崩壊した王城の玉座の間。
月光に照らされ、先ほどまで嘆きも消え、静寂に包まれている。
三池瞬は、事切れた中島三智子の亡骸を抱きしめたまま、その場から動けずにいた。
彼の指先は、彼女の冷たくなった頬に触れたまま、微かに震えている。
ついさっきまで、そこには確かに温もりがあった。
唇には血の味が混じった、しかし確かな愛の証明があった。
だが、今彼の腕にあるのは、どんなに名前を呼んでも二度と答えることのない、生命の鼓動が止まってしまった最愛の少女だけだった。
「……あ、……あぁ……」
瞬の喉から漏れるのは、言葉にならない掠れた呻きだけだ。
涙は止まらず、その瞳には虚無が宿っている。 彼女を救ったはずの、「甲竜の装備」が、今までよりも重く感じられた。
その時、絶望の静寂を切り裂くように、天から一筋の神々しい光が降り注いだ。
漆黒の夜空を割り、王都を包む暗雲を退けて現れたのは、眩いばかりの純白の輝きを纏った存在。 ――女神ウンディーネの分身であった。
「……勇者、瞬。哀れな子よ。
あなたの深い嘆きの叫び、天界にまで届きましたよ……」
慈愛に満ちた、鈴の音を転がすような美しい声。
女神は宙に浮いたまま、優雅に瞬へと歩み寄る。
女神は、三智子を抱きしめたまま、放心する瞬の頭を優しく撫でた。
その瞬間、瞬の全身を魔力が包み込む。
戦いで負った傷がみるみるうちに塞がり、枯渇していた魔力が無理やり充填されていく。
それは「癒し」という名の暴力的なまでの回復魔法だった。
「顔を上げなさい。あなたはよく戦いました。
この世界のために、最も大切な人を犠牲にしてまで戦ってくれているあなたの功績を、私は評価しています」
女神の言葉は、傷ついた瞬の心を癒すための甘い毒のように響いた。
「……三智子、を……」
瞬が、消え入るような声で呟く。
「ええ、分かっています。彼女のことは、私に任せておきなさい。
神の慈悲をもって、彼女の魂を清め、再び命を吹き込んであげます。
ですから、瞬……あなたは前を向きなさい」
「……蘇らせてくれる、のか……?」
「はい。私はこの世界の秩序を守る女神。
約束通り、彼女を蘇らせてあげましょう……。
あなたは、何の心配も要りません。邪神を倒すことに集中するのです」
女神の瞳は、慈愛に満ちているように見えた。
だが、今の瞬は知っている。
四竜たちが彼に告げた、女神の言葉の真実を。
女神が用意するのは、見せかけだけの、魂の無い人形……。
決して彼女が蘇るわけではない……。
瞬は、邪神の装備を破壊し、三智子の魂を浄化できたことで、彼女が邪神に捕らわれることは無いはずだ……、それだけを信じていた。
「(……っ!)」
それでも、怒りが、煮えくり返るような憎悪が、瞬の内側で爆発しそうになった。
「ふざけるな! 彼女をこんな目に遭わせたのは誰だ!?
お前たちが俺たちを巻き込んだせいで、三智子は……!」
そう叫び、女神の喉元に剣を突きつけたい衝動が彼を支配する。
だが、その瞬間、脳裏に紅蓮竜イグニールの厳かな声が響いた。
『耐えろ、瞬。
中島三智子は、我らが四竜の名にかけて何とかする。
今はまだ、奴の掌の上で踊るフリをしろ。
真実を知っていると悟られれば、彼女を取り戻す道は永遠に閉ざされる』
瞬は奥歯が砕けるほどに噛み締め、拳を握りしめた。
血が滲むほどに爪を立て、必死に激情を押し殺す。
「……ありがとう、ございます……女神様……」
絞り出した言葉は、皮肉にも女神への感謝の形をとった。
女神はその裏にある暗い炎に気づく様子もなく、満足そうに微笑えみ、三智子に触れた。
「彼女の情報を採取しておきます。大丈夫です、勇者よ。
彼女は、あなたが「望む」形で蘇らせてあげますよ……」
女神が話し終えると同時に、玉座の間の空間が不吉に歪んだ。
光を侵食するように、足元からどす黒い闇が溢れ出す。
『――くははははは! 実に、実に見事な見世物だったぞ! 勇者よ!』
玉座の間の壁面に、巨大な影が投影され、邪神の声が響き渡る。
先ほど三智子の命を弄び、その最期を嘲笑った、あの忌まわしい声。
『愛する者を、救えたと思ったか?
