甲竜伝説ヴィルガスト 再編   作:白豚くん

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第38話:最後の戦いへ

竜の聖域――そこは、四竜の支配する聖域。

大気を満たす濃密な魔力は、陽光に透けて淡い黄金色の粒子となり、古の巨木が作る木漏れ日の下を、静かに流れている。

邪神との死闘を制した瞬の、腕の中に感じる、確かな重み。

首筋に触れる、規則正しくも力強い三智子の鼓動。

それは、いかなる神の奇跡よりも尊く、瞬にとっては唯一無二の存在だ。

 

瞬は、彼女を抱きしめたまま、すぐ傍らで見守る四竜たちへと視線を向けた。その瞳には、心の底からの畏敬と感謝が宿っていた。

 

「……イグニール様、みんな……ありがとうございます。

俺、……何て言えばいいか……。

俺一人の力じゃ、三智子を……彼女を助けることなんて、絶対にできなかった」

 

瞬は三智子を抱いたまま、深く、深く頭を下げた。

白銀の鎧は傷だらけだが、その内側に宿る魂は、かつてないほどに澄み渡っている。

紅蓮竜イグニールは、巨大な鼻孔から穏やかな熱気を吐き出し、黄金の瞳を細めた。

 

『礼には及ばぬ、瞬。我らもまた、お前の不屈の意志に救われたのだ。

……だが、再会の喜びを噛み締める時間は、そう長くはない。

……今は、その少女と語らうがいい』

 

瞬は頷き、腕の中の三智子を、ゆっくりと自身の正面に座らせた。

三智子は、まだ夢の続きを見ているかのように、潤んだ茶色の瞳で瞬を見つめ返している。

邪神に操られ、ルシーズとして戦場を蹂躙したあの禍々しさは、微塵も残っていない。

 

「……三智子」

 

瞬がその名前を呼ぶと、三智子の肩が微かに震えた。

彼女は、まるで瞬の存在が本物であるかを確かめるように、震える指先を伸ばし、彼の頬にそっと触れた。

 

「……瞬ちゃん。……私……、……私……」

 

三智子の声は、細い糸のように震えていた。

瞬は彼女の瞳を見つめ、静かに、しかし決意を込めて問いかけた。

 

「三智子、……どこまで……、……いままでのこと、覚えてる……?」

 

その問いに、三智子の表情が劇的に歪んだ。

安らぎの色は消え去り、そこには耐え難い苦痛と後悔の影が押し寄せた。

 

「……覚えてる、よ。……全部……。

……ううん、……もしかしたら、全部じゃないかもしれないけれど……」

 

三智子は、堰を切ったように泣き出した。

その涙は、再会の喜びではなく、自分自身が犯した――犯したと思い込んでいる――「罪」への絶望だった。

 

「……瞬ちゃんを、……何度も……、……殺そうとしたこと。

……あんなに、……あんなに酷いことを言ったこと。

……瞬ちゃんが、……私の名前を……何度も何度も呼んでくれていたのに……。

……それを、……嘲笑って……、……剣を……」

 

三智子は自分の両手を見つめ、激しく首を振った。

……邪神が……、……あの声が……。瞬ちゃんが私を捨てたって……、

……瞬ちゃんが私を殺したって……。……そう信じ込んでいたの。

……でも、……心のどこかでは……、……分かってたはずなのに……。

……私……、……憎しみでいっぱいになって……、……ごめんなさい……!」

 

彼女の告白は、瞬の心を抉った。

洗脳されていたとはいえ、彼女は自らの意志で瞬を傷つけたという感覚に苛まれている。

 

「……ごめんなさい、……瞬ちゃん。

……本当に、……本当にごめんなさい……っ!!」

 

三智子は地面に崩れ落ち、嗚咽を漏らした。

 

その姿を見て、瞬が彼女を慰めようと手を伸ばしかけた、その時だった。

 

(……瞬よ。聞け)

 

頭の中に直接、念話が届いた。

碧竜の声だ。

瞬は動きを止め、竜の声に集中した。

 

(……彼女の魂は、邪神によって深く蝕まれていた。

……我らは全力を尽くして浄化し、彼女の負荷となる記憶を消そうとしたが、どうしても消せなかった記憶がある。

……それが、お前を傷つけたという、彼女自身の後悔だ。

……魂の奥底に焼き付いた愛する者への思慕が、『最愛の人を傷つけた記憶』を、彼女の魂に定着させてしまったのだ)

 

瞬は息を呑んだ。

皮肉なことに、三智子が瞬を深く想っていたがゆえに、彼女に「瞬を傷つけた記憶」を強烈に残させてしまったというのだ。

 

(……だが、案ずるな。

……彼女がルシーズとして行った、数多の虐殺や破壊の記憶……。

民を手にかけ、街を焼き尽くしたという『記憶』は、我らがすべて消し去った。

……あれは、邪神が彼女に無理やり強いた悪夢に過ぎぬ。

……決して、彼女の罪ではない。)

