竜の聖域――そこは、四竜の支配する聖域。
大気を満たす濃密な魔力は、陽光に透けて淡い黄金色の粒子となり、古の巨木が作る木漏れ日の下を、静かに流れている。
邪神との死闘を制した瞬の、腕の中に感じる、確かな重み。
首筋に触れる、規則正しくも力強い三智子の鼓動。
それは、いかなる神の奇跡よりも尊く、瞬にとっては唯一無二の存在だ。
瞬は、彼女を抱きしめたまま、すぐ傍らで見守る四竜たちへと視線を向けた。その瞳には、心の底からの畏敬と感謝が宿っていた。
「……イグニール様、みんな……ありがとうございます。
俺、……何て言えばいいか……。
俺一人の力じゃ、三智子を……彼女を助けることなんて、絶対にできなかった」
瞬は三智子を抱いたまま、深く、深く頭を下げた。
白銀の鎧は傷だらけだが、その内側に宿る魂は、かつてないほどに澄み渡っている。
紅蓮竜イグニールは、巨大な鼻孔から穏やかな熱気を吐き出し、黄金の瞳を細めた。
『礼には及ばぬ、瞬。我らもまた、お前の不屈の意志に救われたのだ。
……だが、再会の喜びを噛み締める時間は、そう長くはない。
……今は、その少女と語らうがいい』
瞬は頷き、腕の中の三智子を、ゆっくりと自身の正面に座らせた。
三智子は、まだ夢の続きを見ているかのように、潤んだ茶色の瞳で瞬を見つめ返している。
邪神に操られ、ルシーズとして戦場を蹂躙したあの禍々しさは、微塵も残っていない。
「……三智子」
瞬がその名前を呼ぶと、三智子の肩が微かに震えた。
彼女は、まるで瞬の存在が本物であるかを確かめるように、震える指先を伸ばし、彼の頬にそっと触れた。
「……瞬ちゃん。……私……、……私……」
三智子の声は、細い糸のように震えていた。
瞬は彼女の瞳を見つめ、静かに、しかし決意を込めて問いかけた。
「三智子、……どこまで……、……いままでのこと、覚えてる……?」
その問いに、三智子の表情が劇的に歪んだ。
安らぎの色は消え去り、そこには耐え難い苦痛と後悔の影が押し寄せた。
「……覚えてる、よ。……全部……。
……ううん、……もしかしたら、全部じゃないかもしれないけれど……」
三智子は、堰を切ったように泣き出した。
その涙は、再会の喜びではなく、自分自身が犯した――犯したと思い込んでいる――「罪」への絶望だった。
「……瞬ちゃんを、……何度も……、……殺そうとしたこと。
……あんなに、……あんなに酷いことを言ったこと。
……瞬ちゃんが、……私の名前を……何度も何度も呼んでくれていたのに……。
……それを、……嘲笑って……、……剣を……」
三智子は自分の両手を見つめ、激しく首を振った。
……邪神が……、……あの声が……。瞬ちゃんが私を捨てたって……、
……瞬ちゃんが私を殺したって……。……そう信じ込んでいたの。
……でも、……心のどこかでは……、……分かってたはずなのに……。
……私……、……憎しみでいっぱいになって……、……ごめんなさい……!」
彼女の告白は、瞬の心を抉った。
洗脳されていたとはいえ、彼女は自らの意志で瞬を傷つけたという感覚に苛まれている。
「……ごめんなさい、……瞬ちゃん。
……本当に、……本当にごめんなさい……っ!!」
三智子は地面に崩れ落ち、嗚咽を漏らした。
その姿を見て、瞬が彼女を慰めようと手を伸ばしかけた、その時だった。
(……瞬よ。聞け)
頭の中に直接、念話が届いた。
碧竜の声だ。
瞬は動きを止め、竜の声に集中した。
(……彼女の魂は、邪神によって深く蝕まれていた。
……我らは全力を尽くして浄化し、彼女の負荷となる記憶を消そうとしたが、どうしても消せなかった記憶がある。
……それが、お前を傷つけたという、彼女自身の後悔だ。
……魂の奥底に焼き付いた愛する者への思慕が、『最愛の人を傷つけた記憶』を、彼女の魂に定着させてしまったのだ)
瞬は息を呑んだ。
皮肉なことに、三智子が瞬を深く想っていたがゆえに、彼女に「瞬を傷つけた記憶」を強烈に残させてしまったというのだ。
(……だが、案ずるな。
……彼女がルシーズとして行った、数多の虐殺や破壊の記憶……。
民を手にかけ、街を焼き尽くしたという『記憶』は、我らがすべて消し去った。
……あれは、邪神が彼女に無理やり強いた悪夢に過ぎぬ。
……決して、彼女の罪ではない。)
碧竜の言葉は、冷徹なようでいて、慈悲に満ちていた。