ルシーズが息絶えるさまをマヌケに見つめるだけのお前の姿は、最高に愉快だったぞ!
我が人形の魂を浄化したせいで、再生させることが出来なくなった苛立ちを解消させるには十分だったわ!
お前の最愛の唇の感触は、死の味がしたか?
くっくっく……最高だったぞ、実に見応えのある、最高の見世物だった!』
「……邪神……!! お前のせいで……!!」
瞬は立ち上がる。
全身の怒りに呼応して「甲竜の装備」が激しい唸りを上げる。
悲しみは今、純粋な、そして冷徹な「殺意」へと昇華されていた。
『我が憎いか?勇者よ! その憎しみこそが我が糧よ!
さあ、我を殺したいだろう? 我に復讐をするのだろう? ならば、来い! そこの何もできない軟弱な女神の下から這い出し、我が領域へと足を踏み入れるがいい!』
空間に亀裂が入り、そこから禍々しい「ゲート」が姿を現した。
そこからは、この世のものとは思えない死と混沌の魔力が吹き荒れている。
『お前の最愛の女をあのような姿にし、利用したのは我だ。
そして、お前を絶望に突き落としたのも我だ。
……次はお前もルシーズが待っている地獄へ招待してやろう。
死ぬ覚悟ができたのなら、いつでも来るがいい!』
邪神の挑発は、瞬の理性を焼き切るのに十分だった。
しかし、彼はほんの少し安堵していた。
「再生させることが出来なくなった」
そう、邪神は言っていた。
やはり、三智子の魂の浄化は成功していたのだ。
あとは、四竜の言葉を信じるしかない。
それに、ついに来たのだ。
彼女からすべてを奪った元凶を屠るための機会が……!
瞬は、女神を一瞥もすることなく、腕の中の三智子をそっと、崩れた玉座の傍らに横たえた。
彼女の服を整え、その手を胸の上で重ねさせる。
「三智子。……待っててくれ。必ず、ケリをつけてくる」
瞬は立ち上がり、迷いのない足取りで「ゲート」へと歩みを進める。
背中に竜の翼を広げ、真っすぐに飛び立つ。
「行きます。……女神様。三智子を、お願いします」
「ええ、勇者瞬。勝利を信じています」
女神の「慈愛」を背に、瞬は漆黒の渦の中へとその身を投じた。
瞬がゲートへと消え、ゲート自体も閉じ、消滅した。
女神は、瞬が消えた後の空間をじっと見つめていた。
その表情からは、先ほどまでの「慈愛」が剥がれ落ち、代わりに冷徹な計算が透けて見える。
「……さて。勇者としての役割は果たしてもらわなければなりませんが、この娘はもう不要ですね。
もう情報も入手しました。
彼には、私が新しく創造する人形を渡せばよいでしょう」
女神は三智子の亡骸へ、その掌を向けようとした。
神の光によって、その存在そのものを霊子レベルで分解し、この世界から跡形もなく消滅させようとしていた。
だが。
「……あら?」
女神の眉が、怪訝そうに動く。
彼女が掌を向けようと三智子の亡骸の方を向くと、亡骸がまるで幻のように消えていたのだ。
「消えている……?」
女神は周囲を見渡したが、三智子の気配はどこにもない。
「……ふん、邪神め。
勇者をさらに煽るために、死体まで回収していったということですか。
趣味の悪いこと。まあ、いいでしょう。その方が、彼はより鋭い『剣』として機能する」
女神は三智子の亡骸が消えたことを大した問題とは捉えず、ただの邪神の嫌がらせだと断じた。
彼女にとって重要なのは、勇者瞬が邪神の領域へと向かい、予定通りに邪神を討伐できるかどうかだけだった。
「頑張って下さいよ。勇者瞬。
あなたが邪神を倒した暁には、愛する少女と共にこの世界を守ってもらわないといけないのですから……」
女神の分身は、微笑を浮かべながら光の粒子となって霧散し、天界へと去っていった。
静まり返った玉座の間。
三智子が横たわっていたはずの場所には、彼女が流した血の跡さえも消え去っていた。