 

碧竜の言葉は、冷徹なようでいて、慈悲に満ちていた。

三智子という一人の少女の魂を守るため、彼女が背負う必要のない罪の記憶を消したのである。

 

(瞬よ。……彼女が今、泣いているのは、……お前を想うからだ。

……それ以上の重荷は、我らが葬り去った。

……あとは、お前が彼女を救うのだ)

 

念話が途絶えた。

瞬は、目の前で泣きじゃくり、強く抱きつく三智子をじっと見つめた。

彼女は、邪神の戦士としてどれほどの人を殺したか、どれほどの街を滅ぼしたかを覚えていない。

覚えている必要もない。

ただ、「瞬に酷いことをした」という一点で、身を裂くような後悔に震えている。

 

瞬は、それでいいのだと確信した。

彼女がルシーズであった記憶など、残す必要は無い。

彼女に必要なのは、ただ、目の前にいる自分との絆だ。

 

「……いいんだよ。三智子。もう、いいんだ」

 

瞬は三智子の身体を、優しく、しかし力強く引き寄せ、抱きしめた。

彼女の涙が、瞬の首筋を濡らす。

 

「……良くないよ……。

……私、……瞬ちゃんに……あんなに酷い顔して……」

 

「いいんだ。あれは三智子じゃなかった。

……分かってるから。

三智子がどれだけ俺のことを思ってくれていたか。

……あの時、最期に……キスしてくれた時、全部伝わったよ。

……だから、謝らないで。……三智子が戻ってきてくれた。

それだけで、俺は……これまでしてきたことが、全部報われたんだ……」

 

瞬の言葉に、三智子の身体から微かに力が抜けた。

「……瞬ちゃん……」

 

二人は、誰に憚ることなく、互いの存在を確かめ合うように抱きしめ合った。

数え切れないほどの血が流れた。

数え切れないほどの絶望を味わった。

だが、そのすべては、今この瞬間のためだけにあったのだと、瞬は本気で思えた。

 

「……大好きだよ。……三智子。ずっと、ずっと……会いたかった」

 

瞬が囁くと、三智子は顔を上げ、涙に濡れた瞳で瞬を見つめた。

そこには、かつての弱々しさはなく、愛する人を二度と離さないという、強い意志が宿っていた。

 

「……私も。……私も、大好きだよ、……瞬ちゃん。

……もう、……どこにも行かないで……」

 

瞬は、彼女の濡れた頬を片手で包み、ゆっくりと顔を近づけた。

三智子も、静かに目を閉じる。 あの玉座の間での、血の味が混じった死の接吻ではない。

竜の聖域の清らかな光に祝福された、生と愛の接吻。

 

触れ合った唇から、互いの魂が溶け合うような熱が伝わってくる。

それは短くも、永遠を感じさせる時間だった。

 

 

「……ふむ。実に見事な光景よな」

 

静寂を破ったのは、地竜の低く響く声だった。

二人は慌てて唇を離し、顔を真っ赤にして離れた。

 

「くっくっく。

……まさか、我ら竜の目の前でこれほど熱烈な儀式を見せつけられるとは。

……若さゆえの奔放さか、あるいは人としての本能か」

 

白竜も、冷気を含んだ美声を響かせ、からかうように首を傾げた。

……三池瞬。……お前の剣の鋭さは知っていたが、

……その情熱もまた、相当なもののようだな」

 

「……あ、……いや、……これは……っ!」

 

瞬は頭を掻き、三智子は顔を伏せて彼の背中に隠れた。

先ほどまでの感動的な空気に加え、和やかな雰囲気が聖域を包み込む。

 

だが、イグニールが雰囲気を変え、一歩前へ踏み出した。

その巨大な影が瞬と三智子を覆い、場の空気が変わる。

 

囃し立てていた他の竜たちも、一瞬で貌から冗談を消し、峻烈な神格の威厳を取り戻した。

 

『――落ち着いたようだな。……三池瞬。そして中島三智子よ。

……ここからは、お前たちが真の意味で「自由」を掴み取るための、極めて重要な話をせねばならぬ』

 

イグニールの声は、親のような温かさを持ちながら、警告を発しようとする。

瞬は背筋を正し、三智子の手を握り締めたまま、竜の言葉を待った。

 

『瞬よ。……お前がこの領域、竜の聖域から一歩外へ出た瞬間……

女神ウンディーネがお前に声をかけるだろう。

……邪神を討ち取った勇者を称えるという名目で、お前は強制的に天界へと転送されるはずだ』

 

「女神……。……まだ、俺を離さないつもりなのか」

 

『当然だ。……あやつにとって、お前は「使える駒」に過ぎぬ。

……力をつけすぎたお前を、自らの監視下に置こうとするだろう。

……そして、最も危惧すべきは……この少女、中島三智子の存在だ』

 

イグニールは、三智子を鋭い眼光で見つめた。

 

