」
「……大好き……、だよ……、愛してる……瞬……ちゃ……」
三智子の瞳がゆっくりと閉じ、手の力が、ふっと抜けた。
瞬の頬をなでていた指先が、力なく滑り落ち、瞬の膝の上に崩れる。
彼女の身体から、最期の力が抜けた。
それは、彼女が、この残酷な運命から解放された瞬間だった。
三智子の瞳は、もう開かない。
その唇は、二度と瞬の名を呼ぶことはない。
彼女の心臓の鼓動は停止し、その穏やかな死に顔だけが、月光に照らされる。
「……三智子?」
瞬は、信じられないというように、自分の腕の中の少女を揺らした。
先ほどまで、確かに彼女の温もりを感じていた。
先ほどまで、確かに彼女の声を聞いていた。
「……おい。……三智子。……返事をしてくれよ。
……なぁ、三智子……」
返事はない。 ただ、夜風が吹き抜け、彼女の髪を静かに揺らすだけ。
「……嘘だろ。……目を開けてくれよ!!
三智子ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!!!!!」
瞬の慟哭が、王城のすべてを、王都の夜を、そして世界そのものを切り裂いた。 それは、人間が発せられる限界を超えた、絶望の叫び。
「あああああああああああああああああああああッ!! なんでだ!! どうしてなんだよ!!
俺は、何のために戦ってきたんだ!! 誰のために強くなったんだ!!
三智子一人救えないで、何が勇者だああああああああああああッ!!」
瞬は、亡骸となった三智子を抱きしめたまま、獣のように地面に伏し、泣き叫んだ。
彼の目からは、涙が溢れ出し、彼女の胸元を汚していく。
そして、彼女を守れなかった無力な己自身を責め続けた。
月光の下、最愛の少女を抱く勇者の嘆きの叫びは、止むことはなかった……