三智子という一人の少女の魂を守るため、彼女が背負う必要のない罪の記憶を消したのである。
(瞬よ。……彼女が今、泣いているのは、……お前を想うからだ。
……それ以上の重荷は、我らが葬り去った。
……あとは、お前が彼女を救うのだ)
念話が途絶えた。
瞬は、目の前で泣きじゃくり、強く抱きつく三智子をじっと見つめた。
彼女は、邪神の戦士としてどれほどの人を殺したか、どれほどの街を滅ぼしたかを覚えていない。
覚えている必要もない。
ただ、「瞬に酷いことをした」という一点で、身を裂くような後悔に震えている。
瞬は、それでいいのだと確信した。
彼女がルシーズであった記憶など、残す必要は無い。
彼女に必要なのは、ただ、目の前にいる自分との絆だ。
「……いいんだよ。三智子。もう、いいんだ」
瞬は三智子の身体を、優しく、しかし力強く引き寄せ、抱きしめた。
彼女の涙が、瞬の首筋を濡らす。
「……良くないよ……。
……私、……瞬ちゃんに……あんなに酷い顔して……」
「いいんだ。あれは三智子じゃなかった。
……分かってるから。
三智子がどれだけ俺のことを思ってくれていたか。
……あの時、最期に……キスしてくれた時、全部伝わったよ。
……だから、謝らないで。……三智子が戻ってきてくれた。
それだけで、俺は……これまでしてきたことが、全部報われたんだ……」
瞬の言葉に、三智子の身体から微かに力が抜けた。
「……瞬ちゃん……」
二人は、誰に憚ることなく、互いの存在を確かめ合うように抱きしめ合った。
数え切れないほどの血が流れた。
数え切れないほどの絶望を味わった。
だが、そのすべては、今この瞬間のためだけにあったのだと、瞬は本気で思えた。
「……大好きだよ。……三智子。ずっと、ずっと……会いたかった」
瞬が囁くと、三智子は顔を上げ、涙に濡れた瞳で瞬を見つめた。
そこには、かつての弱々しさはなく、愛する人を二度と離さないという、強い意志が宿っていた。
「……私も。……私も、大好きだよ、……瞬ちゃん。
……もう、……どこにも行かないで……」
瞬は、彼女の濡れた頬を片手で包み、ゆっくりと顔を近づけた。
三智子も、静かに目を閉じる。 あの玉座の間での、血の味が混じった死の接吻ではない。
竜の聖域の清らかな光に祝福された、生と愛の接吻。
触れ合った唇から、互いの魂が溶け合うような熱が伝わってくる。
それは短くも、永遠を感じさせる時間だった。
「……ふむ。実に見事な光景よな」
静寂を破ったのは、地竜の低く響く声だった。
二人は慌てて唇を離し、顔を真っ赤にして離れた。
「くっくっく。
……まさか、我ら竜の目の前でこれほど熱烈な儀式を見せつけられるとは。
……若さゆえの奔放さか、あるいは人としての本能か」
白竜も、冷気を含んだ美声を響かせ、からかうように首を傾げた。
……三池瞬。……お前の剣の鋭さは知っていたが、
……その情熱もまた、相当なもののようだな」
「……あ、……いや、……これは……っ!」
瞬は頭を掻き、三智子は顔を伏せて彼の背中に隠れた。
先ほどまでの感動的な空気に加え、和やかな雰囲気が聖域を包み込む。
だが、イグニールが雰囲気を変え、一歩前へ踏み出した。
その巨大な影が瞬と三智子を覆い、場の空気が変わる。
囃し立てていた他の竜たちも、一瞬で貌から冗談を消し、峻烈な神格の威厳を取り戻した。
『――落ち着いたようだな。……三池瞬。そして中島三智子よ。
……ここからは、お前たちが真の意味で「自由」を掴み取るための、極めて重要な話をせねばならぬ』
イグニールの声は、親のような温かさを持ちながら、警告を発しようとする。
瞬は背筋を正し、三智子の手を握り締めたまま、竜の言葉を待った。
『瞬よ。……お前がこの領域、竜の聖域から一歩外へ出た瞬間……
女神ウンディーネがお前に声をかけるだろう。
……邪神を討ち取った勇者を称えるという名目で、お前は強制的に天界へと転送されるはずだ』
「女神……。……まだ、俺を離さないつもりなのか」
『当然だ。……あやつにとって、お前は「使える駒」に過ぎぬ。
……力をつけすぎたお前を、自らの監視下に置こうとするだろう。
……そして、最も危惧すべきは……この少女、中島三智子の存在だ』
イグニールは、三智子を鋭い眼光で見つめた。