『邪神の呪いから解放されたとはいえ、我らの力によって蘇った彼女は、

女神にとって「不純物」だ。

……もし、彼女が生きていることが女神に知れれば……

あやつは間違いなく、彼女を再び「浄化」の名の下に消し去ろうとするだろう。

……それが、あやつの「秩序」だ』

 

三智子が、瞬の腕を強く握った。

瞬は彼女を守るように前に出る。

 

「そんなことはさせない。……俺が、女神を……!」

 

『ならぬ。……今の消耗したお前が女神に正面から戦いを挑めば、

……お前だけでなく、この少女の魂も永遠に失われることになる。

……だから、瞬。……ここからは、我らの策に従え』

 

イグニールの声が、低く、重く響く。

 

『中島三智子の身は、我ら四竜が責任を持って引き受ける。

……女神の手の届かぬ、次元の狭間を通り……我らの全力を持って、

彼女を元の世界、お前たちの故郷である「日本」へと直接送り届ける。

……これは、我らにしかできぬ芸当だ』

 

瞬は目を見開いた。

「……三智子だけ、先に……?」

 

『そうだ。……そして瞬。……お前は独りで女神と対峙せねばならぬ。

……いいか、よく聞け。

お前は徹底して「三智子は死んだ」と演じ通せ。

……彼女の亡骸は邪神に消され、永遠に失われたのだと……。

……お前の慟哭と絶望を、奴に信じ込ませるのだ』

 

瞬の胸に、冷たい緊張が走った。

神を騙す。それは、どれだけの重さか。

 

『女神は、三智子を蘇らせ、共にこの世界で暮らすように、と甘い言葉をかけるだろう。

……その時、お前はこう答えるのだ。

……「もう、この世界には何の未練も無い。

自分一人でいいから、元の世界に帰してくれ」とな。

……決して、三智子のことを悟られてはならぬ。

……「一人で帰る」……。

その言葉こそが、女神の疑念を晴らす唯一の鍵となる』

 

「……三智子のことは、隠し通せ、ということか」

 

『そうだ。

……お前たちが日本で再会できるかどうかは、お前の演技にかかっている。

……三智子を先に帰し、お前が後から追いかける。

……そのためには、女神に「勇者瞬は、愛する人を失い、戦いに疲れ果て、独りで逃げ帰る愚者」と思わせねばならぬ』

 

三智子が、不安げに瞬を見つめた。

 

「……瞬ちゃん。……独りで大丈夫なの……?」

 

瞬は彼女の手を優しく握り返し、微笑んで見せた。

「大丈夫だよ。

……俺には、三智子が居るっていう『希望』があるんだから。

……女神を騙すくらい、なんてことないさ」

 

だが、瞬の内心は、かつてないほどの恐怖と怒りが渦巻いていた。

邪神を倒してもなお、まだ神との戦いが待っている。

愛する人と共に帰ることさえ、許されない。

 

(……待ってろよ、女神。……あんたの思い通りにはさせない。

……俺は、……俺たちの日常を、必ず取り戻す)

 

瞬の瞳に、静かな、しかし決して消えることのない反逆の炎が灯った。

イグニールが、満足げに鼻を鳴らした。

 

『――よし。……刻限は近い。

……瞬。……愚者としての仮面を被り、……愛する女を守るための「嘘」を突き通せ。

我らは、お前の背中を、この世界の果てまで見届けてやろう』

 

聖域の光が、一段と強まった。

それが、瞬にとっての「勇者としての戦い」の最終章の始まりであった。

 

 

「三智子。……先に帰っててくれ」

 

瞬は、三智子の手を強く握った。

三智子は涙を堪え、深く頷いた。

 

「……うん。……私、……待ってる。

……瞬ちゃんが帰ってくるまで、……ずっと、ずっと待ってるから」

 

「ああ。……約束だ」

 

イグニールたちの咆哮と共に、三智子の足元に巨大な魔法陣が展開された。

それは、竜の根源的な力の奔流。

三智子の身体が、光の粒子となって浮かび上がっていく。

 

「……瞬ちゃん!!」

 

「三智子ぉ!!」

 

最後に呼びかけ合い、手を離す。

三智子の姿が光の中に消え、竜の聖域から彼女の気配が完全に消滅した。 同時に、四竜たちも実体を消し、それぞれの領域で眠りにつく。

 

静まり返った聖域の中心で、瞬は独り立ち尽くした。

彼は、兜を深く被り、その表情を隠した。

彼の心にあるのは、三智子への愛と、それを守るための「神への欺瞞」。

 

「……さあ、来いよ。……女神サマ」

 

瞬がそう呟いた瞬間、空が裂けた。

圧倒的な、しかし不自然なほどに清浄な光が天から降り注ぎ、瞬の身体を強引に引き上げ始める。

 

天界への転送。

三池瞬の、最後の、そして最も孤独な戦いが、始まる。

 

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