竜の聖域を包んでいた静寂が、白光によって引き裂かれた。
次元を強引にこじ開けるその力は、あまりにも傲慢で、生命の営みに対する敬意など微塵も感じられない。
三池瞬の身体は、天へと引き上げられ、瞬きする間に「天界」へと転送されていた。
視界を埋め尽くすのは、目に痛いほどの純白と、黄金の回廊。
耳を打つのは、実体のない天使たちが奏でる、空虚な賛美歌。
「……来ましたね、勇者よ」
回廊の奥、高い玉座に鎮座するのは、この世界の管理者、女神ウンディーネであった。
彼女は慈愛に満ちた微笑を浮かべているが、その双眸は鋭く、瞬の魂の奥底を覗き込もうとしている。
瞬は、甲竜の兜の奥で、自身の表情を「勇者」へと固定した。
ここからは、一瞬の隙も許されない。
心臓の鼓動一つ、呼吸の乱れ一つが、自分たちの未来を左右する。
女神は優雅に玉座から立ち上がり、瞬の元へと歩み寄った。
彼女が纏う神気が、瞬の疲弊した身体を包み込み、癒し始める。
だが、その癒しはどこか冷淡で、傷ついた道具を修理するような冷たさを孕んでいた。
「邪神を討ち取ったこと、まずは称えましょう。
瞬。あなたは私の期待を超え、邪神を倒し、この世界に平和をもたらてくれました。
……ですが、少しばかり転送に時間がかかったようですね。
竜の領域へ運ばれたと聞き、心配しておりました」
女神の言葉には、隠しきれない「疑念」が混じっていた。
彼女は、四竜が、瞬に余計なことを吹き込んでいないか、て強く警戒している。
「……竜たちに、何か言われましたか?」
射抜くような視線。
瞬は、あらかじめ用意していた「怒りの表情」を、内側から爆発させるように顔に出した。
彼は拳を握りしめ、あえて女神の目を真っ向から睨みつける。
「何か言われたか、だと……!?
笑わせるな! 奴らは……あのトカゲどもは、ただの役立たずだったよ!!」
瞬の怒号が、天界を震わせた。女神の眉が、僅かにピクリと動く。
「俺に……、奴らはこう言ったんだ。
『三智子を救えなかった自分たちの無力を詫びる』と!
四竜だなんて大層な名前を名乗りながら、結局は邪神の力に怯え、三智子がルシーズとして苦しんでいる時も、死の淵にいた時も、奴らはただ見ていただけだったんだ!!」
瞬は声を枯らして叫び、足元を蹴り上げた。
「ねぎらいの言葉なんていらない!
奴らの謝罪なんて、一文の価値もないんだ!
なぜ、三智子を……俺の、たった一人の最愛の人を助けられないんだって、俺は奴らを怒鳴りつけてやったよ!!」
その叫びには、嘘偽りない「悲しみ」が混じっていた。
三智子を失った(と女神に見せかけている)慟哭を、竜たちへの怒りにすり替える。
その迫真の演技に、女神の瞳の奥にあった疑念の色が、みるみると薄れていくのを瞬は感じ取った。
(……そうだ。信じろ。俺は絶望し、周囲のすべてを憎む、哀れな勇者だと思い込め……!)
女神は、満足げに微笑んだ。
人間という矮小な種族は、感情に支配されやすい。
愛する者を失った喪失感を、他者への攻撃性に転化するのは、彼女にとって「理解しやすい人間の振る舞い」であった。
「そうでしたか。
竜たちも、あなたという傑出した勇者の前では、己の無力を恥じるしかなかったのでしょう。……ですが、悲しむことはありません、瞬」
女神は、瞬の肩に優しく手を置いた。
その感触に、瞬は吐き気を堪える。
「あのように清らかな魂を持つ少女が、邪神の犠牲になったままなど、この私が許しません。
約束通り……三智子は、私の力をもって、『完全な形』で蘇らせましょう。
彼女は、あなたと共にこの世界で生きる権利があります」
女神の提案は、かつての瞬であれば、涙を流して感謝したであろう「奇跡」の約束だった。
だが、今の瞬には、それがどれほど悍ましい「嘘」の宣告であるかが分かっていた。
「蘇った三智子と共に、この世界で二人の幸せを育むのです。
あなたは勇者として、これからも世界の平和を守り続ける義務がある。
……人々はあなたを王として称えるでしょう。
三智子も、この美しい世界の王妃として、永遠に等しい時をあなたと歩む。
……素晴らしいことだと思いませんか?」
「……この世界で、ずっと暮らせ……だと?」
瞬は、掠れた声で聞き返した。
女神は、さも当然だというように頷く。
「ええ。元の世界……『日本』でしたか?
あのような魔力もなく、寿命に縛られた不自由な世界へ戻るよりも、神の加護があるこの地で生きる方が、あなた達にとっても幸せなはずです。
……さあ、勇者よ。この手を取り、私と共にこの世界の秩序を守って下さい」
瞬の頭の中で、竜たちの警告が鳴り響いていた。
『女神は、お前をこの世界に縛り付けるために、三智子を蘇らせるという約束を守るだろう。
……魂の無い、肉の人形を。
……もしそれを受け入れれば、お前たちは二度と、故郷の土を踏むことはできない』
勝負の刻が来た。
瞬は、自分の中にある三智子への愛を、一時的に心の奥底、誰にも見えない深淵へと隠した。
そして、代わりに「俗物的な欲望」と「逃避の念」を、全身に行き渡らせる。
「……冗談じゃない!! ……誰が、こんな不便な世界に残るもんか!」
「……今、何と?」
女神の表情が、凍りついた。
瞬は、嘲笑うような笑みを浮かべ、首を左右に振った。
「邪神は倒したんだ。もう俺の仕事は終わったんだろ!?