『邪神の呪いから解放されたとはいえ、我らの力によって蘇った彼女は、
女神にとって「不純物」だ。
……もし、彼女が生きていることが女神に知れれば……
あやつは間違いなく、彼女を再び「浄化」の名の下に消し去ろうとするだろう。
……それが、あやつの「秩序」だ』
三智子が、瞬の腕を強く握った。
瞬は彼女を守るように前に出る。
「そんなことはさせない。……俺が、女神を……!」
『ならぬ。……今の消耗したお前が女神に正面から戦いを挑めば、
……お前だけでなく、この少女の魂も永遠に失われることになる。
……だから、瞬。……ここからは、我らの策に従え』
イグニールの声が、低く、重く響く。
『中島三智子の身は、我ら四竜が責任を持って引き受ける。
……女神の手の届かぬ、次元の狭間を通り……我らの全力を持って、
彼女を元の世界、お前たちの故郷である「日本」へと直接送り届ける。
……これは、我らにしかできぬ芸当だ』
瞬は目を見開いた。
「……三智子だけ、先に……?」
『そうだ。……そして瞬。……お前は独りで女神と対峙せねばならぬ。
……いいか、よく聞け。
お前は徹底して「三智子は死んだ」と演じ通せ。
……彼女の亡骸は邪神に消され、永遠に失われたのだと……。
……お前の慟哭と絶望を、奴に信じ込ませるのだ』
瞬の胸に、冷たい緊張が走った。
神を騙す。それは、どれだけの重さか。
『女神は、三智子を蘇らせ、共にこの世界で暮らすように、と甘い言葉をかけるだろう。
……その時、お前はこう答えるのだ。
……「もう、この世界には何の未練も無い。
自分一人でいいから、元の世界に帰してくれ」とな。
……決して、三智子のことを悟られてはならぬ。
……「一人で帰る」……。
その言葉こそが、女神の疑念を晴らす唯一の鍵となる』
「……三智子のことは、隠し通せ、ということか」
『そうだ。
……お前たちが日本で再会できるかどうかは、お前の演技にかかっている。
……三智子を先に帰し、お前が後から追いかける。
……そのためには、女神に「勇者瞬は、愛する人を失い、戦いに疲れ果て、独りで逃げ帰る愚者」と思わせねばならぬ』
三智子が、不安げに瞬を見つめた。
「……瞬ちゃん。……独りで大丈夫なの……?」
瞬は彼女の手を優しく握り返し、微笑んで見せた。
「大丈夫だよ。
……俺には、三智子が居るっていう『希望』があるんだから。
……女神を騙すくらい、なんてことないさ」
だが、瞬の内心は、かつてないほどの恐怖と怒りが渦巻いていた。
邪神を倒してもなお、まだ神との戦いが待っている。
愛する人と共に帰ることさえ、許されない。
(……待ってろよ、女神。……あんたの思い通りにはさせない。
……俺は、……俺たちの日常を、必ず取り戻す)
瞬の瞳に、静かな、しかし決して消えることのない反逆の炎が灯った。
イグニールが、満足げに鼻を鳴らした。
『――よし。……刻限は近い。
……瞬。……愚者としての仮面を被り、……愛する女を守るための「嘘」を突き通せ。
我らは、お前の背中を、この世界の果てまで見届けてやろう』
聖域の光が、一段と強まった。
それが、瞬にとっての「勇者としての戦い」の最終章の始まりであった。
「三智子。……先に帰っててくれ」
瞬は、三智子の手を強く握った。
三智子は涙を堪え、深く頷いた。
「……うん。……私、……待ってる。
……瞬ちゃんが帰ってくるまで、……ずっと、ずっと待ってるから」
「ああ。……約束だ」
イグニールたちの咆哮と共に、三智子の足元に巨大な魔法陣が展開された。
それは、竜の根源的な力の奔流。
三智子の身体が、光の粒子となって浮かび上がっていく。
「……瞬ちゃん!!」
「三智子ぉ!!」
最後に呼びかけ合い、手を離す。
三智子の姿が光の中に消え、竜の聖域から彼女の気配が完全に消滅した。 同時に、四竜たちも実体を消し、それぞれの領域で眠りにつく。
静まり返った聖域の中心で、瞬は独り立ち尽くした。
彼は、兜を深く被り、その表情を隠した。
彼の心にあるのは、三智子への愛と、それを守るための「神への欺瞞」。
「……さあ、来いよ。……女神サマ」
瞬がそう呟いた瞬間、空が裂けた。
圧倒的な、しかし不自然なほどに清浄な光が天から降り注ぎ、瞬の身体を強引に引き上げ始める。
天界への転送。
三池瞬の、最後の、そして最も孤独な戦いが、始まる。