なぜ、いつまでもこんな不衛生で、娯楽もない、殺伐とした世界にいなきゃいけないんだ!
魔法が使えるから何なんだ!?
美味い飯もなければ、最新のゲームも、清潔な風呂もない。
……俺は、疲れたんだよ!!」
瞬は、投げ出すようにその場に座り込んだ。
「邪神を倒せば帰してくれる……。あんたはそうも言ったはずだ。
……もう十分だ。解放してくれ。
俺は日本に帰って、元の普通の生活に戻りたいんだ!」
女神は、信じられないものを見るような目で瞬を見下ろした。
「……瞬、あなた……何を言っているのですか。
三智子のことはどうするのですか?
彼女は、このままでは一緒に日本へは帰れないのですよ……?」
「……どういう意味だ?」
「彼女の肉体は滅び、魂は彷徨っている。
それを、私の魔力によって結び付け、再構築するのです。
この世界と結びついた存在として蘇る彼女は、魔力のない日本へ戻れば、その存在を維持できず消滅してしまう。
……彼女が生きられるのは、この世界だけなのです。
……彼女を見捨てるというのですか?」
女神の言葉は、冷酷な二者択一だった。
『三智子と共にこの世界に残るか。彼女を捨てて自分だけ帰るか』
彼女は、彼が愛を選び、この世界の「守護者」という名の奴隷になることを確信していた。
瞬は、心の中で三智子に詫びた。
(三智子……許してくれ。
今から、きみが一番聞きたくない言葉を、俺は言う……!)
瞬は立ち上がり、狂ったように笑い出した。
その目は赤く充血し、怒りと利己的な欲望に染まっているように見えた。
「……ハハハ! 消滅? なら、好都合じゃないか!!」
「……なっ……!?」
「いいか、よく聞けよ、女神サマ!
俺はこの一年、三智子のことばっかり考えて、死ぬ思いをして戦ってきたんだ!
でも、その結果がこれだ! 彼女は、俺の手を血で汚させ、俺の心に一生消えない傷を植え付けた!
……あんな、死にざま……俺がどれだけ苦しんだか、あんたに分かるか!?」
瞬は一歩、女神へと詰め寄った。
その気迫に、神であるはずの彼女が思わず後ずさる。
「三智子はもう不要だ!!
そもそも、あんな女を連れて帰って、どうしろって言うんだ!?
日本に帰って、彼女があの殺戮の記憶を思い出して狂ったら、俺の人生はどうなる!?
……俺は、自分の人生をやり直したいんだ!
あの日、召喚される前に戻りたいんだよ!!」
瞬の怒鳴り声が、天界の回廊に反響する。
「あんな重い女、もう御免だ!
三智子はここに置いていく!
あんたが勝手に蘇らせて、勝手に聖女にでも何でもすればいいだろ!
……俺は帰る! 日本に帰してくれ!! 今すぐにだ!!」
沈黙が、天界を支配した。
女神は、瞬を見つめていた。
その瞳には、もはや慈愛も、期待も、興味さえも残っていない。
ただ、自らが選び出し、最高級の駒として育て上げた勇者が、これほどまでに矮小で、利己的で、愛さえもかなぐり捨てる「俗物」であったことへの、底知れない失望だけがあった。
「……そうですか。……三池瞬。私の選定が、どこで狂ったのか……」
女神は、溜息を吐いた。
彼女にとって、瞬はもはや「英雄」ではなく、ただの「邪神を倒すという役割を終えた、壊れた道具」に成り下がったのだ。
「……いいでしょう。邪神が消滅した今、この世界に大きな混乱は当面訪れない。
あなたが残ろうと帰ろうと、私の管理には些細な問題です。
……最低限の仕事は果たしたのですから、望み通り、その薄汚れた故郷へ帰して差し上げましょう」
女神は、興味を失ったように背を向けた。
彼女が掌を軽く振ると、瞬の足元に、強引で乱暴な次元の歪みが生じた。 それは、丁寧な送り出しではない。邪魔な塵を掃き出すような、傲慢な排除の力。
「……さようなら。二度と、私の視界に入らぬように」
次元の奔流が瞬の身体を飲み込み、引き裂くような衝撃が走る。
だが、瞬の心は、かつてないほどの歓喜と勝利感に満ち溢れていた。
(勝った……!!)
女神を騙し抜いた。
神の傲慢さを逆手に取り、自分を「価値のない男」だと思わせることで、真の自由を勝ち取ったのだ。
女神は、瞬が三智子を捨てたと思っている。
だからこそ、日本に帰った瞬をこれいじょう監視することも無いだろう。
瞬の身体が光の粒子となり、異世界の空を越え、星々を越え、概念の壁を突破していく。
意識が遠のく中、瞬の脳裏には、日本の情景が浮かんでいた。
夕暮れの風。 微かに香る、草と水の匂い。
そして、そこで自分を待っているはずの、世界で一番大切な少女の笑顔。
(今行くよ、三智子……! 俺たちの世界に、帰ろう……!)
まばゆい光がすべてを塗りつぶし、三池瞬の「勇者」としての物語は、ここに幕を閉じた。
そして、一人の「少年」としての、新しい人生の1ページが、今、開かれようとしていた。